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    実はこんな私でも日本の会社の面接を受けた経験がるのです。松下◯電気(ここは研究職だったので、研究者達と学会で2度面接し、シカゴで人事部長と面接)と東◯エレクトロン(ここは最終面接で社長と面接)。どちらも内定もらいましたが、事情があり行きませんでした。しかし、良い経験にはなりました。日本の国立研究所でも仮面接みたいなのは受けましたが、ここは最終面接のタイミングが遅くて、その知らせが来た時は、もう九州での就職が決まった時でした。

    米国で受けた面接と一番違うと感じたのは、日本での人事部の重要性でした。

    作者からの返信

    ありがとうございます。
    日本の会社だと人事課が人件費予算を扱うので、優秀かそうでないかを見極めるのが仕事なのですね。面接の前にかなりリサーチはしていますし、社内成績も把握しています。最近は人事課の能力不足も問題になっているとか。先生が内定をもらったのような企業に息子も入ればいいのですが。

    今回の面接の様子は実際に聞いた話を脚色していて、その場で辞退の電話を掛けるといのはホントの話です。テレビ局として採用したい大本命の学生だったと思います。その人は今は退職、独立してフリーで稼いで活躍しています。やっぱり優秀だったようですね

    編集済
  • 心から大好きな人との関係が「終わるかもしれない。振られるかもしれない」というときの何とも言えない心を震え上がらせる気持ち、私自身が経験しているので、非常によくわかります。

    そのような気持ちは、John Lennonのアルバム”Imagine”に入っている”Jealous Guy”にうまく歌われていると思います。この曲を聞いたときに、あまりにも自分の心情と一致していて、泣きそうになったことを覚えています。そんなことを思い出しました。

    作者からの返信

    ありがとうございます。

    自分でも読み返して昔の記憶が甦りました。長い髪の後ろ姿しか夢に浮かばないというところもありました。

    ドアの鍵のあたりは、自分の経験でもあり、後で強迫神経症ではないか、といわれました

    ビートルズもご指摘の通りです。書き直しの前には最終章がビートルズの曲になっていますので、まだまだ登場しないで、すみません

  • 私が日本へ帰国した1993年には、就職はオープンになり、学校推薦がなくなったと聞いていましたが、実は、あれは理工系、特に工学部には適応されていないと告げられました。学部内では、主任の他に就職担当の教授がいて、企業の人事が挨拶に来て、ビール券を大量に置いて行っていました。これが、各研究所へ配られていました。自由枠で就職先を探す学生もいましたが、理系の就職では、旧帝大は有利だと就活中の学生から聞きました。二次や最終面接で出会う学生の多くは他の旧帝大生だったと言ってました。文系の方の事情はよく分かりませんが、文系の同級生は3年の頃から就活が大変だと言っていた工学部の学生達がいました。彼らは学生実験で単位を落とさない様に頑張る必要がありました。

    作者からの返信

    ありがとうございます。文系は公式な推薦はありませんでした。しかし「マスコミに強い先生」という存在があり、その先生が内々にこの生徒を推薦していたという形を取っていたのが実情です。マスコミに強い早稲田や慶應などは、そのゼミに入るための学力、面接試験を課していた所がありました。ゼミに入る試験というのは今では驚きです。マスコミ各社がその先生に顔を出して採用候補者をもらっていました
    長岡技術科学大学(豊橋も)はいまでもほとんど研究室推薦で就職できない学生はいないと思います。就職活動すらしていないと思います。求人倍率は70倍ですから、長岡技大生は採用できたと企業がわざわざニュースになるくらいです
    隠れた名門大学。高専を出ないと入れない学校ですね(一般枠も50人くらいありますが)受験産業に浸かると知らないことは多々あり、就職活動で知ることになります。
    「東大生がんばれ」というセリフはそういうことをよく知らない皮肉なのです

    編集済
  • 自分のガールフレンドと駅のホーム出会う時には遅れた来たのに、今度は時期きっちりですか?過去のミスに学んでますね?^_^

    > 「働けど働けど……我が暮らし楽にならず」

    米国人の過半数はこんな感じですね。

    作者からの返信

    ありがとうございます。
    本命の彼女の待ち合わせに遅れて、友達の女の子との約束は守る、といういかにも「抜けた男」ですね(笑)
    私の妻も支度を念入りにして時間オーバーして遅れてくるタイプです(?)

