第3話

 橙色の光がカーテンから射し込んでいる。ああ、もう夕方だ。いい加減起きなければと思うけど、身体がダルくて動けない。風邪を引いたとかそう言うことじゃなくて、これは僕の気持ちの問題なんだけど。

 確か母さんが仕事へ行く前に、学校へ連絡をしておいてくれたような気がする。学校、ずる休みしちゃったな。


 喉が酷く渇いて、僕は仕方なく布団から顔を出す。暖房も入れず着替えもせず、昨日のリュックをベッドの脇に放り出したまま寝てしまったようだ。

 震えながら階段を駆け下りて台所へ向かい、冷蔵庫からコーラを取り出す。元カレの好物だと言うのに、そんなことに心を痛めている余裕はなかった。軽快な音を立てて蓋を捻り、黒いしゅわしゅわした液体を口に含む。甘ったるい炭酸は、昨日の事を忘れさせてくれなかった。


 僕以外に優しくなんかしないで。誰も、僕からムギをとらないで。

 あの時の僕は、みっともない嫉妬心と独占欲の塊だった。

 なんで、あんなことを思っちゃったんだろう。僕はムギの恋人でもない、ただの友人なのに。

 知らず知らずのうちに僕は、いつも慰めてくれるムギに依存していたのだろうか。心の拠り所を自分だけのものにしたくて、あんなことを。


「僕にムギを束縛する権利なんてない。何様のつもりだよ」

 吐き出した言葉は毒々しくて、余計に気分が悪くなってくる。これ以上飲む気にならなくて、コーラを元に戻してやや乱暴に冷蔵庫を閉めた。

 ポケットに入っていたスマートフォンを取り出すと、気を紛らわせるためにメッセージをチェックする。昨晩と今朝に一件ずつ、ムギから僕の体調を気遣うメッセージが入っていた。嬉しさと申し訳なさで胸が締めつけられる。

