終章: 二つの世界
新たな目覚め
魔女の襲来から、数ヶ月経った。あの日、何故、どのようにしてあれが止まったのか。未だ誰もわかってはいない。
だがそれ故に、あの場で、城壁の2割と、近付いていた民たちを犠牲にして暴食の魔女が消えた事は単に事実としてここで記しておく。
あの鉄火場だ。優秀な人間ほど前に出て、そして率先して命を散らした。それらがやっていた事の引き継ぎや改めての指示。今日こうして、我が、エルシオンが、書庫に詰まることが出来ているのは、本当にあの時ぶりだった。そうだ、あの日の変わった来訪者たちと出会った時の事。聖女を目指す少女たちの一団。
……あれらの正体は…
「そのまま。動かないでください」
…筆を動かす手が止まる。
いつからここに居たのか。
どうやってここに入ってきたのか?ただ首筋につんと当たる、冷たい鉄の感覚に冷や汗が垂れた。振り返ることもできない。
「お久しぶりです。エルシオン様」
「……その声は…イスティくんか。
それとも、暴食の魔女と呼んだ方がいいのか?」
「ええ。それは正味どちらでも良いです。
なのでまあ世間話もほどほどに」
時間稼ぎは無しだと言うように、ぐっと、鉄の当たる感触が強くなる。背筋が冷え込むが、それでも虚勢だけは張り続けた。それが唯一、我にできることだった。
「分かってはいるでしょうが、いまの私には貴方を殺す事なんて簡単です。なので抵抗はやめてくださいね。
用事をただ一つ、こなしに来ただけです」
「ダルク・アーストロフの場所を教えてください」
「…なぜ、我が知っていると思った」
「先ほど私に、魔女と呼んだ方がいいかと問いましたね?あの場では、魔女がイスティ・グライトであるとはわからなかったはず。だからそれを知っている人と交流をしたのかと思いまして」
しまった、と目を見開いた。
余計な軽口で、情報を与えた自分の迂闊さを呪い。
そしてまた、死ぬわけにはいかないと。
保身でダルクくんの場を売る自らを恥じた。
「ふむ…やはりそちらですか。
ありがとうございました、エルシオン様。
あなたはもう用済みです」
ああ、遂に。こうなるのではないかと覚悟はしていた。だが実際に瞬間が来るとなると、悔いが出る。それならばせめて、戦友の場所は吐かずに死ねばよかった、と──
「…なーんて。すみません、ジョークにしては品が無かったですね。やっぱり私にはこういうのは難しいみたいです」
「…え」
ふ、と緊迫した空気が消える。否。緊迫した空気など、元からそんなものなどあったか?首に突きつけられていた鉄の感触が、ただのペーパーナイフだとわかって我は更にその疑念を深めた。
「安心してください。
もう、私がここに来ることはありません。
王都の土を踏むことすらありませんから…」
「…君は…まだ、イスティ…」
「……すみません。
あんな大言壮語をしておいて。私は結局聖女になることなどできませんでした」
「私の罪は二度と消えません。それでもせめてもの罪滅ぼしを、私はしようと思います」
「…イスティくん!」
我が急いで背を向いた時には、そこにはもう誰の痕跡もありはしなかった。ただ、一つ。黒い蝶の翅がひとひら落ちて、そのまま宙に消えた。
…
……
(出せ、出せ、出せ)
顔まで隠れたフードと、身に余るようなサイズのメイス。服飾の奥から覗く真白の髪と桃色の眼は自らを嘲るように歪む。
「無駄な努力をして可愛いですね、魔女さん。戯れにでも貴女を…ウィズとでも名付けましょうか?」
(…何の意味があるの。名を与えて卑俗化させるつもり?そんなもの意味がないわ)
「くすくす、言ったじゃないですか。戯れですよ。それにもう、私の中で暴れないでください。どうせ無駄なんですから。もう二度と貴女の番は来ません」
「貴女はこれから、私の目的の為の燃料になってもらいます。もちろん拒否権はありません」
(なんで…なぜ…取り返せない。
この身体をどうして、取り返せない。
ただの偽物の人格如きに、どうして…)
一人でぶつぶつと喋り続ける姿は、物狂いに見えるだろう。周囲の人民はそれらから目を逸らしていた。その人が、魔女そのものだと知ればどうなっただろうか。
「そんなこと、当然でしょう?
