第64話 APPROACH(1989年)DREAMS COME TRUE

 わたし(原智子)は大学の履修科目の登録を終え、第一外国語のクラス分けが発表された。


 これが実質のクラスで、最初にまわりにどんな学生がいるかがわかる時である。


 この大学の文学部は早稲田の他の学部にくらべれば女子が多い。

 早稲田大学の付属校が男子校ばかりなので、受験によって入ってきた女子学生である。

 地方出身者が多いといわれる早稲田大学であるが、全体でみると過半数が首都圏の出身であろう。

 都道府県別にみると東京都出身が一番多いのではないか。

 もちろん、学生は北は北海道から南は沖縄県までいる。


 戸山キャンパスではそんなに混在はしていないが、本部キャンパスはもう祭りの縁日でもないか、と思うほどい人が多い。


 大隈重信公の銅像の前とか、学生運動、学生自治会、革マル派の立て看板がびっしりと大隈像を取り囲むように立てられ、その周りの植え込みにも立て看板が建てられていた。


 入学して1か月くらい、本部キャンパスを歩くと、サークルのビラを絶え間なく渡されていた。


 とりあえず、東京六大学野球の早慶戦くらいまでにはサークルに加入して観戦したいと皆が言っていた。それが早稲田に入学した新入学生の最初の望みだろう。


 でもオールラウンドサークルってなんだよ?テニスとかスキーとかみんなやるってことか。ナンパな奴らだ。まさしくバブル経済。


 4月も終わりごろだった


 登校したら授業が休講になっていて、暇だから、授業と授業の間が空いていたので、この前会った五十嵐がいる社会科学部の14号館と15号館をのぞいてみた。


 ラウンジのソファごとにサークルがまとまって座っており、学生がタバコを吸いながら、新入生にサークルの説明をしていた。


「あ、キミ、新入生?話を聞いてく?」というように声をかけられた。

 私には、なかなか他にめぼしいサークルは見当たらない。

 私はまずフランス映画研究会なるものに名前を書いた。

 この大学のサークルは掛け持ちをしながら、最後に本命のサークルに残るような形だった。


 五十嵐(和彦)が、社会科学部の掲示板の前にいたので、私は声を掛けた。


「あれ、智子、なんでココにいるの?」

「休講だったから」

「じゃ、飯でも食いにいく?カレーの大盛の店を見つけたんだ」


 私はカノジョがいる男と一緒に行くのは「何か変」とは感じたが、一人で食事するのも寂しいし、コイツと一緒に昼ご飯を食べることにした。


 西門近くの体育館の近くに「カレーの藤」という店があった。

 五十嵐からは、少な目に注文しないと食べきれないぞ、と事前に忠告を聞いていたのだが、本当にものすごくごはんの量が多い。おなかいっぱいになる。


「ところで智子、夏美とは連絡とってる?」


夏美は慶應でどうしているのだろう?


