第8話 Into the Groove(1985年)Madonna

 昭和62年の春、

 わたしは素敵な人と出会った




 わたし(星夏美ほし なつみ)が高校に入った年に、国鉄(日本国有鉄道)はJR東日本(東日本旅客鉄道株式会社)へと名前を変えた。


 電車の切符や定期券はJNRから、JR+Eと刻印された図柄になった。

 

 まだ国鉄からJRのマークへの切り替えはすべて済んではおらず、長岡駅舎にはJNRのマークを取り外した痕跡がくっきりと残っている。そしてその近くに緑色の丸っこい文字の「JR」の新しい看板が取り付けられていた。

 

 信越本線塚山駅は長岡方面へ行く生徒や、柏崎方面に行く生徒達でたくさん溢れていた。

 この明治時代に出来た塚山駅舎の高い天井の下に電車を待つ人がいっぱい溢れている。

 キヨスクで菓子やパンを買う高校生もいる。

 

 同じ高校に通う者同士で輪になったり、同じ中学校出身者で輪になったり。

 ある高校の生徒はカバンに化粧道具しか入ってないとか、進学校の生徒は重たそうなカバンを担いでいるとか、様々である。


 私は、西ドイツのデュッセルドルフの日本人学校から、この三島郡越路町立塚山中学校さんとうぐんこしじちょうりつつかやまちゅうがっこうに転校してきた。

 日本の高校に入りたい為だった。


 父親はこの塚山駅の近くに本社があるスポーツ用品メーカーのヨ○ックスの社員で西ドイツに赴任している。私はおじいちゃんとおばあちゃんの住むこの故郷に、母親と一緒に帰国した。

 私は長岡高校に入りたいと思ったが、中学校から推薦される枠がすでに一杯で、私は受験させてもらえず、隣の長岡大手高校に入ることになった。

 小さい頃からの親友である原智子はらともこは長岡高校に進学することになった。

 私はもう少し早く帰国していれば、智子と一緒の学校に行けたのに残念だった。中学校のほかの同級生は別の高校に進学し、私の中学校から同じ高校に行く生徒はよく知らない子ばかりだった。

 長らく日本から離れていて、この電車で友達といえる友達は智子だけ。


 

 朝の7時20分頃、この塚山駅には長岡駅行きの電車と、直江津行きの電車が来て、この駅ですれ違う。

 電車のデザインは、青と白のボディに赤いラインが入った鮮やかで、あか抜けた新しいデザインの電車になった。

 国鉄時代のオレンジと緑のどこにでもある電車と違って、オリジナルのカラーらしい。

 

 田舎の電車は本数が少ない。1時間に1本、2時間に1本程度である。

 乗客は毎日みんな同じ顔触れである。


 この駅の周りは、雪解けあとの田んぼと新緑の山で、田んぼは水が貼られる前の時期で田植えを待っていた。

 

 智子とは電車の中でとりとめも無い会話をしている。私は西ドイツの日本人学校にいて、東京の会社の駐在員の子息と一緒だったこともあり、流行にはうとい方ではない。好きなバンドの名前などを智子といつも話し合っていた。

 

 私の高校の制服のデザインはちょっと古いデザインである。この際に制服を変えようという動きがようだけど、いっそのこと廃止しようという声も聞こえる。

 タイの色で学年の違いがわかるようになっていた。

 

 すぐ隣の長岡高校は私服校で、女子生徒はジーンズ姿が多い。寒さを防ぐためにもスカートは好まない女子生徒も多いようだ。


  電車は、まだ4月なったばかり。ヒーターは付いている。生徒は冬の装いだ。

 

  「夏美、部活決めた?」

  智子はわたしのことを「夏美」とか「なっちゃん」と呼ぶ。

 

  「うーん、庭球部かなぁ、智子はどうすんの?帰りは遅くなるの?」

  「ラグビー同志会って面白そうで、のぞいてみた。マネージャーをやろうかと。   まだ公認をもらえないから同志会なんだって」

 「その『ラグビーなんちゃら』は帰りは遅いの?」

 

 「まあ、私はだいたい夕方の5時から6時代の電車には乗れそうかな」

 「私はどうしようかなぁ、部活で遅くなるのはイヤだし」

 

