第62話 ALONE (1991年)B'z

1990年7月頃


 わたし(星夏美)の両親も東京に転居し、父はお盆のお墓参りに越路町に行くと言ったが、母は東京に残り、わたしも東京に残ると言った。

 行くのは父親だけ。


 わたしが東京に残ったのは、つつじヶ丘の駅の近くの喫茶店でバイトを見つけたから。店長が夏休みに来てくれという。恭平に会いたいのだが泊まる場所もない。

 それに、喫茶店の店長から懇願されたことだった。


 何気なく駅の付近を歩いていて、バイト募集の文字が目に入った。


 時給1,200円。大学生になったんだし、と思って父に言ったが、あまりいい顔はしなかった。

 しかし、父親からお小遣いをもらいつづけるのは気が引ける。

 それに、なによりも恭平が長岡市内で中学生向けの塾のバイトを始めて苦学生をしているから、自分が遊びほうけているのは申し訳なく思ったからだ。


 彼(恭平)は、弟にはせめて東北大学工学部に進学もらいたいと思い、父からの仕送りを我慢していたのだ。すこしでも弟の学資の積立てに使ってくれと。


 といっても、わたしは高校生の時にアルバイトなんてやったこともなく、最初は失敗だらけだった。家の家事を手伝っていたので皿洗いくらいしかできない。


 オーダーを取るのに、なんど聞き間違ったか。


 つつじヶ丘近くの音楽学校、桐朋学園の生徒がこの喫茶店に顔を出したときだった。 新入生なのだろうか、それとも中学生だったのか。


 わたしがオーダーを聞き直したときに、その男の子と目が合った。


 彼は頬を赤くし、恥ずかしそうな様子で、わたしが聞き間違えた最初のオーダーで良いと言った。

 彼は、それから、たびたびこの喫茶店に恥ずかしそうに中を覗いて見て、店に入ってくるようになった。


 わたしの父親の会社はゴルフクラブも作っている。新しいアイアンは鍛造品で凄くよく飛ぶから試してみろ、とわたしに何本か渡した。


 つつじヶ丘駅の近くにゴルフ練習場が見えたので、ストレス解消も兼ねてゴルフの打ちっぱなしに行った時だ。


 その前で、あの北島と会った。

「あれ!星さん、こんなところで出会うとは、なんという運命の出会い!」


何が運命の出会いだ。偶然だろが


「あなたそういえば成城だった。ココ成城だったのか……ゴルフもするの?」


「いえ、全然……いや、俺、やってます!」


 ウソっぽい。なんかわたしがここに来て、なにやら便乗しようとしている。


「ホントはやってないでしょ?」


「ゴメン、バレた?……一緒にゴルフの練習をしませんか?」


 またかよ


 わたしはクラブは父からタダでもらったものだけど、衣装はあいかわらずダイエーで買ったもの。こんなんを着て成城のゴルフ練習場に来ていいのかと……


「星さん、素敵な衣装ですね!」


 北島のこの言葉は、わたしを褒めているのか、それともホントにアホなのか分からない


 ◇◇◇


 俺(橘恭平)は長岡技術科学大学に入って、オリエンテーションで先生から言われた。

 この大学は学部入学生は少ない。高等工業専門学校編入専用の大学だと。

 3年次に全国の高等工業専門学校から編入生がたくさんやって来る。


 彼らの学習進度は速く、高専5年終えると、すでに大学工学部卒業レベルの学習を終えている。

 彼ら高専からの編入生の学力に追いつくには、たくさんの勉強をしなければならないと。


 高校の受験勉強レベルの内容から一気に高等数学の授業に変わる。


 俺は授業についていくのがやっとだ。こんなんで東大理科Ⅰ類合格レベルだと喜んでいたのが、井の中の蛙だった。

 ルームメイトの工業高校の生徒は電気科なので電気数学の理解がとても早い。


「自称進学校」の俺は、寮の部屋で工業高校卒の彼から数学を教えてもらう始末だった。

 朝、眠い目をこすって寮の食事を食べ、サンダルを履いて大学の授業へダッシュ

 そして夜遅くまで、代数学と解析学なんかの教科書の問題を解く。


 テレビドラマのようなさわやかな大学生活とはほど遠い。

 X68000のC言語のプログラミングもして、気がついたら朝の3時、4時。

 もう寝ないと、明日朝7時半までに起きて、朝飯の時間に間に合わない。

 いや、何度も食いそびれたことがあった。


 塾のバイトに行くと、その中学生が月曜日9時のドラマの話をしていた。塾の勉強で見られないと。新潟大学教育学部付属長岡中学校の生徒だった。

 おれもその中学校だから、この生徒の気持ちがわかる。


 俺はすっかりテレビを観なくなったので、世の中の動きに疎い。

 どんな俳優や女優がいま人気なんだろう。どんな歌が流行っているのだろう。

 長岡駅の街中の塾から学生寮までバイクでの往復の日々だった。


 ある日、寮の談話室に行ったらテレビがついていた。


 たまたま月曜日の塾の受け持ちのクラスが休みだった日だ。


 安田成美と吉田栄作、田中美奈子か。テレビの向こうには爽やかなドラマの世界

 明るい音楽。これはPINK SAPPHIREの「P.S. I LOVE YOU」という曲だそうだ



 俺の周りは田んぼと畑と、牛舎から聞こえる牛の鳴き声……


 夏美はあのような世界で暮らしているのだろうか?


 俺の楽しみは、テレホンカードをひと月に10枚、1万円を出して買って、そして夏美と少しだけ電話で話す。


 彼女の声は明るい。東京の大学生の生活に馴染んだのだろうか。


 夏美は喫茶店でバイトを始めたというが、彼女の喫茶店のバイトの時給は、俺の塾の時給と同じ額だった。


 土曜日の夜遅くまで勉強をして、C言語のプログラミングをして、

 次の日は日曜日だから遅くまでやっても大丈夫だと思って、徹夜でキーボードを叩いていた。


 盆地になっている長岡の東山の方から朝日が昇るのを見た。


 もやがかかって、田んぼの青々した稲の薄らとかかり、朝日がとても美しい。


 横ではルームメイトが布団にくるまって寝ているが


 だが俺の心は孤独だった

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