第68話 もっと強く抱きしめたなら(1992年)WANDS

 平成2年5月 東京六大学野球・早慶戦の後


 新宿コマ劇場の前では早稲田大学の学生が祝勝で大騒ぎをしていた。

 こともあろうに、どこかの誰かが、体育会系のサークルの臙脂えんじ(早稲田のスクールカラー)に校章の入った旗を、コマ劇場前の街灯にスルスルとよじ登り、掲揚するという快挙(暴挙)をやり遂げた。


 この街灯の上った主はいまだに誰だかは知らない。


 そのあと、冬のラグビー早明戦の頃に似たような事件が起こりかねない、となって、新宿区役所だか警視庁は、このコマ劇場前の街灯の上に有刺鉄線を巻き付ける対策が取られたのであった。


 以前はここは池だったらしいが、学生が飛び込まないように埋められていて、植え込みになったという話も聞く。


 このようなバカ騒ぎの場面を見た一同はさすがにあきれて、歌舞伎町から離脱した。


 そして私(原智子)がよく行く高田馬場のバーに行き、五十嵐いからし真水しみず、智子、島峰の4人でワイワイと楽しんで解散した。


 島峰はすっかり、長岡から出てきた仲間の一員になっていた。

 東京の麻布高校、有名進学校出身のくせにだ。その下心は私のハズだ。


 あと、彼にとって収穫だったのは、美容専門学校の真水さんから、「カットの練習台として無料で散髪してあげる」と言われたことだった。これで島峰は散髪代も浮くだろう。


 ◇◇◇

 5月下旬


 島峰は私(原智子)のことが、ずっと気になって仕方なかったのだ。


 私が田舎のカレシと別れたことを聞いていた。(ヤツ)とは何もなかったとは言え、私の家に泊まったこと。そして私の下着姿を見たことだろう。頭の中が妄想爆発だ。


 もう一つ、私がつくった料理(肉じゃが)をとても満足していたことであろうか。


 島峰は。授業の後、早大西門からちょっと高田馬場寄りにある、喫茶店の「白ゆり」に行かないかと誘ってきた。


 そこにはビリヤード場があって、「俺と対戦してみないか?」と誘ってきたのである。 今から考えると彼には無謀な掛けだった。


 私は、あっさりと「いいわよ。私とナインボールで対戦するの?」とOKの返事をした。

 あまりにあっけなくOKを貰えた彼は、もう舞い上がるような気分になっていただ。それが罠とは知るよしもない。



 ビリヤード場に着くと、私が先に切り出した。


「じゃ、先に5ゲーム先取で勝ちね。負けた方が夕食をおごること」

「OK。じゃバンキング。原さん、お先にどうぞ」


 バンキングは私が一番手前にクッションに止めて先行となった。


 ブレイクショット……私は最初のショットで的玉をポケットに落とした。

 そして2回目の対戦もあっさりと勝った……


 島峰の顔がみるみると青ざめていく。


 彼の結果はボロボロだ。スクラッチ(手玉を落とす)とか、テーブル外に飛び出すとか(笑)どう考えても素人丸出しだ。



「まあ、今回は『えぞ菊』でいいからおごってね」

「え、ラーメンでいいんですか?」

「あなた、私にゲームで負けてばっかりいたら、すぐにお金がなくなるわよ」

「はい……」


「その後、私と、早稲田松竹か、映画館にでも行ってみる?」

「いいんですか?」

「ちょうど見たい映画があるから。台湾映画の『悲情城市』」

「それなら、ぜひ、喜んで」

「映画代もアナタのおごりね。ナインボールで負けたバツよ」

「そう来ましたか……原さんと一緒ならいいですよ」


 島峰は中学以来、ずーっと男子校で過ごしてきた。

 大学に入って人生が180度変わった。

 もう半回転して元に戻らなければいいが(ありがち)


 何より、彼はいままで地方の女の子に抱いていたイメージと私は違っていたらしい。サバサバしてて。

 服装は派手じゃなく、身長も168くらいはあるので少しヒールの高い靴を履くと彼と同じくらいになる。


 彼は、私をカノジョしたい、と思っている様子が見え見えだった。

 映画を見ながら、私の方をチラチラと見ていたからだ。


 ◇◇◇


 平成2年5月 東京六大学野球・慶早戦の後


 わたし(星夏美)ほか、慶應のテニスサークルメンバーは銀座のバーに集まっていた。あの北島がこの店を手配したようだ。


 六大学野球での春のリーグ戦では、慶應義塾大学は3位であった。

 私と、祥子(鷲頭わしづ)、反町そりまちさん、北島君が一緒のテーブルについた。


 まあ、今回の六大学野球は残念だったわね、という話で、ゆっくりと、わたしはウーロン茶を飲みながら、祥子たちと話し込んでいた。


 北島は、間に割って入りたい様子でウズウズしていていた。反町さんは微笑みながら北島の様子を見ていた。


 長岡から来た2人と、内部進学の2人という奇妙な組み合わせだ。

 ただ『内部進学』といっても二人は男子校と女子校。昔ちょっと会ったことがあるくらいで、大学で一緒になったようなものだ。


 どこどこのイタリア料理のお店が美味しいとか、どこのティラミスが美味しいとか、たわいもない話をして、時間が過ぎていった。北島はわたしに話したいにも話せないようで、モジモジしていたことしか覚えていない。


