第2話

 自転車を駐輪場に停めて、僕は両手を擦り合わせる。いくら防寒をしていても、風を切って進む真冬の自転車通学は寒い。手袋をしていたにも関わらず、指先の感覚がなくなってしまった。早く校舎の中に入りたい。

 顔を上げれば、分厚い灰色の雲が空を覆い隠していた。雪でも降りそうな天気だが、この辺は雪が降らない地域だ。ちょっと残念。

 まぁ、降ったら降ったで自転車で走れなくなるから困るけど。


「おはよう」

 芯のある低い声と同時に肩に手が乗って、僕は悲鳴を上げて振り返る。驚かせたことに対してだろう、ちょっとバツが悪そうな顔をしてムギが僕を見下ろしていた。

「悪りぃ、驚かせたか」

「いや、大丈夫。おはよう」


 改めて僕が挨拶をすると、ムギは力を抜くようにして笑った。

 頭にファー付きのフードを被っていたが、鼻の先が赤くて寒そうだ。ムギは電車通学なので、駅からここまでは歩いてきたのだろう。

「あー、今日も寒いな。早く中に入ろうぜ」

 促されて、僕は慌ててムギの後を追った。いつものように隣に立とうとして、ふと歩調を緩めてほんの少しだけムギの後ろを歩く。

 全く、ねぇちゃんが変なこと言うから、妙に意識してしまうじゃないか。そして、こっそりとムギの横顔を見上げた。


 うん、まぁいい男だとは思う。短く切っただけの髪形やこれといった特徴のない顔立ちは地味だし、性格はちょっとマイペース過ぎるところがあるけど、なんだかんだ優しいし頼りになる。一緒にいて落ち着くタイプだし、身長だって高いし服装に清潔感はある。詳しくはないけど、きっとモテるのだろう。

 だけど、どんなにムギを見つめても、僕の視界はキラキラしてこないし心臓は穏やかな鼓動を刻んでいる。やっぱりムギと恋愛なんてありえない。ムギとはずっといい友達として付き合っていければ良いや。

 そこで先週の出来事を思い出し、僕はあっと声を上げる。


「そうだ、ムギ。この前、カラオケに付き合わせたお礼してなかったよな? 何が良い?」

 すっかり忘れていた。いつも失恋の愚痴に付き合わせた後は、埋め合わせをしているのだ。ムギはカラオケ代だけで十分だって言ってくれたけど、決して楽しい時間じゃないだろうしね。前は課題の手伝い、さらにその前はたい焼きを奢ったんだっけ。今回は何が良いだろう。


 足を速めて隣に並ぶと、僕はムギに笑みを見せる。ムギは少しだけ考える素振りを見せて、歯を零して笑った。

「そうだなぁ。じゃあ、旨いって評判のラーメン屋があるんだ。奢ってくれよ」

「ラーメン? 良いねー! こんな寒い日はあったかいもの食べたいよな」

 話が盛り上がって、早速放課後食べに行くことになった。

 元カレとは、つい気取ってお洒落なカフェとか、そこそこのお値段がするレストランとかばっかりだったから、ラーメン屋なんてすごく久しぶりだ。ワクワクする気持ちを抱いて、僕はマフラーの中に緩んだ口元をうずめた。





 放課後になり、僕たちは意気揚々とラーメン屋へ向かった。足のないムギに合わせて三十分近く歩いたせいで空腹はピーク、身体もすっかり冷えている。美味しくラーメンを食べるには絶好のタイミング、だと思っていたのだが。

「今日、お休みみたいなんだけど……」

「だな」


 僕たちは、「臨時休業」の木札が立てかけてある店の前で項垂れた。

 なんでよりによって休みの日に来ちゃうんだよ。おまけに、ラーメン屋の周辺は閑静な住宅街で飲食店など何もない。

 ああ、お腹空いたな。

 僕はちらりとムギの横顔を見上げる。これが恋人とのデートだったら、定休日なんかのリサーチは絶対に欠かさないのに。うん、ムギ相手で完全に気が抜けてたよ。


「どうする? 僕、すっごいお腹空いたんだけど」

 僕が声をかけると、ムギは周辺に視線を巡らせてから頷いた。

「仕方ない。そこのコンビニで何か買ってくるか」

「え? コンビニ?」

 それで良いの、と僕が戸惑っている間に、ムギはさっさと四角い建物めがけて歩いていってしまう。あっという間に自動ドアをくぐりそうになっているのを見て、僕も慌てて後を追う。