「一応……留守電に『こんど会おう』と入っていた。近々、新宿アルタ前で会うつもり」


「そうなんだ。もたいからは連絡あった?」


「あいつからは全く音沙汰が無いんだよね。あと橘君からも」


「そう……そうなんだ。ところで智子は何かアルバイトを考えている?」


「うちの父は学費と家賃は出すけど、小遣いはある程度自分で稼げって言ってる。バイトをしなければしょうがないよね。東京は物価が高いからさ」


「うちもそう。家庭教師とか時給2,500円とかあるけど、俺はそんな家庭教師って柄じゃないしね」


「私もいきなり家庭教師は無理だな」


「智子は男子高生に手を出しそうだな。魔性の女絶倫家庭教師……」


「だれが魔性で絶倫だ!お前も女子に手を出す危険があるだろうが!オッパイ星人のくせに!」


 カレーでおなか一杯になって、また本部キャンパスに戻った。

 五十嵐と一緒に、社会科学部のアルバイト募集掲示板を二人で見てまわった。


「コレ、出版社の編集補助業務ってあるね。時給1,300円くらいか。単価が良くないか?」


「場所もこの近くか……智子は文学部だから編集とかいいんじゃない?」


「出版社か、面白そうね。話を聞いてみようかな」


 智子は、まず第一候補の会社をメモして、大学の公衆電話でその会社に電話を掛けてみた。


 社長が電話に出て、さっそく見学に来ないかという話だ。これは渡りに舟だった。


 早稲田正門から早大通をずっと行って江戸川橋通りにぶつかり、ナントカマンションの2階だという。この通りには小さな印刷所とか編集の下請けとかたくさんあった。

 神楽坂や江戸川橋の近くには大きな出版社があるので、その下請けが沢山あったのだ。神田に並ぶ出版の街がこの早稲田である。


 社長の説明に言われる通りに歩いて行って、実際に徒歩15分くらいだっただろうか。


 このくらいの距離なら学校から通えるだろう。

 出版社の編集補助とはどんな仕事だろう、山積みの書類、赤ペンで原稿の校正とかをするのか?と思ってその出版社のインターホンのボタンを押した。


 中から、その会社の社長が出てきた。

 パーティションで区切られたテーブルだけの打合せスペースに通された。


 中が見えたが、パソコンが置いてあるシンプルなドラマで見たようなオフィスだ。

 社長の話を聞くと、正社員は数人で、ほとんどが学生のアルバイトだという。

 ちょっと作業を見てみるか?と言われたので、その編集作業を見てみることとした。


 その社長に言われるがまま、中のオフィスに入った。

 オフィスにはアップル社のマッキントッシュSE、SE/30、MacIIなど何台か置かれて、その前で作業している学生スタッフがいた。


 え、編集ってパソコンでするの?と思った。


「ちょうど、このMacIIを扱う人がいているんだよね」

 とその社長は、そのマックの電源を入れて、立ち上がったらファインダーでデスクトップにある、アイコンをクリックした。


 アルダスページメーカーというソフトが起動して、縦型の四角の白い絵が画面に表示された。(1990年当時のDTP:デスク・トップ・パブリッシングのソフトウエア・現在はアドビ社に吸収されている)


 アップルのマッキントッシュシリーズはとても高価なので、個人で買うことはとても考えられなかった。いままで見たことない。私が見てきたのはPC-9800シリーズくらいだ。


 なんじゃこれ?アップル社ってこんなに進んでるのか、と驚いた。


 社長は、適当に文字をキーボードで打つと、その白い長方形の絵に文字や文章が表示された。


「ここで印刷すると、この画面に表示されたとおりに印刷されるんだ」と上にあるバーのところから印刷を選んで実行すると、事務所に1台あるレーザープリンターからその画面で観たとおりのレイアウトで印刷された。(当時のプリンターはLaserWriter NTX-J)


「このパソコンを使って、原稿を割付けたり、校正したり、レイアウトしたりするんだけど、もしココで働いてくれるなら、キミにこのMacIIを使ってもらおうかな。そうするとアルダスページメーカーで編集して、クォークエクスプレスというカラーのグラビアを編集する担当になってもらうんだけど」


「このパソコンで編集した原稿はどうするのですが?ここで印刷して本にするのですか?フロッピーディスクに記録して専門の業者に運ぶのですか?」


「リムーバルハードディスクにコピーして、版下を出力してくれる会社に持っていくんだ。そこで出力した印画紙を使って、印刷会社で写真製版という形で本にする。版下出力機(ライノトロン)はとても高価だからウチでは買えない。ライノを持っている専用の版下出力業者に頼むしかないんだな」


「編集社と思ってたから紙の原稿を校正して、活字を組む会社に持っていくかと思っていました」

「そういう方法は今も主流だけど、これからみんなこういう形になると思うよ」


「平日は授業があるので、授業のない日とか、授業があいてる時間とか、授業後の夕方に来る形でもいいですか?」


「キミが空いてる時間に来てくればいい。単行本だから雑誌ほど締切りはきつくない。あとウチは週休2日だから」


 智子は思いがけずに、アップルを扱うことになった。さすが、東京だ。

 面白そうなので、ここでバイトをすることを即答した。


「よし決まった。明日から、この子、原さんと言ったっけ、一緒に働くことになったから、よろしく」

 社長がみんなに紹介してくれた。


 出版とはどういうものだろう。実益を兼ねたアルバイトだったが、これからこのバイト先の愉快な仲間との生活が始ることとなった。


 大学のサークルも、よくわからない映画研究会のサークルに入った。サークル名すら知らないが、本部キャンパスの15号館のロビーに行けばよい。


 とりあえず、春の早慶戦の観戦チケットの入手は間に合った。


 そして4月末、この映画サークルの新入生歓迎コンパが開かれる案内をもらった。

 ここで事件というか、あるとても大きな出来事が起こったのだ。

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