 駄目だ、逆効果だ。そこで、もう一件メッセージが届いていることに気づく。ねぇちゃんからだ。


『シフォンケーキは食べた? また容器を回収に行くから、綺麗に洗っておきなさいよ』

 全く関係ない言葉が、今はありがたかった。

 この胸の中でぐるぐる渦巻く感情をどうにかしたくて、誰かに吐き出したくて。情けないとは思いながらも、僕はねぇちゃんにメッセージを送る。

『ねぇちゃんどうしよう。自分の気持ちが分からない。もやもやして気持ち悪い。こんなの、どうしたら良いか分かんないよ』


 あっという間についた既読の表示に、驚いてうろたえてしまう。言い訳を打ち込む間もなく、ねぇちゃんから電話がかかってきた。

 藁にも縋る気持ちで、通話ボタンをタップする。

『――アンタ、何があったのよ』

 ちょっと怒ってて、でも優しい声を聞いたら、もう駄目だった。

 決壊したように感情が溢れて、僕は昨日あった出来事とムギへの想いをねぇちゃんに吐露する。途切れてつっかえて支離滅裂な言葉を、ねぇちゃんは辛抱強く聞いてくれた。


「ムギはさ、僕の友達なんだよ。友達な、はずなのに。もう、この想いが何なのか、ぜんぜん分かんないよ……」

 少しだけ間を開けて、ねぇちゃんは長い長いため息を吐いた。

 全く、アンタってもう。

 心底呆れた声が聞こえる。


『そうか。アンタ、よっぽど綺麗な恋しかしてこなかったのね。あー、どおりでお別れも早いわけだわ。相手が望むならって、縋ることすらしなかったんでしょう?』

「恋って、綺麗で幸せなものじゃないの?」

 アンタがそう思うなら、そうなんでしょうね。

 首を傾げた僕に、ねぇちゃんの投げやりな呟きが届く。突然突き放されたようで、僕は途方に暮れてしまう。


『あのね、アンタの気持ちなんてアンタにしか分かんないの、決められないの! 私は昴じゃないんだから』

「それは、そうだろうけど」

『悩むならいっそ、麦人くん本人に相談しちゃいなさいよ!』

「え……? 嘘、ねぇちゃ」

 とんでもなくハードルの高いことを言って、ねぇちゃんは一方的に通話を切ってしまった。

 いや、ムギ本人に相談しろって、そんなのできる訳ないだろ。

「もう、どうしろって言うんだよ……」


 その時、静かな部屋にインターフォンの音が大きく鳴り響いた。肩を震わせて、リビングの壁にあるモニターへ視線を向ける。遠慮がちに間を置いて、もう一度音が鳴った。

 誰だろう。モニターの前まで歩いていって、反射的に通話ボタンを押して返事をする。

 機械を通して、今一番会いたくない人が現れた。


『昴、俺だ。昨日様子がおかしかったし、メッセージがなかなか既読にならなかったから。来ちまった』

 ムギだ。途端に体がこわばって、思わず息を潜める。どうしよう。でも、居留守を使おうにも、もう返事をしちゃったから僕がいるのはバレてる。

『体調が悪いって言ってたけど、良かったら顔、見せてくれねぇか?』

 首を激しく横に振って、伝わらないと気づいて慌ててごめんと口にする。

 しばらく間が合って、ムギが躊躇うように声を発する。


『勘違いだったら、ごめんな。もしかして体調が悪かったんじゃなくて、俺が何かお前を傷つけるようなことを言ったんじゃないか?』

「そ――そんなんじゃない! 本当に体調が悪かっただけだから」

『だったらどうしてあんな、突然逃げるみたいにして帰ったんだ? 体調が悪い素振りなんてなかったのに、急すぎるだろ』

 追及するようなムギの問いに、背筋が凍りつく。ムギは僕の仮病に感づいているのかも。

 どうしよう、どうしたら良いんだろう。


 黙っていたら、ムギの諦めるみたいなため息が聞こえた。

『——悪りぃ。お前の態度がどうしても気になって、責めるつもりはなかったんだ。元気なら良い。また、学校でな』

「待って!」

 僕は咄嗟に玄関へ向かう。気づいたら鍵を開け、勢いよく扉を開いていた。

 制服の上にいつものコートを着て、学校帰りのムギが目を丸くして立っている。

 このままムギを帰しちゃいけない、そう思ったのもあるけど。いっそねぇちゃんの言う通り、何もかも打ち明けた方が楽になれるんだろうか。


「入って。ちゃんと話すから」

 自嘲気味に笑って、僕はムギを家に入れた。両親が仕事の忙しい人で良かった。まだ当分帰ってこない。

 二階の僕の部屋にムギを誘導して、部屋に転がっている荷物やゴミを適当に押し退け、カーペットに二人分の座るスペースを開けた。いつものカラオケ店と違って、しんと静まり返った室内は妙に緊張する。

 ベッドの横に向かい合って腰を下ろし、僕はムギの顔を見つめた。


「あの日は、突然帰ったりして、ごめんね」

「いや、それは良いんだけどさ」

 ムギも酷く戸惑って、緊張した顔をしている。僕の、この気持ちを告白したら、ムギになんて思われるだろう。自棄になった僕の唇から、不自然な笑みがこぼれた。

「さっきも言ったけど、ムギは何も悪くないんだ。ただの、僕の気持ちの問題。なんかね、あの時女の子と会ったでしょ? 僕、馬鹿な事考えちゃってさ」

 大きく息を吸って、膝の上で拳を強く握る。さすがにムギの顔を見ていられなくなって、僕は視線を斜め下に逸らした。


「ムギが、僕以外の誰かを慰めたり優しくしてあげてるって聞いて、ものすごく嫌な気持ちになった。胸が苦しくなって、見知らぬ誰かに対する真っ黒でドロドロした感情がどんどん溢れて止まらなくて。そんなことを思ってしまう僕自身が、本当に嫌で気持ち悪くて。それでつい、その場から逃げ出しちゃったんだ」