    > 「働けど働けど……我が暮らし楽にならず」

    日本人もそうですね

  • 私もかつて、「月がきれい」の逸話を知りませんでした。

    医学生時代、強い想いを寄せていた友人に、医師になって10年目だったか、中秋の名月がとてもきれいで、彼女に「今日は月がきれいですね」とメールを送ったことがあります。

    彼女から、「夏目漱石は、”I Love You”を「月がきれいですね」と訳したそうですよ」と返信が返ってきました。こちらの気持ち、完全にバレバレです。

    100年以上前からの「漱石ミサイル」、私に見事命中でした。

    10年ほど前の思い出です。

    作者からの返信

    ありがとうございます

    文系の人は知っていて、理系の人は知らない、というあるあるですね。
    わたしも漱石の言葉を知ったのは、そんなに古くはなく、何年か前でした。

  • これが流行ったころ、私は米国の高校に通ってました。後で知ったのは、作詞•作曲はIt never rains in Southern California で有名なアルバート•ハモンド(もう1人の女性と共著となっています)でした。アルバート•ハモンドは昨年亡くなりましたが、リオ・セイヤーはインターネットの伝説ではすでに亡くなっているとか。でも生ています。

    作者からの返信

    ありがとうございます。
    私はこの曲が好きで、ツアーで旅するバンドの男が彼女に電話をするという話ですが、遠距離恋愛(結局振られた)時代を懐かしく思い出します

  • 求婚のスタイルは、様々でいいと思います。

    私の場合は、私が医学生、妻の周りでは結婚ラッシュが起きていて、かなり切羽詰まっていたようでした。こちらとしては初めての一人暮らしを堪能していて、妻の気持ちに気づいていませんでした。電話をしてもケンカばかりするようになり、しばらく距離を置きました(もともと物理的な距離はありましたから)。

    「次に電話でけんかになったら、『別れよう』というぞ!」と固く決意していたのですが、3週間ぶりに妻からかかってきた電話がとてもしおらしそうな感じがして、なんだかとても愛おしくなり、ついさっきまで決意していたのはどこへやら、「結婚しよう」と言ってしまってました。

    お金がなく、婚約指輪も結婚指輪もない2人でしたが、結婚して25年、今でもいい関係を築けている、と思っています。

    作者からの返信

    ありがとうございます
    IRON MAIDEN ACES HIGH
    撃墜するか、撃墜されるか、まさにそうだったかもしれませんね

    奥様に撃墜されたのでは?と

  • その昔、ドイツ人の知り合いが、アモルファス金属の製造を試みていたのですが、応用できる可能性の一つに、テニスラケット用のガットというのがあったおかげで、テニス界の大スタービヨーン・ボルグに話を聞いてもらったそうでした。

    作者からの返信

    ありがとうございます。
    調べたらドネーの木製ラケットの時代ですね
    1970年代くらいからスキーやラケットでカーボンやグラスファイバーが出てきました。YONEXは材料工学に秀でていたのでこの時代から飛躍的に伸びていきました


  • 編集済

    この曲が流行った頃、もう1人、悲しい曲を流行らせた男がいましたね。その名はハリー・ニルセン。後にマライヤ・キャリーが歌っって加熱しましたが、マライヤバージョンは愛の歌って感じですが、ニルセンのは、鬱になりそうでした。

    そう言えば、私の母校は、National Center for Supercomputing Applications 発祥の地です。初代所長の息子が、私の息子と小学校の同じクラスでした。

    作者からの返信

    ありがとうございます。
    第82話がマライアのバージョンですね。ハリー・二ルセンだと悲しくなるので私もマライアのバージョンにしました。

    National Center for Supercomputing Applications 発祥の地>さすがです

  • 振られて、捨てられた男の気持ち、少し分かります。アメリカで、最初に好きになった女の子に、デートやダンスには行ってくれたのですが、帰国前に振られました。主人公の様に、本気で恋人同士ではなかったのですが。