 コンビニの中に入ると、優しげな女性店員さんの声と暖房の効いた温かい空気が出迎えてくれた。


「昴。お前、何食べる? この肉まん旨そうだぞ。すみません、肉まん一つください」

「ええ、決めるの早いよ! 待って待って」

 レジ前のムギの下へ駆けつけると、蒸し器の中には真っ白でふっくらとした肉まんが鎮座していた。

「おぁー! 美味しそう! あ、でもピザまんがあるなら僕、そっちが良いな」

「なんだと? 敢えて邪道を行くのか、お前」

「いや、邪道ってなんだよ、美味しいじゃん! あ、あと唐揚げも買おう! ピザまんと唐揚げのコンソメ味ください」

「あ、俺も唐揚げ買う。シンプルな味こそ至高だ」


 何故かキメ顔で醬油味を選んだムギがおかしくて、僕はケラケラと声を出して笑う。

 気づけば、母さんくらいの年の店員さんに温かいまなざしを向けられていた。一気に顔が熱くなる。なんか、ムギといると子どもっぽくなっちゃうんだよな。かと言って、普段の僕が大人っぽいわけでもないけど。

 僕がうつむいて考えごとをしている間に、ムギはあったかい緑茶も追加して店員さんに会計を頼んでいる。


「よろしければ、入り口横のイートインスペースをご利用くださいね」

「あ、そうなんすか。ありがとうございます。昴、外は寒いしここで食べて行こうぜ」

 ピザまんと唐揚げを両手で持って緑茶を脇に挟み、ムギが口の端を持ち上げるようにして笑っている。あれ、そもそもムギへのお礼だったのに、お金は僕が払わなくても良かったのかな。


「ムギの分も払おうか?」

「ああ、それはまた別の機会ってことで」

 本当に、良いのかなぁ。迷ったが、ムギがやけに機嫌良さげだったので、僕は自分の分のピザまんと唐揚げと、コーヒーマシンで作るホットコーヒーのお金だけを払う。

 コーヒーを淹れてから入口へ戻ると、店員さんが言っていたように、ガラス窓に面した形で長いテーブルと椅子が設置されていた。他のお客は誰もいない。


 僕はムギの隣の椅子を引いて腰を下ろすと、待ってましたとばかり、四角い紙をめくってピザまんにかぶりつく。トマトの酸味とチーズのまろやかさが冷えた体に染みる。ちょっと熱すぎたかも。

 口をハフハフと動かして熱を逃しつつ、僕はピザまんを飲み込んだ。


「あー美味しいー。あったかいものが染みるぅ」

「だなー」

 ムギは目を柔らかく細めて、大きな口を開けて肉まんを頬張った。

 しばらく二人して無言で口を動かす。なんだか気が抜けてぼーっとしてしまう。たまに窓の外を、自動車や自転車がのんびりと通り過ぎていく。

 ピザまんの最後の一口を食べ終えて、僕は指で唐揚げを摘んで口に放り込む。

 あ、こっちも美味しい。サクサクの衣とジューシーな肉汁がたまらない。


「お、見てみろよ、昴。ちょっと晴れてきたぞ」

 ムギの言葉に顔を上げると、ガラス越しに見える分厚い雲から淡い光が透けていた。うわぁ本当だ、あんなに天気が悪かったのに。

「日が射すとあったかく感じるよね。晴れてるなら外で食べるのも良いかもなぁ」

 ふんわりした思考で、外で食べるご飯を想像する。確かここからもう少し歩けば海が見える場所に出るはずだ。海を眺めながら、なんて気持ちがいいだろうな。

 どこかふわふわした思考でいると、ムギがからかうような調子で呟く。


「でも海辺でメシは、油断してるとトンビに持っていかれるぞ」

「え、えええっ!? 嘘⁉︎」

 僕が声を裏返し目を丸くしたのを見て、ムギはニヤリとおかしそうに笑う。

「本当。経験談だからな。あいつら結構器用にかっさらっていくから」

「いや、経験済みなのかよ⁉︎ うわ、怖っ。そんなことあるんだ」

 ゾッとしつつもなんだか可笑しくなってきて、ドヤ顔のムギを見ながら僕も笑う。

 その時、コンビニの自動ドアが開いた。


「麦人くん!」

 同時に飛び込んできた声に、頭の上に水をひっくり返されたみたいに熱が冷めていく。振り返ってみれば、小動物のように可愛らしい女の子が立っていた。その子はムギの方を見ながら、はにかむような笑みを浮かべている。

