風の行方

階段を上がる。


いつもはエレベータなのに、今日は階段だ。


だってそれのほうが今の俺の気分だから。


「あれ?」

普段通り鍵をシリンダーに差し込み回そうとしたところで解錠されていることに気づく。


「母さん帰ってるのか」


玄関の扉の上部横にある換気口。

そこからぬるい空気が匂いを乗せて俺にかかってきた。


ガチャリ。

ノブを下げると簡単に扉が開いた。


「おかえり!」

「ただ、いま」

久しぶりなその言葉は少しだけ喉にひっかかった。

それは同時に、さっきまでの勢いも落ち着かせられていた。


「遅いなぁ。どうした? 甘くて酸っぱい時間でも過ごしてきたか?」

「別に……それよりめずらしく早いね、今日は」

「まあね。裁判も一段落したし、たまにはね」


母さんは料理に集中したまま横顔だけを俺に見せながら喋る。

強くなった匂いのおかげでその正体はすぐに分かった。


「久しぶり、母さんのカレー」

「だろ! しししっ、うまいぞ。特に今日のは!」

そう言って母さんはちゃんと俺の顔を見ながら笑う。

目一杯つぶしたその顔が、今日見たあの時の彼女のあの顔となぜか同じに見えた。

「ん? どした」

「別に」

なんだか照れくさくなってそのまま自分の部屋まで早足でバタバタと足音を立てながら逃げ込むようにして入る。

その途中、今朝俺が干した洗濯物が綺麗に畳まれ積まれているのが横目に見えた。



―✱―



「すごい!」

そう言いながら彼女は、ほどけた髪に気づいていない様子で大きくジャンプした。

そのことで髪が縦に大きく揺れ、あの香しい匂いがもう一度俺の鼻まで届いた。

高校生にもなってその仕草はどうかと思ったけど、妙にハマっていて、まったく違和感はない。


「これ、落ちました」

手に持った彼女のリボンを返しながら言う。

「天くん! おめでとう! あなたは私のお眼鏡に叶いました! いえ、叶えてもらいましたと言ったほうがいいかしら!」

持っていた水色のリボンごと俺の手を両手で握る。

それはなにかを確信したように、頑なに、強く握られていた。


「ということだ。観念しろ」

肩に重く、大きな手がのしかかる。

「こいつは一度決めたら最後、もう融通は絶対に効かん。ちょっと待ってろ」

大男はヌーっと踵を返し、彼女とは真逆のとてもゆっくりとした速度で同じ扉を潜るようにして抜けていく。

「ちょっ!」

そのおかげで俺は、助けを求める事もできず、目の前の直視することなど到底不可能な笑顔を向けられ続けられるはめになった。


「しししっ……やっと、これで」

「え?」

待っている間、よく聴こえないその言葉を発した瞬間だけ彼女は顔を下に向けていた。


「ほれ」

大男は同じ場所まで戻ってきて早々一枚の紙切れを差し出してきた。

「入部届けだ。ここにクラスと名前を記入しろ」

「はあ」

俺は一方通行に進む状況変化に気の抜けた返事しかできないまま、それを受け取る。

「ん? もしかして、もう他の部活に入ってたか?」

「別に……あ」

唯一という助け舟をミスミス逃す。

「よし! なら書け!」


入部とは本来、本人の意思によって決められるものだということは十分理解している。

この時ばかりは俺も、自分がどうかしていたと今更ながらに思う。

「書けました」

けれど、その紙に書いた自分の名前は、今まで生きてきた中で一番綺麗に、そして、自信たっぷりに書けていた。


ぱっ! と、彼女が俺のクラスと名前が書かれた入部届けを攫うようにして受け取ると、水色のリボンで自分の髪を結直し、腰に手を当て仁王立ちの形を作った。


「1年D組 風間天くん! 入部おめでとう! 部長である私、天地鳴は君の入部を歓迎する! どうか存分にギターを弾きまくってくれ!! しししっ」


いたずらガキのように笑う彼女は、その不似合いな笑い声とともに本日三度目の力の込もった両手握手をしてきた。



―✱―



「で、天。あの大荷物はなんだ?」

リビングで久しぶりのカレーを心待ちにしていた俺に母さんが、どう考えてもカレーを運んできたとは思えない声を掛けてきた。


「ん? ああ、あれ。ギター、だけど」

俺の出したとぼけた声は、この場での自分の居心地を悪くする。


「やっぱり……」

そのやっぱりという母さんの声は、あの「やっぱり」とは明らかに違って聴こえた。

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