だって貴女には何もない。生まれたばかりで喰らって殺すことしかしてこなかった。だから貴女は空っぽなんですから」
「だけど私には情景がある。
私を守ってくれた彼の思い出がある。
私にはヴァンがいる。ヴァンが、私の愛した人がいる。愛した人が私を愛してくれた。私は彼と口付けをした。誓い合った。そしてあの人たちとのかけがえのない記憶がある。だから私は満たされている。そんな私をからっぽな貴女程度が、返せる訳がないでしょう」
「だから貴女は二度と出てくるな。
私の許可があるまで、黙っていてください」
(……馬鹿、ね。
私を否定した所で、罪がなくなるわけじゃない。
私はあなたで、あなたは私なのよ。
それは、無くならないこと…)
「ええ。わかっていますよ、ウィズ」
だからこそ、私はこのやるべき事をやるのだから。そう呟いてからそのフードをばさりと脱ぎ捨てた。その下にあったはずの肢体は、黒い鱗粉と共に消え失せていた。
…
……
「ぐう、う…」
ある廃墟の中。
全身の苦痛でその少年は目が覚めた。身体から流れる体液は真っ黒で、自らのものだと理解するのに時間がかかった。そしてまた、全身が蠢いて肉が治って行く様を見て、自分の身体の気味悪さに正気を失いかけた。ばっくりと、根本から無い片腕はもう二度と治らないようだが。
少年は何も、思い出せない。
どうしてこのような場所にいる。
どうしてこんな怪我を負っている?
自分は一体誰だと言うんだろう。
「オレは、なんなんだ…?」
身体は、すこぶる軽い。
いつに比べて、軽いのだ?
記憶はないのに、身体だけはやたらと強靭に、強く動く事だけはわかる。まるで妙な薬でドーピングでもしたように。
割れて壊れたガラス片で自分を見る。
まだあどけない少年の顔がそこにはある。
これ以上なく他人事のような感情で、自分の顔をジロジロと眺めると、たった一つ。染みついた自分の記憶が蘇ってきた。
記憶の中にこびりついてるものだけがある。
泣き出す女の子の顔。ただ、それだけ。
その女の子の名前も思い出せない。
何があったのかなんて、当然。
だけど一つだけわかることがある。その子を泣かせたのは自分と、今、自分がここにいる世界のせいだという事だ。
「…なるほどな」
自分の名前もわからない。
何をしていた人間かもわからない。
目的意識以外の全てが虚無だ。
だから、自分は虚無と名乗ろう。
ヴァニタスと、それを名乗ると決める。さすがにそれは、かっこつけすぎだろうかと自嘲しながら。以前の自分も、こんなかっこつけしいだったのだろうか?
だけれど、どれでもいい。
ヒトが生きるには生き甲斐が必要だ。
この体液と、生態で、自分が果たして本当に人間かどうかもわからないけれど、自意識はまだヒトのままであるから。
2つの目的を作る。
一つは、この記憶の中の少女に会う事。
そしてもう一つは。
「オレのやるべき事がわかったよ」
そう呟いてから、無い武器の代わりに落ちていた鉄パイプを拾った。ねじれたラジオからは、壊れた音だけが聞こえてくる。
自動ドアを蹴飛ばしてから、鉄パイプを自らの体に突き刺す。そうして真っ黒になったパイプを肩に担いで。
すっかり、伸び切った髪の毛を後ろに結んだ。
さあ、いっそ何もやることがない。ならばこの、やたら文明が発達したこの世界をそのまま滅ぼしにいこう。
記憶の中の子を泣かした、この瘴気まみれの世界を。
…
……
……ああ。
……目が覚めたら。あんなにいつも空いていたお腹がいっぱいになってることが、とてつもなく不快で。
それはつまり、ずっと食べないでいようと、そうならないでいなければ
ならないと思っていたものを食べてしまったことを表していて。
「…吐け」
「吐け吐け吐け吐け吐け吐け!」
どす、どす、どす。
ボクは自分の腹部を何度も、何度も殴打する。
あざだらけになっている腹は、ボクがそれを毎朝のようにやって、現実から逃避しようとしていることを表しているのに。
「吐けよッ!!