 これは友人関係ではなくて、恋愛感情からくる嫉妬なのだろうかとも考えた。

 けど恋は、こんなドロドロして嫌なものじゃない。

 相手の笑顔が見たくて相手の望むことをしてあげて、相手の喜ぶ顔に僕も幸せになる。恋に落ちたキラキラした瞬間がずっと続くような、幸せな気持ちが「恋」なんだ。

 それがずっと、僕にとっての恋だったんだ。

 だからこんな独りよがりで我儘で、汚い感情は恋なんかじゃないんだ。


「僕はムギの恋人でも何でもないのに。ただの友達にこんなことを思われるなんて嫌だろ? 気持ち悪いだろ? だから――ごめんね」

 僕たち距離を置いた方が良いかもしれない。その言葉は何故か言い出せなくて、僕は曖昧な謝罪の言葉を口にした。また自分に対する嫌悪感がじわじわと押し寄せてきて、思い切り歯を食いしばる。

 薄暗い冷えた部屋に、ふっとムギの柔らかい吐息が響いた。


「昴が嫌なら、俺はお前以外の人を慰めたりしない。話も聞かないし、必要以上に優しくもしない。お前が俺を思い切り独占したらいいだろ」

 勢いよく顔を上げると、眉を下げて微笑むムギと目が合った。

 なんで、どうして、そんなに優しいのさ。

 僕を全部許して受け止めてくれるような視線に、心臓が強く締めつけられる。


「どうして……僕の、ただの我儘だろ? ムギには関係ないだろ? なんで律儀に、付き合ってくれようとするんだよ」

 すると一瞬、ムギの顔から感情が抜け落ちた。すぐにちょっと寂しげな笑みを浮かべて、ムギは首を横に振る。

「理由は言わない。だってお前の気持ちはお前に決めてほしいから。そんなズルいことはしたくないんだ」

「何、それ、どういうことだよ? 全然分かんな」

 そう言いかけて、ふと、ねぇちゃんの言葉が頭によみがえった。

『あのね、アンタの気持ちなんてアンタにしか分かんないの、決められないの!』

 僕はあの時、ねぇちゃんに突き放されたんだと思ったけど、もしかしてアレはそうじゃなくて。


「必要な時は、また連絡してくれ。それと、明日からちゃんと学校に来いよ。四月からは受験生なのに、勉強おくれても知らねぇぞ」

 不自然なほど明るく笑って立ち上がり、ムギが僕に背を向ける。

「――駄目だ‼」

 僕は足を滑らせながら立ち上がって、縋るようにムギの右腕を掴む。大きく肩を震わせて、ムギが弾かれたように振り返った。


 ああ、僕って本当に大馬鹿だ。ヒントはいくらでもあったのに気づかないふりをして、ねぇちゃんにもムギにも迷惑をかけて。

 僕の目からぽろっと大粒の涙がこぼれたのを見て、ムギが大きく目を見開く。

「帰らないで。分かったよ、僕の気持ち。いや、多分、最初から答えは出てたんだ。僕がくだらないことにこだわって、すぐに認められなかっただけで」

 ヤバい、涙が止まんない。ぐちゃぐちゃな顔を腕で乱暴に擦って、僕は必死で顔を上げた。


「我儘言ってごめん。こんなどうしようもない僕に優しくしてくれて、今まで迷惑いっぱいかけた上に、こんなワケわかんない気持ちを打ち明けてごめん。それで、今からもっと意味が分かんないこと言うと思うんだけど、僕は、僕――」


 カラフルでキラキラしてて、相手のために全力で尽くしてあげる、惜しみなく愛をあげるのが僕の恋、だった。

 ムギに対するこの気持ちは、欲まみれで我儘で全然綺麗なものじゃないけれど。


「僕が辛い時にはムギに慰めてほしい。思い切り甘えさせてほしい。みっともない所も、醜いところも全部受け止めて、僕だけに優しくしてくれたら嬉しい。僕が楽しい時だけじゃなくて、一番悲しい時や寂しい時に、隣にいるのはムギが良い。絶対にムギじゃなきゃ、嫌なんだ」


 こんな気持ちなんか絶対に違うって、目を逸らしていたけれど。ムギのことを考え始めたその時からきっと、僕の心はムギと恋がしたいって、この感情が「恋」になればいいのにって、ずっと叫んでたんだ。