    そういえば、前作のABBAのSOS は、私が高校のホストファミリーにお世話になって留学生活を初めた頃に出た曲でした。まあまあの人気だったと思います。翌年、私が日本へ帰国した安知に出た「ダンシング・クイーン」が大爆発したおかげで、77年に大学への留学を始めた頃には、ABBAは大人気でした。よくテレビの音楽番組にも出ていました。

    作者からの返信

    ありがとうございます。
    私の場合が自分が思い込んでいただけ?ということかもしれませんが、この主人公はまさに自分が捨てられた時を投影しているみたいなものです

    主人公は若い頃カッコイイ設定ですが、私はそうでは
    ありません(笑)


    失礼の曲をよく覚えているせいか、ABBAではSOSが一番印象に残っています

  • 第85話 SOS(1975年)ABBA への応援コメント

    ロッテリアって、もうないんですか?

    作者からの返信

    おはよう御座います
    ロッテリアは、かなり数が少なくなりました
    新潟県内は一時撤退
    昨年1店舗、再出店し、今は新潟駅にあるだけです

  • どうでもいい話ですが、ダイアン・レインの母親は、若い頃、プレイボーイのセンターフォールドモデルだったそうです。

    作者からの返信

    ありがとうございます。知らなかったです!

    このダイアンレインが好きな男子、それからポルノ女優にハマッていくので、その課程も…(笑)
    「シリコンバレーとは胸の谷間だ!」
    信越化学に就職して、周りから「シリコンが好き」と揶揄されるのです

    編集済
  • 平成2年に「全学スト」とか「バリケード」という事が行われていた、という事がある意味、興味深いと思いました。

    私は、1回休みをして、平成3年に大学に進学しました。掲示板には、昭和30年代の名残を伝えるアジテーションが書かれていたり、学生運動の残党と思しき人たちが、土曜日に、ヘルメット、サングラス、布で口を覆った形で行進をしているのを見たことはありますが、それも含めて、旧帝大の「古き時代の名残」だと思っていました。

    子供のオープンキャンパスのため、昨年母校を訪れましたが、古き時代の名残は一掃されて、現代風のきれいな学舎が立ち並んでいました。

    キャンパスに一つ、大正時代に建築された校舎があり、私が学生の時にはその校舎でも授業を受けていました。色褪せ、雨のしみがついた学舎は歴史を感じて気に入っていたのですが、在学中に、「建築当初の色に戻す」という事で工事され、出来上がると「ピンク色」に近いような色調となりがっかりしました。それから30年以上経ち、その学舎も見に行きました。もう今はそこで授業は開口されていないようでした。あの頃のピンク色も、30年で色落ちし、ちょっとは見られるようなものになっていて、ほっとしたことを覚えています。

    作者からの返信

    ありがとうございます。早稲田大学も都内の学生が増えて、立て看板はめっきり減ったそうです。
    悲劇は100軒以上あった近隣の書店がたくさん潰れ、1/3になったのです。

    立て看板が健在なのは、京都大学くらいかもしれません

    ただ折田先生へのイタズラは京大では有名ですが、早稲田大学は銅像にイタズラされることは全くないというのが違いだとか

  • おはようございます。ジタン…失礼、ジターヌを吸ってる女の子珍しいとびっくり!(仏文科ではあるあるなのでしょうか?)なんだか羨ましい? 平和なスト世界ですね(⁠.⁠ ⁠❛⁠ ⁠ᴗ⁠ ⁠❛⁠.⁠)
    面白かったです。

    作者からの返信

    ありがとうございます!

    「飛んでイスタンブール」(古い…)で出てくる「ジタンの空箱」、紅の豚のポルコや、ルパン三世など有名ですね。

    私もジタンを吸っていましたが、かなり強いタバコですから好みが分かれます(今はジタンありませんね)
    女性は少ないと思います

    編集済
  • この曲をマライア・キャリーがカバーして人気が出た時、ジョーニーを知らなかった奴らから、人気歌手にカバーして貰って良かったねとか言われて、ジャーニーファンは怒ってました。^_^

    作者からの返信

    ありがとうございます。
    1980年代のロックバラードの代表曲ともいえますから、Journeyファンは激怒するでしょう(笑)

