第14話 Borderline (1984年)Madonna

 昭和62年8月3日の朝


 わたしは、彼の胸に抱かれて目覚めた。すでに日は高くなり、セミの鳴き声が外から聞こえる。

 彼は裸でまどろんでいる。


 わたしは彼の胸を人差し指でなぞった。


 ここは教員住宅。彼が父親と暮らしている官舎である。小高い丘の上にあり、眼下には青々とした水田が広がり、遠くには紫色の山々が見えた。


 彼との一緒に朝を迎えるのは2回目。わたしが昨晩来ていた浴衣は浴室の前の籠に入れられて、センベイ布団の横にはわたしと彼の下着が放り投げられていた。

 彼が使っているタオルケットからは男性の匂いがする。

 わたしはそのタオルケットの匂いを嗅いだ。


 彼が目覚めたようだ。


「またお前とヤッてしまった……」

「いいじゃん、減るもんじゃないし」


「教員住宅で生徒同士がスルなんて罰当たりにもほどがある。これが町の教育委員会に知られたら、俺たち、絶対に、追い出されるぞ」


「追い出されたら、わたしの家に転がり込めば?」

「バカいってんじゃねぇ……」


 わたしは彼の胸にキスをする。

 そして上に乗る。


「お父さん、どうせ小出こいでの実家に帰っていて、戻らないんでしょ?」

「ああ」


「じゃ、もう一回する?」

「ハイ?!正気か?」


「しようよ」

「もう朝だってば」


「何言ってんの。そんなの関係ないわよ。体は正直よね……」

「くそ……この女……勉強になんかなりゃしねぇ……」

「保健体育の授業かな……」

「そんなもの大学受験にあるか! ウグッ……」


 わたしは彼にキスをした。


 セミの鳴き声の中、再び抱き合った。

 手と手を絡め、彼の背中を撫で、わたしは頬を彼の胸にすりよせた。


 エアコンのないこの部屋だが、昼前はそれほど暑くない。

 でも汗ばむくらいの温度であった


 ◇◇


「結局、昼になったじゃねーか。俺たち何やってんだ?飯を食いに行くぞ!って、お前、着替えを持ってないだろ?」


「そういえば、浴衣で……バッグに替えの下着しか……」

「なんてこった」


 彼は自分のジーンズをタンスから取り出した。

 すこしブカブカのジーンズに、 白のTシャツを借りた。大きくて緩いが、彼の香りが感じられる。


 彼から借りたTシャツとジーンズで、官舎の近くにある「山口食堂」というところで、中華料理の昼ご飯を食べた。


 彼と初めての時は、わたしの部屋で「いきなり」という感じだったが、わたしはこの2回目の「経験」の方をよく覚えている。


 そして、この食堂で食べた冷やし中華の味が忘れられない。


 昔ながらの街中華の味だった。彼が頼んだチャーハンと餃子もとても美味しかった。

 古い田舎のお店だが、わたしにとって一生忘れることができない、思い出の味になった。


 ◇◇◇


 みなが言う。「長岡の夏は8月3日で終わる」と


 まつりのあと、親戚も帰り、お盆のお墓参りもこのまつりに期間に済ませる人もいる。


 8月中旬になると、海にはクラゲも出始め、海水浴には向かない。


 お盆の頃には夏の終わりを告げるひぐらしが鳴く季節がくる。

 ひぐらしのことを、この地方では「盆蝉ぼんゼミ」という。


 お盆も過ぎると涼しくなり、稲刈りの季節がくる。

 水田は黄金色に輝く。


 そして9月の始め、高校の2学期が始まる。

 まつりの頃にカレシ、カノジョが出来た者、残念ながら出来なかった者。


 悲喜こもごもの新学期が始まる。



 ◇◇◇


 わたしは、テニス部の仲間の椛澤遙から家に来ないか、と誘われた。


 彼女の家は、整形外科医院。大きな家の敷地の一角に診療所がある。


 わたしは夏休みにスーパーカブを彼女の家に停めさせてもらっていたので、彼女の家の場所も分かるし、学校からも近かった。


 わたしは、放課後に遙と一緒に彼女の家を訪れた。


 整形外科診療所は鉄筋コンクリート造りで少し古めかしい。


 診療所の後ろの板塀で巡らせた家には、松や梅などの庭木が多く植えられ、そして石灯籠があり、大きな池には錦鯉が泳いでいる。