クソッ、クソォオオッ……!」
そう、錯乱してからまた正気を取り戻す。
今が正気だと言うならボクはこのまま狂って、夢を見たままでいいのに。だけれど一つだけ残った目的意識が、発狂を唯一押し留める。希望と言うべきか、地獄と言うべきか。
「…いか、ないと…」
ボクは単身、ただアルターに向かっている。
自殺行為だとはわかっている。
だが、もうそれしかない。
ボクが出来ることはただもうこれしかないのだ。
力を得る為の呪いは消え失せた。
まだ聖力も使えない。
手先が震えて、衰弱してナイフすら重い。
だけどそれでも歩かないと行けない。
あそこに迎え。親友との約束を守らないと。
それまでは、折れてはいけないんだ。
目的地の、その近く。
強大な魔物が目の前に居る。
竜とか、そういうのに近い。
元はトカゲだったのだろうか?それに関する思考ももうめんどくさくて、ボクはただ膝から崩れ落ちた。
結局。ボクはなにも出来なかった。
ボクの努力はただゴミだった。
もう、それでもいいやと思いつつあった。
丸呑みにしようとしたその牙をぼうと見ながら、ただナイフを握ろうとして、やめた。
瞬間の事。
「……彼を救え。『薄明の蝶』」
黒色、白色。
その二つが混じり合った蝶々がボクを纏った。
そしてまた、竜もどきの身体も。
ボクを包んだ身体はそれまでに負った傷をじくじくと治しながら安全な場所に運び、魔物を纏ったものはそのまま力を奪って行った。
「…間一髪、でしたね」
「…嘘だろ…キミ…イスティ…?」
「ええ。助けに来ましたよ、ダルク!」
ボクは果たして狂って幻覚を見てるのだろうか?もう、それでもいい。もうなんでもいい。だからそれを見て、ボクは頭を下げた。地面に蹲って、地に額を擦り付けて。
「お願いします…
ボクを、あの世界へ…第二世界へ連れて行ってくれ…」
顔は見れない。ただ、頭を下げて、震える身体を抱きしめるように祈り続けた。
「あいつが…ヴァンは。
動けなくなる直前に第二世界に行った!
記憶の失った自分が何をしても、ボクらに迷惑をかけないためにって!でも、そんなことしたら死ぬ!あいつ、死ぬ気なんだよ!」
だから、これが終わったら『オレ』を探しにきてくれよ。きっと、かっこつけたくて馬鹿やってるだろうから。
そうボクに彼は言い残したんだ。
だからボクはそれを守らなきゃいけない。
せめて、それだけでも。
そう言い聞かせて、ボクはあれから生きてきた。
「…ボクは、散々にキミをなぶった。散々に痛めつけて、キミを見捨てようとした。そんなことをした分際で虫が良すぎるなんてわかってるんだ」
「でもボクにはもう…もう、イスティしか…
お願いします…ボクには何をしてくれてもいいんです…だから、だから…」
ぐっと、肩に手を掛けられて顔を上げさせられる。瞬間に映るのは彼女の曇りのない眼。今までのように、迷いの一つもない目だった。
「何を今更、言うんですか。私たちはともだちです。友達の間で、そんな他人行儀な頼み方なんてナンセンス、ですよ!」
「…イスティ…」
「…ねえ、ダルク。私は魔女です。
私は、私が死ぬべき存在だとわかっている。空っぽの偽物です。だけど、だけれどね。それでも私がここにいる理由を守りたい。聖女という夢をかなぐり捨ててでも、その聖女としてあらんとした私を見てくれた貴女たちを守る。そう、決めたんです」
「私は、ダルクとヴァンを。…本当は、そこにドクターもいて欲しかったけど…二人を脅かす全てを私は殺す。喰って喰って、皆殺しにします。そうしてから私は自殺します。それが私の、ともだちになってくれた二人への唯一できる恩返しですから」
ボクは朗々と話す聖女志望の彼女の姿に、暫く唖然とした。そしてその上で口をつぐんで遠くを見た。
彼女のその狂い方を、止められなかったのは自分なのだから。だから何も言わずに、イスティの手を取った。
何にせよ、目的は一緒なのだから。
だからボクはこのまま、ダルクのままでいよう。
らしくもない、こんな土下座をする自分じゃない。
いつだって、へらへらと笑うダルクで。
「…さあ、行きましょう。ダルク」
「…はは、そうだね。早速行こうか」
「ええ!いざ、第二世界へ!」
世界の淵。
魔物の巣窟としか無かったその穴へ。
ボクらはただ、迷いなく飛び込んだ。
…
……
……全て、遺った者たちは立ち上がり始める。
その理由が、なんであろうと。
唯一残った約束に縛られてか。
唯一の愛に殉ずるためか。
唯一ある記憶をしるべとするようにか。
いずれにせよ伸びた影はただそのまま、彼ら自身の新たな目覚めと目的になって走り出す。止まる手段も、無いままに。
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