第10話 病院 19:00

 病院に向かうタクシーの中で、僕は腹を立てていた。

 

 何だよ。

 僕がずっと笑って、楽しく仕事して、生きてて良かったと思っているならそれでもう十分? 安心して死ねる?


 頭がいい癖に、何もわかってないんだ、この人は。


 僕は綿墨さんから渡された先輩のインタビュー原稿を見詰めながら、頬の裏側の肉をぎりりと噛んだ。握りしめた掌を開くと、くっきりとした爪の跡がついている。


 僕が笑って、楽しく仕事をしていられたのは。

 生きてて良かったと思えたのは。

 

 先輩抜きではどれも成立しないことなのに、どうしてこの人は自分がいなくてもいいと思えるんだ。

 他人のことばかり気に掛けて自分のことはあっさり手放そうとする。その姿勢に腹が立つし、そんな風に思わせてしまった僕自身にも腹が立って仕方なかった。

 

 思えば先輩が事故に遭ってからの毎日は、罪悪感から目の前の仕事を処理することで必死だった。

 

 先輩の不在で質が落ちたなどとは絶対言わせたくない。

 でも僕の能力などたかが知れている。

 先輩に顔向け出来ないような仕事だけはしたくないのに。

 

 そうして自分で自分に悪意を向け続けることを繰り返していたら、ある日限界が来た。


「僕はひとりじゃ何も出来ない」


 モニターを前に、キーボードを打つ手が止まる。気付けば僕は泣いていた。処理しないといけない書類はまだあるのに。

 動けよ。何泣いてんだ。自分の責任ぐらい取れなくてどうすんだよ。先輩がいないのは誰のせいだ。僕が悪いんだから、僕がやらないと。僕が――


「よぅ。煮詰まってんな」


 聞き慣れた声がした。

 誰だ。

 見たことのある顔が、僕の手元を覗き込んでいる。


「わー、どえらい量の仕事さばいてんじゃん。やっぱお前やるね」


 書類を一瞥して感心している、今目の前にいるのは何だ。


「あれ、何か痩せた? めし会出来てないからって、食わないのは良くないぞ」


 偉そうで、優しくて、馴れ馴れしくて、温かい。

 この人のことを、僕はよく知っている。


「俺がいない間、ひとりで踏ん張ってくれてたんだな。ありがとう」


 あぁ、そうか。

 聞きたいことは山ほどあったけれど、そんなものは一切合切棚に放り投げた。


「さぁ、またゴリゴリに鍛えていくぞ。いつまでも俺の後を付いて回るヒヨコじゃ困るからな」


 先輩。直先輩。


「これからも頼むな、八代やしろ


 僕の名前をこんなにも柔らかく呼ぶのは、先輩だけだ。

 本当は幻だったとしても構わない。

 そう思った瞬間、僕はこの不可思議な状況の全てを受け入れていた。


 本体は眠ったまま、先輩はオフィスに現れては僕に色々と指導した。

 企画書作りもその一環だと思っていたら、まさか綿墨さんを巻き込んで僕を独り立ちさせようとしていたとは。


「誰にだって不思議な経験のひとつやふたつぐらい、あるだろ」


 本当だ。

 病院にいるはずの人間が生霊とばして後輩に仕事のやり方をレクチャーするって、どんな話だよ。

 これまでのことを思い出しながら、僕はひとり笑う。

 「ないでしょ」なんて、心の中でツッコんで悪かったな。

 腹を立てていたことも、いつの間にか忘れている。あの人は相手の毒気を抜くのが物凄く上手いのだ。


 時刻は午後6時30分。

 面会時間は残り30分しかない。

 総合病院の玄関を抜け、先輩の病室へ。


 呼吸を整えてから、ゆっくりと中に入る。

 衝立の向こう、規則的な機械音が聞こえる。


「先輩、八代です」


 薄青い病院着を身に着けてベッドに横たわっている先輩に呼び掛けた。


「遅くなってすみません。綿墨さんから企画書ほぼOK、もらいました」


 点滴の針が刺さった腕は、血管が浮いていた。視線をそのまま顔へ走らせる。

 

 痩せたな。

 

 目を閉じた先輩の顔。デスクで仮眠をとっている時とは全く違う。ザラリとした器の表面を触った時のように、背筋がぞわっとした。


「先輩。今日は企画会議の日ですよ」

「綿墨さんにも、口利きして欲しいなら先輩を連れて来るのが条件だと言われました」


 呼吸の度に胸がわずかに上下しているのを見て、今ここにいるのは生霊ではなく生きている先輩その人なのだと自覚した。


「起きてくれないと、せっかく作った企画書がボツになっちゃいます」


 そこまで言ってから、僕は「違うな」と思った。

 本当に言いたいことは、そうじゃない。

 僕は先輩とまた話したいんだ。

 いつものように軽口を言い合いたいんだ。

 でも、ダメだな。

 実物を前にすると、洒落も韻も、何も浮かばない。ましてや会話に伏線を張るなんて、そこまで頭が回る訳もなく。

 口をついて出てきたのはとてもシンプルで、よくある言葉だった。


「先輩、死なないで」

「起きてください」

「ねぇ」

 