 どこのくらいの面積なのか、皆目見当がつかない。とても大きな家だ。


 家の門も瓦葺きで、神社の門かと思うような造りだった。

 門から百メートル石畳があり、その先に玄関があり、玄関も八畳間くらいの広さがあって、格子戸を開けると欅の一枚板のついたてがあった。


 遙は「ただいま」というと、お手伝いさんのお婆さんが出てきてくれて、わたしを客人だと紹介した。


 玄関を上がり、長い長い廊下がある。廊下からは錦鯉の池と、灯籠と、手入れされた立派な庭がある。藤棚もある。いったいどんな大金持ちなんだろう。


 応接室の洋室にはグランドピアノがあり、西洋の食器棚が飾られている。

 その隣の医師の父親の書斎には、たくさんの本がある。デスクにNECのPC-9801のパソコンが置いてある。そしてもう一台シャープのX1ターボというパソコンが置かれている。橘恭平が欲しいといっていた機種だ。


 広い階段を上り、二階の彼女の部屋に入った。

 20畳近くある部屋で、わたしの部屋とは比べものにならない。西ドイツで見た上流階級さながらの屋敷だ。

 遙の部屋の書棚には、西脇順三郎、中原中也、堀口大學らの本がずらっと並んでいる。 漫画本などひとつもない。


 わたしの部屋のように、布袋寅泰も氷室京介のポスターもない。

 おまけに、この部屋にもアップライトピアノがあるではないか。

 それもベーゼンドルファー。ドイツ製だ。わたしはメーカー名を見て声を失った。西ドイツで見たやつだ。リビングのグランドピアノもベーゼンドルファーなのか?


「まあ、掛けて」と言って、遙は彼女の部屋の真ん中に置かれたソファに座るよう促した。


 さきほど玄関で会ったお手伝いさんの「ばあや」が冷たい飲み物とお菓子を持ってきてくれた。


 遙の意図はなんなんだろう。

 1学期の期末テストの遙の成績は学校でトップクラス。わたしは彼女を追う成績だった。


「ねえ、星さん。あなた、カレシがいるの?」


 これまた「ド直球勝負」だ。

 わたしは隠しても仕方なく、「ええ」と答える。


「わたし、進学どうしようかな……本当はね、仏文科に進みたいんだけど、お父さんが『医学部に行かないか』、と最近言ってきて」


「あなたのお兄さんがこの医院を継ぐんでしょ?」


「どうも兄は東北から帰ってきそうもないのよね。だからわたしにこの医院を継がせたいみたいで……」


 贅沢な悩みだ。こんなクソでかい家、わたしは始めて見たというのに。


「あたし、田舎から早く出たいのよ」


 そりゃわたしも同じだ。こんな長岡とかいう田舎にはなんにもない。


「でも医学部って新潟大学とかじゃ……」

「この高校で医学部に行く子なんて1人いるかどうか。だったら始めから理科の受験科目が手厚い隣の高校に行ったのに。父親は『付属看護短大でもいいから』と最近はね。ところで、あなたのカレシ、隣の高校でしょ。長岡まつりの日に見たわよ」


 なんだ、遙にバレてんじゃねーか。


 遙は、机からピース缶を取出し、そして机からメンソールの「セーラムライト」と百円ライターを取り出した。


 ん、タバコを吸うのか!遙は!


「ねえ、タバコを吸うの?」


「ええ」


 遙は、セーラムライト1本を口にくわえ、100円ライターで火をつけた。ピース缶を灰皿にしている。

 窓を開けて彼女はとても美味しそうにタバコを吹かした。


「健康に良くないと思うよ」

「何いってんの。あなたカレシとヤリすぎて、妊娠に注意しなさいよ」


 なんで遙にバレてんだよ!?



 彼女の机の上に堀口大學訳、サンテグジュペリの「夜間飛行」が置いてある。


 遙のその本はわたしも少し読んだことがある。青春とは、つねに危険と隣り合わせなものだ。ただの火遊びかもしれない。


 しかし「夜間飛行」が、これからのわたしの人生を象徴するとは、

 この時は知る由もなかった。

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