 だから。


「だからムギのこと、『好きだ』って、言ってもいいかな?」


 突然腕を引かれて、胸に強く何かがぶつかった。背中に回された腕と押しつけられた温もりが、じんわりと冷えた体に染み入っていく。首元にかかる吐息の生々しさに、ぶわっと体温が一気に上がる。ムギに抱きしめられたのだ。

 どうして。僕は咄嗟に離れようとしたけど、ムギの言葉に体の動きを止められてしまう。


「本当か? 俺の言葉に流されたわけじゃないんだな? 本当に、俺が好きって思ってくれてるんだよな……?」

 掠れた声に強張った体の力が抜けていく。返事をしなければと、僕は必死で首を縦に振った。

「ちゃんと、僕の本当の気持ちだよ」

 全然キラキラじゃないこの気持ちを、僕は「恋」って呼ぶって決めたんだ。


 僕の答えを聞いて、ムギはぐっと腕に力を込める。離さないと言わんばかりの力強さに、僕の心臓は激しく動き出す。震えたムギの言葉が、甘く僕の耳をくすぐった。

「昴が好きだ」

「は……」

「もう、ずっと、ずっと前から好きだったんだ」

「え」


 更に、心臓が大きく震えた。

 あ、そうか、そうだ。ズルいってそう言うことなのか。え、でもなんで、いつから。

 色々な疑問がぐるぐると頭の中を回って、僕はゆっくりと首を横に振る。

「いつ、から……?」

「多分、出会った頃から。公園で一人泣いてるお前が、なんか、ほっとけなくて」

 そんなに前から、僕のことを好きでいてくれていたのか。ムギの答えに、ちくりと胸が痛む。


「でも、俺はお前の好みには程遠くて、いくら近くにいても、お前が追いかけるのは別の人だった。だから、この想いはいつか諦めなきゃいけないんだと思ってた。でも、それでも諦めきれなくて、せめて失恋したお前を慰める役目だけは譲りたくなくて、この瞬間だけは、この立ち位置だけは俺のもの、俺だけのものだってそう思って、無理矢理自分を慰めてたんだ。こんな気持ちを抱く俺が気持ち悪くて、やっぱりお前の言うキラキラした人にはなれないんだって、そんな風に思ってた」


 そうだったんだ。僕はずっとムギに辛い想いをさせてしまっていたのか。

「ごめ」

「謝るな」

 黙れとでも言うように、口元をムギの肩に押しつけられた。

「俺は純粋な気持ちでお前を慰めてたわけじゃない。見た目も地味だし、中身も、キラキラなんてしてないぞ」

 両肩を掴まれて、そっと体を離され見つめ合う。ムギは心底不安そうに眉を寄せていた。


「俺、実は嫉妬深いから、一度捕まえたらもう離してやれない。他のヤツに目移りとかも、絶対に許せそうにない。本当に、俺で良いんだな?」

 何故だろう。自分の時には、あれほど醜いと思っていた気持ちが、ムギが僕に向けてくれたものだと思うと、こんなに愛しく思える。

 ドキドキして、温かい感情が胸いっぱいに膨らんで。苦しいけど、心地いい。なんだか、別の意味で泣きそうだ。

 僕が何とか絞り出した声は、つたなくて震えていた。


「ムギが、良いんだ」

 ふっと両目を細めて、ムギがとろけるような笑みを浮かべる。心臓を物凄い勢いで貫かれ、僕の口から変な声が出た。

「へぁ――」

 ムギの顔が、すごく優しくて柔らかくてキラキラして見える。え、今までこんなことなかったのに、嘘だろ。

 直視できなくて、僕は馬鹿みたいに熱くなった顔を思い切り背けた。


「え、自覚した途端にコレって、いくらなんでも僕ってチョロ過ぎない?」

「は? 何が?」

 眉を顰めるムギの顔がいつも通り過ぎて、なんだか笑いがこみ上げてくる。

「なんでもない!」

 大声で笑って、僕は新しいキラキラを捕まえるみたいに、ムギの胸へと飛び込んだ。




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君はキラキラを背負(しょ)ってない 寺音 @j-s-0730

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