第3話 抜け落ちたお前ら
会社のオフィスに入ったとき、おれはとても気まずかった。両手足が生え変わったからじゃなく、遅刻してしまったからだ。
参った。
家を出た時間はいつもと変わらなかったと言うのに。いやだからこそ遅刻したと言うべきか。おれの足は全然言うことを聞いてくれなくて、走るどころか早歩きをしただけで転びそうになった。それで、電車に乗り遅れ、乗り継ぎも間に合わなかった。階段を上がるのも普段の3倍以上はかかったと思う。
上司に謝ってから自分のデスクに向かう。椅子に腰を下ろすと隣の先輩がこちらを向く。今ふわりと甘やかに香ったのはシャンプーだろうか。
「珍しいね。体調不良?」
「あ、いや、ちょっと足が」
「痛いの?」
「いえ。なんか、痺れてて」
「それ大丈夫? あんまり無理しないでね。って、どうしたのそれ」
先輩が指したのはおれの手だ。あの透明度のままではまずいと思って革の手袋をしてきたのだ。しかし今はもう4月末。寒がりでは説明が付かない。
「ちょっと手がかじかんでいるみたいで」
「本当に大丈夫なの? ヤバそうだったら病院行ってね」
「はい」
これで熱でも出ていてくれたら会社を休んだかもしれない、と考えてから、いやそもそも手足が生え変わるのも休むに値する理由ではあるんだよなと今さら思った。
仕事を始めてしまえば問題なく一日を終えられる。そんな風に考えていたが、甘かった。出社までには足の不自由さが際立っていたけれど、仕事では手の方が圧倒的に使用する。特にパソコンなど、指先の感度が重要だ。普段ならキーボードなど見なくても打てるのに、見ながら一字一字打ち込まないといけない。それでもタイプミスが起きる始末。額に脂汗を滲ませながら頑張ったが定時の17時を回っても、いつもの仕事の半分も終えられなかった。古い手がどれほど優秀だったかと思わずにはいられない。
見かねたのか、先輩が仕事を手伝ってくれると言ってくれた。ありがたかったが、申し訳なく、そして惨めだった。それを上司に見られて怒られた。理不尽なことに、先輩までも怒られてしまった。情けなくて情けなくて、涙が出た。悔し涙なんて、いつ以来だろう。覚えている限りでの最後の悔し泣きは、小学校6年生のころ。小学生限定のバスケット……ミニバスケットって言ったっけ? それまでずっとセンターだったのに突然ポイントガードに回されて、納得いかないままに試合に出て案の定ボロクソに負けてコーチに怒られたときだ。おれがセンターをやっていたのは単純に背が高かったからなんだけれど、チームメイトの身長がぐんぐん伸びて、気付いたらおれが一番低くなっていた。思い返せば、あのとき泣いたのはコーチの理不尽な怒りに言い返せなかったからじゃあなくて、他のポジションやっていたやつがおれの代わりにセンターをやれたのに、その逆ができなかったからなんだと思う。結局おれはバスケが上手かったんじゃなくて、ただ背が高かっただけ。それを認めざるを得なかった。惨めで、情けなかった。
先輩のフォローのおかげで、なんとか21時には仕事を終えた。謝るしかないおれに先輩は「ナイスガッツ」と励ましてくれた。今度、ちょっと高めのランチでもごちそうさせて頂こうと思った。
帰路についてから、ふと両手足のことを考えていた。
なぜ急に生え変わった。なぜ今日。
ミニバスのときもそうだ。なにも試合の直前で変えなくてもいいじゃあないか。何カ月か前にポジションチェンジをして、なぜそのような采配になったのか説明して、練習する時間を作ってくれたら良かったのに。
両手足だって、突然抜け落ちることないじゃあないか。使いにくいとはいえ、一晩で手足の形を成すくらいだ。二日くらい猶予があればなんとかなかったのではないか。せめて金曜日の夜に抜けてくれたら良かったのに。
宛て先のないイライラが募り、暴力的な妄想を繰り返しては、ダメだダメだ、と頭を振って打ち消した。
帰宅し、ダイニングキッチンに入ると、背筋が凍り付いた。
古い手足を入れておいたビニール袋が破かれているのだ。そして両手足は朝初めに見たポジションに戻っていた。どうやら自分のお気に入りのポジションがあるようだ。
両手足の癖に偉そうだな。
そもそもこいつらがいきなり抜け落ちなければと言うイライラがあったせいか、四つに対して少し攻撃的な感想を抱いてしまう。
特段危害を加えてきそうな気配もないので、それらは放っておいてトイレに行くことにする。トイレに入ってズボンを下ろそうとしたが、なかなかベルトを外せない。ふにゃふにゃの指先に加え、便意から来る焦りもあって手がすべってしまう。
「くそ、くそぉっ」
このままだと漏れる。
すると突然トイレの扉が開き、うしろから手が伸びて来た。古い両手だ。
「なになになになに!?」
驚くおれを無視して、古い両手はベルトを乱暴に取り外そうとする。
「いやいやいやいやいやいやいや! いやだあぁあああ!」
パニックになった。ただ叫ぶしかない。自分がなにを言っているかはよくわからない。
そうこうするうちに、ベルトが外れ、ホックが外れ、ズボンが下ろされた。訳のわからない状態だが、便意には抗えずそのまま便座に腰を落とした。
おれが用を足している間、古い両手は見守るようにずっとそこにいた。空中に浮いているようにも見え、壁に張り付いているようにも見えたが、原理などはどうでも良かった。なにがどうあれこいつらのおかげで助かった。逆に言えばこいつらがいなければお漏らしをしていたと言うことになる。なんと無様だろうか。仕事を手伝ってくれた先輩の気まずそうな笑顔を思い出す。そりゃ、見てもいられないだろう。こんな後輩。
出し尽くした安堵も相まって、なんだか泣けて来た。最初に雫がぽたぽたと落ちると声もつられてすべり出して、悪臭立ち込めるトイレの中でわんわん泣いた。
頭の上になにかが載った。それは撫でるようにスライドし始めた。目の端で捉えたそれは、古い片手だった。慰めているのか? だとしたらふざけるな。
おれはその古い手を掴んで、ブンッと振って壁にぶつけた。
「そもそも!」
勝手に抜け落ちたお前らのせいでこうなったんだろうが。
「それを『してやった』みたいに!」
おれの怒声が理解できたのかはわからない。が、壁にぶつけられた方の片手は、壁に寄り掛かっていた方の手の肩の方を持って、それを振りかざして来た。明確な敵意だ。
片手の肩から始まった円運動が指先まで来ると、今度はもう片方の手の肩へと運動を繋いで、大きな遠心力を伴いながらおれの頭へと迫った。手でガードしたが、激痛が走った。見ると少し凹んでいた。新しい手はまだやわらかいのだ。殴り合ったら物理的に敵わない。
このまま殴り続けられたら殺されるんじゃないのか? そんな心配がよぎったが、古い手たちはそれ以上攻撃の意思を示さなかった。そもそもこいつらに意思があるかどうかはわからないけれど。
「悪かったよ」
一応謝っておいた。
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