「おおー」

 ムギは気安く片手を上げて応えていた。知り合い、なのだろう。その子は僕に軽く会釈をすると、視線をムギに戻して両手を顔の前で合わせた。


「この前は、色々話を聞いてくれてありがとう。おかげでちょっと自信が持てたよ」

「それは良かった」

「また、何かあったら相談に乗ってくれる……?」

 なんとも可愛らしく首を傾げ、その子は頬を染めている。これってもしかして。

「おー、俺で良ければな」

 ムギはいつも通りのあっさりとした口調だけど、どこか雰囲気が柔らかい。女の子は満足そうに頷いて顔の横で小さく手を振ると、何も買わずにコンビニから出て行った。

 外からムギの姿を見かけて、その一言を言うためだけに入ってきたのだろうか。


「えっと、あの子ってムギの知り合い?」

「同じ委員会の子。部活のことで相談があるって、何度か話を聞いたんだ」

「そう、なの……?」

意外そうに数回瞬きをしてムギが言う。

「俺、友達とかにもよく愚痴を聞かされたり相談に乗ったりしてるから、珍しいことでもないぞ。多分俺がべらべら喋らないから、そう言う話とかしやすいんじゃないか?」

 お前だってそうだろ。さらりと告げて、ムギが残りの肉まんをまとめて口に押し込んだ。


 は、なんだよソレ。聞いてない。

 ムギが僕の知らないところで、僕じゃない誰かを慰めている光景が頭に浮かぶ。視界が真っ赤に染まって、頭にカッと血が上った。同時にどろりと、胸の中から黒い気持ちが溢れてくる。傷から溢れる血液のように、じわじわと赤黒い染みを広げていく。

 喉が焼けるように熱くて、僕は喘ぐように息を吐き出した。


「――昴?」

 訝しげにムギが僕を呼ぶ。肩を大きく震わせて我に返ると、僕は思わず両手で口元を覆った。喉がひゅっとすぼまって全身が一気に冷えていく。

 待って、僕はさっき何を思ったんだ。ムギがあの女の子や、別の人の相談にも乗っていると知って、優しくされていたのは僕だけじゃなかったと知って、僕の心は確かに「嫌だ」と叫んだ。あの子や見知らぬ誰かを憎いとすら感じた。

 耳元で心臓がドクドクと鳴っている。なんで、どうして嫌だなんて思ったんだ僕は。

 まさか嫉妬。ムギに対する独占欲、なのか。

 なんだこれ。何でこんな風になるんだよ。

 ゆっくりと首を横に振る。気持ちが悪い。

 僕の中に生まれた感情が、吐き気を覚えるほど気持ちが悪かった。


「おい、昴⁉︎ 大丈夫か⁉︎」

 焦って背中をさすってくれる、ムギの声がやたら遠い。やめろよ、触らないでくれ。

 その手を振り払ってしまいそうな衝動に駆られたのを、僕は喉を鳴らして必死で押し殺す。

「大丈夫。でもごめん、僕今日はもう帰るね」

「は? そうなのか? あ、だったら家まで送って」

「大丈夫だから! ついてこないで!」

 僕の口から飛び出した強い言葉に、背筋が凍りつく。気づけば僕は立ち上がっていて、ムギの顔を見下ろしていた。

 目を見開いたムギが、叱られた子どものような顔で僕を見上げている。

 傷つけた、のだろうか。視線を逸らして、僕は絞り出すように声を出した。


「大声出してごめん。本当に大丈夫、だから。今は……一人にしてほしい」

 息を長く吐いて、微かな声でムギが分かったと呟く。

 罪悪感と自分への嫌悪感で押しつぶされそうになりながら、僕はなんとか自分の家まで帰りついた。

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