第56話(第1章完) SOMEDAY(1981年・ 1990年再販)佐野元春

 平成2年3月末


 出発たびだちの日の前日


 わたし(星夏美)の父親は本社移転で、越路町から東京の上野に転居するため、正式に西ドイツから帰国している。

 「西ドイツ」という名称も、もうすぐ無くなるらしい。


 家の中は家族の引越の荷物の段ボールも積まれていた。


 わたしは、京王線の仙川駅とつつじヶ丘駅の間のマンションを契約し、荷物は既に送っていた。聖蹟桜ヶ丘の叔母がマンションの部屋の中に入れてくれることになっていた。


 わたしが上京する際に持っていく荷物はボストンバッグ一つ。


 部屋にポツンとおいてある。

 わたしの部屋の壁に貼ってあるBOØWYのポスターも剥がそうとしたが、またここに戻ってくる決意で、そのままにした。

 このポスターも彼との思い出の一つだ。


 恭平はもうすぐ官舎を引き払い、長岡技術科学大学の寮に入る。


 わたしは、ふと思い立った。


 引越の支度が済んで、マイルドセブンのタバコを美味しそうに吹かして新聞を読んでいる父親がダイニングの椅子に座っている。

 久しぶりの日本のタバコが美味しそうだ。


「ねえ、お父さん」

「なんだ」

「これからカレシの所に行ってくる」

「はぁ?それを親に堂々と言うか?おまえはバカか!」

「あいさつに行くのよ」

「最後のバスで帰ってくるんだぞ」

「わかってるわよ」


 母親が居間に来た。

「お父さん、いいの?どうせ泊まってくるわよ・ははは」

「なにぃ?勝手にしろ。どうせ彼とは最後だ」


「夏美、そのバッグは?」

「着替え」

「ほら、夏美は彼の家に泊まる気マンマンじゃない、夏美、明日、塚山発の電車に乗るんでしょ?何時の電車」


「お母さん、もういい。夏美を駅で見送らなくて。どうせカレシから見送ってもらうんだろ。ここで見送りだ。夏美、この大バカものが……」


 わたしは、バッグを持って仏間に行き、仏壇のおじいちゃんとおばあちゃんに線香をあげた。


 お母さんは気忙きぜわしそうにしているが、お父さんはテーブルのところの椅子に腰かけて、まだ、たばこをふかしている。煙は不思議に小刻み揺れていた。


「わたし、もう行くよ」


「バス停まで送ろうか」お母さんが言ったが、


 お父さんは、

「お母さんもういい。はやくカレシに逢ってこい。夏美、また東京で。じゃあな」


 すべてお見通しですね、お父さん。


「いくね。バイバイ」


 わたしは、家の近くのバス停から小国車庫おぐにしゃこ行きのバスに乗った。


 ◆◆◆


 彼の住んでいる官舎の部屋のドアをノックすると、すぐに恭平が出てきた。

 部屋には荷造りされた段ボールが積まれている。彼の父の荷物もはもうない。

 彼と彼の荷物だけがこの部屋に残っていた。

 捨てるつもりのエロ本が縛られて玄関に置いてあった。


 玄関に入り、ドアを閉めた。

 そしてわたしから、彼を抱きしめた。

 そして彼と長い、長いキスをした。


 彼と思い出の中華食堂、山口食堂へ行き、わたしが大好きなチャーハンを食べ、部屋に戻った。


 そして二人でシャワーを浴びて、

 彼とは、いままでで一番長い、長いセックスをした。


 そして彼の腕枕で眠り、

 朝が来て、目覚めてから、また彼とセックスをした。


「おまえ、いつまでセックスしているつもりだ?もう、東京にいかなければならない時間だろ……」

「そうね。叔母が待ってるし」


 この官舎から見る景色もこれが最後だ。もう見る機会はない。


 春には田植えで水を張り、水鏡のように広がっていた田んぼ

 夏には、まぶしいくらいの緑色になり、

 秋には稲穂で金色に埋め尽くされ、

 冬には雪で真っ白く輝いている、この景色。


 遠くの八石山はちこくさんは紫色。山紫水明のとおり。峰に積もる雪が輝いていた。


 赤と白の大きな送電鉄塔が見える。

 柏崎刈羽原子力発電所の送電鉄塔がこの街を横切って、電気は東京へと送られる。


 小国の里は、雪解けが進んでいるが、桜の季節にはまだ早い


 バスの時間よりすこし早かった。わたしたちは柏崎高校小国分校まで歩いて行き、彼の家に遊びに来た時のように、近くの商店からパンと飲物を買って、二人で長岡行のバスに乗った。