    たしか、よく車のCMに使われていたと思います

  • >北島の野郎は夜なのにサングラスをしやがって、

    この曲を思い出しますね。

    “Sunglasses At Night”. Corey Hart

    https://www.youtube.com/watch?v=X2LTL8KgKv8

    作者からの返信

    ありがとうございます。

    さすがです。自分は作品に色々な曲のオマージュを入れているのですが、
    リライト前に書いて忘れていました(笑)

    「東京は夜の7時」はピチカート・ファイブの曲でした。

  • 鬱展開にならなくてよかったw

    ストーンズは再評価されてもいいバンドだと思います。

    作者からの返信

    基本的にキラキラした源氏物語のような小説が好きですからw

    編集済
  • ニューヨークスタイルのキャフェの他に、サンドイッチの美味しいニューヨーク風のデリカテッセンもあったら最高です。

    作者からの返信

    ありがとうございます。このモデルの店は英会話学校併設の
    Bridge's New York Coffee(https://www.bridge-ny-coffee.com/)
    というお店ですが、サンドイッチはそれらしきものを探してみたら
    Bro Sandwich Niigata(https://gata21.jp/archives/93321977.html)
    もともと東京代官山のお店の2号店だそうです。
    プルドポークのサンドイッチがニューヨークなのかわかりませんが……

  • ボストンのトム・ショルツ(MIT出身)の様なミュージシャンは日本にはいないのでしょうか?

    作者からの返信

    ありがとうございます
    私が知っている限りは、理系はオフコースの小田和正さん(東北大学工学部、早稲田大学大学院理工学研究科・建築)くらししか知らないです。彼はボーカルですが……
    たしかにMITは音楽好きの人が多いそうですね。

  • アヤトン・セナが出てきませんかね?

    作者からの返信

    ありがとうございます。セナは懐かしいですね。好きでした。1990年頃だとアラン・プロストと最強のふたりでした。
    この頃から、計器がデジタル化してきました。セナが見ていた計器は日本精機製ですね。
    ウイリアムズ・ホンダのナイジェル・マンセルまでは、機械式計器で、こうした機械(機械式タコメーター・日本精機製)は感動しかないです(笑)

    編集済
  • いろいろと懐かしいツールが出てきますなぁw

    作者からの返信

    ありがとうございます
    留守番電話とか、テレフォンカードとか、どう使うか分からない人も増えたでしょうw

    ロータリーエンジンの車は今はないはずですね

  • バブルが弾けるのを予測した女子大生とは!

    作者からの返信

    ありがとうございます

    地価が狂乱状態でした。
    地方から出てきた人は「こんなの長くは続かない。田舎に帰って就職する」と言っていたのは事実でした。難関大学の地方出身者は特に冷静にバブル経済をみていたようです。

  • ページメーカー、お世話になりました。日本は書類記入も多く、原本をスキャンナーで読み込んで、ページメーカーで入力して、プリントでした。学会の講演申し込みもこれで書いていたと思います。

    作者からの返信

    ありがとうございます。アルダスページメーカーは私が実際に出版社で仕事をしていた時に使っていました。
    アドビに吸収され、アドビ・ページメーカーになり、今はインデザインですね。

    当時は使い勝手よかったです。写真やテキストをレイアウトしました。
    マイクロソフトワードなどはそれより少し後ですね。

    編集済
  • 第62話 ALONE (1991年)B'zへの応援コメント

    長岡技術科学大学って、東工大出身の先生達が多くなかったですか?

    米国の工学部も寝る暇がないくらいですが、物理工学は更にその上でした。醜い宿題の問題の連続で出てきました。

    作者からの返信

    ありがとうございます。
    私は東大の先生が多いイメージですが、東工大も多い気がします。あと技科大の生え抜きですね

    私の息子、工業高等専門学校ですが、長岡技科大と一体なので寮で勉強のほか企業家に向けた独自学習で、一昔前の大学受験生と変わらず勉強ばかりでテレビをまったく見ないそうです。

    周りに娯楽施設があまりなく遊ぶヒマもないので、都内の大学に行く人とはベクトルの違う人達で、ギークと言われてますが(笑)
    近くに看護大がありますが、相手にされていな…

  • 東北大学の工学部は優秀ですからね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    東北地方+新潟県だと、一番人気だと思います。新潟県だとホントに多いです。

    島正利さんは工学部でなく理学部だったそうですが。

  • 新潟大学の滑り止めで、親の勧めで東京の私立を何校か受ける、その中に慶応もあるという事にして誤魔化せませんか?新潟大学はわざと落ちるとかも?まあ、後でバレるでしょうが、別の大学も考えているという事は伝えられます。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。今後の展開でどうするか出てきますが、かなり難問が出てきます(?)