 軽く体を揺する。だらりとした身体は揺さぶられるがままで、抵抗も反発もなかった。間近に死の気配がしたようで、途端に怖くなる。

 僕は少し冷たい先輩の手を、力いっぱい握り締めて続けた。


「本当は寝たフリしてるんでしょう」

「先輩には言いたいことがいっぱいあるんですから、目を覚ましてください」

「僕を独り立ちさせるなんて、100年経っても無理ですよ」

「言ったでしょう、僕はいつまでも先輩の庇護のもとで、何かあったら先輩に責任をなすりつけられる平社員であり続けたいって」


 言い始めたら止められない。


「大体先輩みたいに思いつきで即行動するガンガンいこうぜタイプのヒトにまともについて行ける人間なんて、僕ぐらいなもんですよ。綿墨さんだって大吟醸と引き換えに僕の面倒を見るなんて御免だって思ってます。あの人は醸造酒よりも蒸留酒の方が好きだってこと、知らないんですか。ろくに会話もしないで知った気になってるから思い込むんです。頭いい癖にそんなことだから色々間違えるんですよ。僕のことだって助けなければこんなことにならなかったのに、本当はバカで抜けてるんですよね、先輩は」

 

 だから。


「僕が先輩の足りないところを全部カバーします。次は僕が先輩のことを助けますから」


 お願いします。


「起きて。目を覚ましてください。先輩」


 今日の面会時間の終了が近いことを告げるアナウンスが流れる。ここで帰ってしまったら、僕はもう二度と来ることが出来ない気がする。

 どうしたものかと思っていたら、点滴セットを持った看護師がやって来た。

 お互い軽く挨拶をすると、看護師は先輩の顔をじっと見て「あら、いつもより動いてる」と言った。

「何がですか」

「この患者さん、今ぐらいの時間になると目の辺りがピクピクするんですよ。今日はいつもよりよく動いてる気がして」 


 その時、僕のスマートフォンから夜7時を告げるアラームが狭い病室に鳴り響いた。

「うわ、すみません!」

 しまった、病院なのに。

 急いで止めないと。

 パンツの後ろポケットに入れていたスマートフォンを取り出そうとした拍子に、立て掛けてあった衝立に身体が当たった。


 ぐらりと衝立が倒れる。

 金属と床がぶつかり合う大きな音。

 そこに被さるアラーム。

 慌てる僕の声。

 

「失礼しました」

 アラームを止めて顔を上げると、看護師が目を見開いている。視線を辿った先で見たものに、僕は声にならない声を上げた。


 ベッドの上で、先輩が前を向いたまま上半身を起こしていたのだ。


「先生呼んできます!」

 看護師はそう言うと、パタパタと出ていった。


 2人きりになった病室で、先輩の目がぼんやりと僕を捉える。

「夢を見たんだ」

 小さく掠れた声で、先輩が口を開いた。

「俺が綿墨のところに行ったり、お前に企画書の作り方を教えたり」

「はい」

「俺の手を握ったお前が、めちゃくちゃ喋ってて」

「握りましたし、喋りました」

「いつものお前のけたたましいアラームが頭いっぱいに鳴り響いて、金属がぶつかる派手な音も聴こえて」

「僕が衝立を倒してしまったんです」

「あいつ、また何かに巻き込まれたんじゃないか、だったら俺が助けなきゃと思って」

「僕は大丈夫です」

 数秒間、先輩はじっと僕を見た。

「先輩のお陰で、生きてます」

 ぼやけていた先輩の目に少しずつ意思が戻る。唐突に「あ!」と大きな声をあげると、僕の身体をぺちぺちと触り「無事で良かった」と笑った。


 ほらね、綿墨さん。

 僕が思った通りの反応だったでしょう。


「先輩、退院したらご飯に行きましょう。僕のことを助けてくれたお礼と、先輩の快気祝いをさせて下さい」

「おぉ、いいな」

 あの時のようにすり抜けたりすることなく、先輩の手は僕の肩をぽんぽんと叩いた。

「先輩が眠っている間に何があったのかレポートにまとめるので、それまでに読んでくださいね」

「了解」

 集まった不思議な体験談は僕の分を含めて全部で5つ。企画書をブラッシュアップさせたら、先輩を連れて綿墨さんの事務所へ行こう。生霊だった先輩に対するインタビュー内容は、僕と綿墨さんだけが知っていればいい。


「めし会、いつにする?」

 大きく伸びをしながら、先輩が尋ねた。

 そんなの決まってる。


「今日から2週間後の金曜日、夜7時で」


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