 ほとんど乗客のいない、バスの後ろの方の二人掛けの座席に腰掛け、手を握った。


 バスは、彼と一緒に通った塚山駅を通って、

 春から彼が通う長岡技術科学大学の前の道を通り過ぎた。


 残雪が残る山には多くの校舎のビルが建っていた。


 バスの料金が上がるたびに、運転席の上にある料金表の紙がパタッと落ちる。

 その料金表が落ちるたびに、彼との別れの時が近づいていることを感じた。


 遠距離恋愛だな、と彼は行ったものの、本当に長く続くのだろうか。


 信濃川に架かる鉄骨の長生橋を渡ると、雁木屋根の長岡の町に入った。

 ビルが並ぶ大手通に入ると、目の前に大きな茶色の駅舎が見えてきた。

 わたしが新幹線に乗る長岡駅である。


 駅のバスターミナルに入り、そしてバスを降りて、

 1階の駅入口から、大きな階段の横のエスカレータを上るほんのわずかな時間が、とても長く感じられた。


 彼の温かい手を、次に握るのはいつになるのだろう。

 もしかして、もうないかもしれない? いや、彼を絶対に諦めない。


 新幹線のホームはまだ肌寒い。

 冷たいプラスチックのベンチに私はコートを着たまま腰かけた。

 東京の3月の終わりでは、長岡で着ているような厚いコートはもういらないだろう。


「そういえば、佐野元春も好きだと言ってたよね」


 彼が渡してくれたのは、カセットテープだった。

 表のラベルに彼の手書きの文字でSOMEDAYと書いてある。佐野元春だ。


「ありがとう……」


 彼の不器用な感じの文字がとても可愛らしい。


 東京に引越すと、新潟ここには家族は誰もいなくなり、もう新潟に泊まる場所がなくなる。


 なぜだが、なんだか分からないが、彼とは別れるような気がした。

 不安で息がつまるような感覚がした。わたしは咳を一つした。


「大丈夫か、夏美、風邪引くなよ」


 上野行あさひ号が到着するアナウンスが、エコーが掛かって長岡駅のホームに響く。

 新幹線の到着を待つ人の列ができた。

 進学する学生、就職する若者たち。

 そして彼ら、彼女を見送る家族や恋人達。


 どうして、こうなってしまったんだろ。


 ホントは東京なんか行きたくなかった。彼と離ればなれになるつもりはなかった。

 なんで私は推薦入試を強く断らなかったのか……


 彼は前髪をかきあげて額にキスをしてくれた。


 ゴーッという音とともに新幹線が到着する。

 次々と人々が新幹線に吸い込まれていく。


「もう新幹線に乗らないと」彼が言った。


 列に並んでいた人の一番後ろに、私は走って行き、一番最後に入った。

 新幹線自由席は満席である。


 もうだれも来ないから、私はドアの前に立った。

 恭平は、扉の所に立っているわたしの目の前にいる。


 新幹線の発車のベルが鳴った。


「じゃあ」彼の別れの言葉はそれだけだった。

「じゃあね」私は彼に答えた。


 新幹線のドアがゴロゴロと音を立てて閉まった。


 あさひ号は長岡駅を静かに発車した。

 彼は立っていたその場にずっといた。追いかけることもなく。


 私はドアの窓から、彼の姿が遠ざかっていくのを見た。


 ◆◆◆


 新幹線は長い長いトンネルを走って行く


 わたしは、さっき彼が渡してくれたカセットテープを取り出す

 ウォークマンを取り出し、カセット挿入口をガチャッと開いて、イヤホンを耳に挿した。


 新幹線デッキの壁に寄りかかった


 トンネルを走る新幹線の轟音がイヤホンを挿しても聞こえてくる


 カセットの再生ボタンを押し、しばらくジーという音がしてから、

 佐野元春のSOMEDAYのイントロが流れてくきた


 涙が頬を伝ってこぼれ落ちる


 私はこぶしを握り、ドンドンと、寄りかかっている後ろの壁を叩いた。


 涙が止まらない


 ホントは彼とは離れたくなかった……


 さようなら橘恭平、

 さようなら長岡の街、


これが「窓辺にもたれ、夢のひとつ、ひとつを消してゆく」ことなのか……

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