 ふと、反町さんが、わたしに言った。


「星さん、最近、新しい香水を付けているでしょ?ゲランの『VOL DE NUIT』じゃない?オシャレね」

「どうしてわかったの?香水の名前まで」

「そのくらい分かるわよ……しかし、なんで『夜間飛行』なの?」

「高校の時から付き合っているカレシが堀口大学の『夜間飛行』を読んでいてね……」

「知的なカレシね、ははは」



 ◇◇◇


 わたしが仙川のマンションに帰ったのは、夜11時を回った後だった。


 留守電のメッセージが1件入っていた。


 あれ……メッセージ?もしかして、恭平?

 再生ボタンを押した。


「もしもし、恭平です。夏美、久しぶり。今、大学の寮の公衆電話から掛けているところ。留守みたいだから、また今度ね」と言って短いメッセージが切れた。


 ……彼からの留守電だった。


 しまった……


 ふと、今まで大学の仲間と楽しい時間を過ごしていた私は、長岡の大学の寮から電話をかけてきた彼に、申し訳ないような気持ちを覚えた。胸が痛く感じた。


 ほんの少しくらい前、料金が深夜料金になった直後に掛けたの……


 ◇◇◇


 平成2年5月 新潟県長岡市


 俺(橘恭平)の大学は長岡市の西側、まだ残雪が残る丘陵の上にある。


 周りには娯楽施設なんて、何一つない。


 大学のすぐ下には越後交通長岡線の線路があるが、時々、貨物列車が走っているだけ。


 大学すぐ前の上富岡の駅はプラットホームの形だけが残って、草が生い茂っている。


 大学入学式が終わると、長岡駅前大手通りにある居酒屋でささやかな歓迎会が開かれ、そのあと寮の歓迎会が開かれた。


 この静かな環境は、世の中、バブル景気に沸く中で、まったく対照的だ。

 俺たちは黙々と勉強と研究をするだけ。


 工学部だけの単科大学であるから、文系の学生はもちろん、他の理系学部生もいない。女子もほとんどいない。


 俺は大学教室と寮の往復の毎日だった。

 大学寮では授業の課題をし、部屋に持ち込んだX68000(パソコン)でのC言語のプログラミングをしていた。


 俺は高校普通科であったので、工業高校などでの優秀者があつまってきて、また上級生は高等工業専門学校で普通科の高校生より進んだ数学や理科、や電気の科目が出来る学生だらけだ。

 普通科出身の俺は遅れを取り戻すのに必死だった。


 この大学では、同級生とのスタートラインはゼロどころかマイナスである。

 全国模試の優秀成績者だと言っても、周りでは高校で習わないような、数学、全微分、偏微分、逆三角関数……それらを習っている学生がたくさんいた。




 俺はバイト代が入ったので、1,000円のテレホンカードを何枚か買い込み、夏美から手紙で教えてもらった電話番号に寮の公衆電話から掛けた。


(ああ留守だったか。夏美はまだ家に帰ってないのか……)


 俺は彼女の留守電にメッセージを残し、寮の部屋に戻った。


「夏美、元気にしてるかな…」


 彼はパソコンの電源を入れ、ワープロで今の大学生活の近況などを打ち込み、印刷して、翌日郵便で手紙を送った。


 俺の机には、読まなければならない大学の課題の教科書が山と積まれている。


 大学の寮の窓からは長岡の郊外の田んぼが見え、田植えの前に水が張られて月の光が輝いていた。

 そしてカエルの鳴き声がこの山の上にも聞こえてきていた。


 ◆◆◆


 わたし(星夏美)は彼(恭平)からの手紙を受け取った。


 ワープロで打たれた彼の近況だった。


 同級生はみんな優秀で、授業について行くのがやっとだ、と綴られている。


 わたしは、東京でこんな「浮かれた生活」ばかりしていて良いのか?彼は黙々と研究に勉強に励んでいるのに……


 彼は寮の自室に電話を曳いていないので、わたしも手紙で返事を書くことにした。


 私は手紙に

「愛してる あなたに会いたい かしこ」


 それだけ書いて送った。

 もっとこの学校で勉強をしないと……

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