 「今日の帰りは17:20発の電車で帰ろうか。電車の中で待っててね」


 電車は長岡駅に到着し、駅東口から山の方に向かって道路の右側に長岡高校があり、私の高校は道路の左側にあるので、駅の東口の通路の階段で別れる。


 私はダイエー長岡店の前を通って高校に向かう。

 道路の反対の右側の歩道には、智子の学校の生徒達が歩いて行く。それを横目に見ながら、私は学校に向かって歩いて行った。


 ◇◇◇


 私はその日の夕方、授業が終わり、智子と約束の通り、17時代の電車に乗るために駅に着いた。


 改札口で駅員に定期券を見せて構内に入ると、5番線のホームに直江津行きの電車の案内が表示されている。

 同じ時間、ホームの反対の4番線には金沢方面行の「特急かがやき」に乗り換える客であふれている。私は5番線に停車している電車に先に着いて、ドア近くの手すりを握って立っていた。


 新幹線が到着し、特急に乗換える大勢の客に混ざって、智子は同じ高校と思われる男性生徒と一緒に、プラットホームへの階段を降りてきた。

 

 あれ、智子は男の子と一緒なの?

 

 「ねえ、夏美、この人、たちばな君というの。同じラグビー同志会にいたの。彼ね、小国おぐにの官舎に住んでるって話だから一緒に来たの。同じ方向の電車に乗って、彼も塚山駅で降りるんだって」



 それが橘恭平たちばなきょうへいと初めての出会いだった。



 とても素敵な男性だ……身長180センチはあるのだろう。

 私の好みのタイプだ……

 特に、彼の瞳は透き通ったキレイな茶色をしている。


 オクテな私は、いつも男性には、話しかけられずに終わってしまっていた。

 人生、そんなもんだろうと思っていた。

 西ドイツに住んでいた時もずっとそうだ。

 帰国する駐在員の子息の同級生の男の子に一言も話しかけられず、彼らが帰国することはいつものことだ。

 

 

 智子は走る電車の中で、覚えたてのラグビーのルールを橘クンと一緒に話をしている。

 反則のノックオンはどのような場合に取られるとか。

 私は横でその会話を「じーっ」と見ているだけだった。

 ラグビーのことはまったく知らないし、私は話についていけない。


 そうして20分経ち、塚山駅に電車は到着した。

 智子と私は、その橘クンという男性と別れ、

 彼は小国行きのバスを待つために待合室のベンチに腰掛けた。

 私は彼の姿を振り返り見て、駅舎を出て家路についた。


 都会の電車とは違い、地方の電車の時間はいつも決まっている。

 これから彼と一緒に通学で電車に乗ることが、私には、これからささやかな幸福だろうと感じた。

 きっといつかどこかで、彼に話しかけるチャンスがあるかもしれない、と。


 ◇◇

 

 4月も終わりが近づき、土曜日の授業を終え、私が14時代の電車に乗ろうとした時だ。

 私は、直江津行き普通列車のボックスシートに進行方向に向かって腰かけて、

ボーッと外を眺めている時だった。


 その橘クンという彼が現れて、「やあ」とわたしに声を掛けてきて、わたしの前に向かって座った。

 えっ!と思い、私はドキっとした。

 私は彼に何を話をしていいかすら、わからない。


 そして智子は電車の発車時刻に現れない。

 やがて発車時刻が来る。


 私と彼と二人だけのボックスシート。

 春の昼下がり、乗客もまばらな電車は長岡駅を発車した。


※西ドイツ 東西冷戦の時代に、ドイツ連邦共和国を西ドイツ、共産圏のドイツ民主共和国を東ドイツと呼んだ。ベルリン市は西ベルリンと被害ベルリンに分割されている。

1990年代に西ドイツ、ドイツ連邦共和国が正当政府として東ドイツが消滅する形で統一。西ドイツの首都はボンに置かれていた。デュッセルドルフはフランクフルトとともに西ドイツの経済の中心都市で、多くの日本企業の支店があった。YONEXはデュッセルドルフ近郊のヴィーリッヒに支店、ヨーロッパ法人がある。

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