    私の時代では、大きな私立大学は「記念受験」のようなものがありました。
    合格は難しいけど雰囲気だけは味わいたいと。国立は本命があるので記念受験は難しいです。
    早稲田などは志願者が多く、試験料は大学の貴重な財源だったのです。近年は記念受験者が減って困っているようです。

    編集済
  • 高校では校則を破ってバイク通学していましたが、バイクは下宿していた友人の宿に停めていました。冬になると学ランでは寒く、上は風通しの良くないパーカー/ジャンパー状の物を着てましたが、本当に寒くなると、足が冷たく新聞紙をズボンの中に入れて風を防いでました。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    新潟県内の高校でバイク通学が出来る学校は結構あり、駐車場も整備されているそうです。
    公共交通が本数が少ないなどの理由です。
    しかし冬は降雪期でバイクはもちろん自転車通学はほとんどいません。

    校舎に乗り入れ禁止でも近隣駅までなどパークアンドライドは昭和の時代でもほとんどの高校、進学校でも許可されていたようです。
    たしか新潟高校もバイクでの通学、校舎乗り入れは条件付きで出来るようです

    編集済
  • Rick Astley、声だけ聞いたら皆、黒人だと思ってました。^_^

    作者からの返信

    ありがとうございます。
    私も当時高校生で、今みたいにYouTubeはないですから、ラジオで聞いていたので、どんな人か分からなかったですね。たしかに

  • 三波春夫登場!笑ました。

    作者からの返信

    ありがとうございます!
    「チャンチキおけさ」を知っているのは、すでに昭和世代ですね。

  • 第12話 Vogue (1990年) Madonnaへの応援コメント

    バイクの免許を取って即日、何時間も走り回って、ツーストロークエンジンを焼き付けさせてエンストさせてしま、死にかけました。二人乗りで、飛ばしてました。大型とか中型の区別のない時期でした。お陰で、クラスメイトや高校の先輩等が4〜5人バイク事故で死にました。中型免許ができた理由が分かります。

    作者からの返信

    現在は自動二輪車の免許区分が分かれていますが、わたしの時代は中型限定を取って、限定解除を取るというパターンでした。
    400CCまで中型限定だったと思います。16歳で取れましたが、私は原付免許を16歳で取りました。今は大型バイクは教習所で取れるそうですが、昔は免許センターで実技試験が必要だったと思います。

    4~5人というのは凄い時代でしたね……

    編集済
  • カルテックは変人しかいません。

    作者からの返信

    学生数が少ないこともありますが、日本ではあまり見ないですね

  • 新潟はロシアと人が多かったのでしょうね。うちの学校の生物学科にロシア人女性教授が二人いました。一人は東大でポスドク、もう一人はシベリア出身で、韓国でポスドクをやった経験がありました。どちらも猛烈な性格でした。東大経験者の方は、学生へのパワハラで首になりました。もう一人は未だいます。

    作者からの返信

    ソ連時代は、ソ連に対して開港している場所があまりなく、ヨーロッパ行きはアンカレッジ経由の時は、ソ連極東は新潟空港時代で、もっとたくさんロシア人が居たようです。
    新潟空港にはツポレフやイリューシンが来ていました。
    今でもロシア領事館と中国領事館、モンゴル名誉領事館があります。
    有事の際には新潟から脱出するためだそうです。
    噂では、ロシアと中国の核ミサイルは新潟を標的にしないことに決めてターゲットになっていないとか

    個人的にはロシアの女の子達がいるキャバクラに行った経験があり、楽しかったです

    編集済

  • 編集済

    女には全て毒と棘があると思った方が良いと思います。(これはあくまでも、ジョークです。真面目な意見として取られない様に注意書きを足してておきます。)

    作者からの返信

    いなかの山の中で大きなクモ(蜘蛛)がいて、
    父親が「あれをジョロウグモ(女郎蜘蛛)と言うんだ」と言ったのをなぜか思い出しました