第9話 Open Your Heart(1986年)Madonna
4月の終わりの土曜日の昼下がりの電車
電車の乗客もまばらである。
長岡駅を発車して、南長岡貨物駅のたくさんコンテナが積まれた構内を電車は走っていく。
わたし(星夏美)の前に座っている、「橘クン」という下の名前も知らない素敵な男性は、わたしのことをチラチラと見ている。
窓を一段階、ガタン、と少し開けると、外から吹き込む風が、わたしの髪を揺らしてた。
こういう時、なんて話しかけたらいいのか、皆目見当がつかない。
彼はカバンから英単語帳を取り出した。
わたしはカバンからソニーのウォークマンとカセットテープを取出す。
このまま耳を塞いで音楽を聴くのは、彼を無視するような気がする。
そこで思い切って口を開いた。
「ねえ、智子と一緒じゃなかったの?」
彼と一緒に来るはずだった原智子のことだ。
「ああ、原さん、ラグビー仲間に誘われて喫茶店にでも行ったんじゃないの?」
「そうなの。約束してたのに……」
会話が続かない。
彼もわたしと会話をしたいような雰囲気がある。
「ねえ、そのカセット誰の?、洋楽?」
「ええ、マドンナの……」
「へえ、マドンナを聞くんだ。そう……」
会話も途切れ途切れだ。ああ、マズい。どうしてわたしは会話のスキルがないんだろう。
「橘さん、好きな音楽はなに?」
「あ、俺?そうだな……」
彼はカバンからカセットテープを取り出した。
「これ。俺、今、The Beatlesを聞いてんの」
Beatlesなら、わたしも少しは知っている。西ドイツに住んでいたとき、英語の授業で聞いた。
「Beatles、いいよね」
「ああ、俺の中学の時の美術の先生がさ、英語を勉強するにはBeatlesを聞くのが一番だって言ってね。それで聞いてるの」
……面白い先生だな。
「キミはBeatlesのどの曲が好き?」彼が聞いてくる。
「The Long and Winding Roadかな……」
「うわ、渋っつ。てかなかなか言いセンスしてるじゃん」
ん?……ちょっと、いい感じになってきたぞ。
彼はわたしの目を見る。彼の茶色の瞳が日の光を浴びて綺麗に輝いている。
「じゃ、今度さ、レコード屋さん行ってみる?大手通(長岡市)を行って曲がったところに、『ツモリレコード』ってあるでしょ。そこで洋楽のアルバムを一緒に見てみようか?俺さ、英語のヒアリング能力を伸ばすのに、もっと洋楽を聴こうかと思ってるんだ」
げ、ホント?。彼から誘われたじゃん!
「え、わたしでいいの?」
「休み明けの月曜日の夕方。四時半頃。大丈夫?ツモリレコードで待ち合わせ」
「はい」
とわたしは
◇◇◇
月曜日の夕方、時間通り、彼は本当に来た。几帳面だ。
洋楽が好きとハッタリをかましたけど、わたしは本当は全然詳しくない。
まったくのチンプンカンプンだ。
毎月のおこづかいは5千円。3千円のCDを買うと財布に痛いなぁ。
でも、いいや。買っちゃえ。コレだ!
マドンナのアルバム「True Blue」を手に取った。
「え、これ?」彼は驚いた様子。
「ねえ、きみ、ダビングできるよね?」彼は続けて聞いてくる。
「CDラジカセの使い方がイマイチよく分からなくて。いつも失敗するのよね」
「じゃ、俺がダビングしてやるよ。なにかカセット持ってる?」
「ない」
「じゃあ、俺が買おうか」
彼は手に取ったCDを見つめて、買うのを諦めてもとの棚に戻し、カセットテープを買った。
◇
すぐ翌日、朝の塚山駅。電車を待つ間に彼はダビングしたカセットを渡してくれた。歌詞カードもコピーしてある。
◇◇
それから彼とは帰りの電車で一緒になることが多くなった。
彼は電車ではいつも眠たそうだ。
智子に聞くと、彼は朝7時20分の電車に乗るために、小国の官舎、教員住宅らしいが、6時45分に出ないと間に合わないらしい。夜遅くまで勉強して、眠る時間も少なく、朝の電車はずっと目をつむって手すりにつかまって眠っている。
大学入試の勉強や、中間、期末テストで大変なのだろう。朝の電車の中で彼に朝は声を掛ける雰囲気はなくなっていった。
◇◇
そして1学期の中間テストの土曜日だった。
その日はまた智子は帰りの14時代の電車には現れなかった。テストが終わって町に映画でも見に行ったのだろう。
また素敵な彼と2人きりになった。そういえば彼の名字の「橘」しか知らない。
土曜日の14時代の直江津行きの電車のボックスシートに、今度は彼が先に来て座っていた。
彼は進行方向を向いて座っていたが、わたしが到着したら反対側の席に移り、わたしに進行方向を向いた席を譲った。
電車は定刻どおり発車する。
彼はウォークマンで音楽を聴きながら、試験勉強の疲れと寝不足から、ウトウトして眠ってしまった。
わたしは彼に声を掛けないでおこう、と思った。
塚山駅手前のトンネルを電車は通過する。
このトンネルを通過するとき警報音が響く。これが駅に到着する合図になるが、彼はその音では起きなかった。
この塚山駅は、長岡と柏崎の学区の境界駅である。これより先は柏崎学区となり、長岡地区に通っている高校生はほとんどこの駅で降りる。
「つかやまー、つかやまー、お降りのお客様はお忘れ物のないよう……」
車掌のアナウンスが流れた。
電車は塚山駅に停車し、高校生たちは席を立って降りていった。
彼は眠ったままだ……
わたしは座って、ジッと彼をみていた。
車掌の発車の笛が鳴る。
プシュー、とコンプレッサーのエアの音でドアが閉まった。
電車の中は、乗客はほとんどいない。この車両には数人しかいない。
わたしは彼と2人でボックスシートに座っている。
ガタンと電車はゆっくり発車して加速する。
塚山踏切の警報音がドップラー効果で伸びて流れていく。
わたしのお父さんの会社の緑色の工場を過ぎ、電車は鉄橋を渡っていく。
そして、長いトンネルに入った。
ゴーという大きな轟音で、やっと彼は目覚めた。
「あ!塚山で降り遅れた、なんで起こしてくれなかったの!」
「ねぇ……これから2人で海まで行かない?あと30分で柏崎の海でしょ」
彼は目を丸くして驚いた表情をした。
「えっ?……まあ……いいか。テストも終わったことだし、今日は天気も良さそうだし……キミとふたり?……」
わたしは、ボックスシートの向かい、彼の席の横に移る。
かれはハトが豆鉄砲を喰らったような顔をする。
そして彼の手を握った。温かい……
「折り返しの電車が夕方4時間頃。海辺を散歩すると、ちょうどいいかな……ってなんで俺の手を握ってんだよ!照れるだろが!」
「いいじゃん」
柏崎駅を過ぎ、鯨波駅を発車して、真っ青な日本海が見えてきた。
群青色の日本海だ。
「この前に買ったマドンナのアルバムは『True Blue』だよね。あの海の色みたいな真っ青のことかな?」
「それは、『真実』とか『忠実』とかいう意味らしいよ」
電車はガタゴトと晴れた日本海に近い線路を走っていく。
「笠島(駅)まで行ってそこで降りようか?」と彼は言う。
波打ち際に線路がある青海川駅を通り過ぎて、電車は笠島駅に到着した。
ここは目の前に漁港がある、数十軒くらいの小さな漁師町だ。
ここで降りた乗客は、私と彼しかいなかった。
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