終端



断崖。クレバス。巨大な、虚。

醸し出される怖気はそれに近い。

生き物ではない。脅威というにも少し遠い。

凶悪な獣への危惧よりもそんな、天災や事象そのものへのぞくぞくと身が震える恐怖が、その魔女の生み出す緊迫だった。

天から下る災害そのもの。

それの存在は、きっとそういうものに近い。


どうなるか。どういう一手をするか。

そう固唾を飲んだ一行を前に、した第一声は。

はあ、というため息。



『おなか、すいた』



魔女は平然と彼らの横を通り過ぎた。


眼中に無い。

それは侮辱や軽んじるということではない。

ただ単に『量が少ない』から眼中に入らなかった。

代わりに視界に入れていたものは、外でヴァン達が散らしてきた魔物と孤児院の経営者の大量の死体達。それに向けてふうと掌を翳した。



『もってきて。大罪の蝶』


漆黒の光が咲いて飛ぶ。黒そのものというよりは蝶の形に空間に孔が空いたような、不自然な黒色。次元の狭間のような蝶の色。

屍体と血と、血に染まった土や縄と共々をその黒蝶がざわざわとたかり、蠢いてから去っていく。その去った後には骨すら残らない。血の一滴も肉の一片も何一つ残らずに、全て喰らった。


けぷ、と小さなげっぷ。それでも無表情にまだまだ、足りないといわんばかりに首を傾げた。



『あっちの方に、もっと沢山あるわ』


『…素敵。とっても、おいしそう』



ぞるり、と足元から闇が湧く。

黒色の草が、蝶が、毛虫が穢れが。足元でキャタピラのようにぐちゃぐちゃ、ぐるぐると回って彼らの女王を前に進めていく。魔女が曖昧な笑みと共に素敵と評価を与えたその方向。


そこはつまり彼らが向かってきた、王都の方向。

人々の営みが存在する場所。

周囲に黒色が蠢き、宙空へと浮いた。

そちらに向けて死の行進を始める。

黒い女王のマーチが、ただただ征む。

蹲る塵など、見向きもせずに。



「うああああッ!ああああああッ!」


「あはははは、ははは!無駄だった!全部全部無駄だった!ボクのやったことは、ボクのやることは全部、全部全部!『今回』も失敗だ…やっぱり、ボクは…ボクはだめだ…ボクにはなにも…」



残された建物の中でダルク・アーストロフが悲鳴を上げて頭を叩きつける。額から血を滲ませながら、正気を流すようにぼろぼろと涙を流して蹲った。うわごとのように、自分を責め続ける背を、膝を突いてただ寄り添い摩る。


「ダルク。お前は…罪を全部被って、暴食の魔女として討伐されるつもりだった。魔女降臨の騒動の全てをそうして終わらせて、死ぬつもりだったんだろう」


「……う、うう…」


「…お前のやりたいことは、正直まだわからない。だけど嘘と犠牲で塗り固めた平穏なんてすぐに限界が来ることくらいはオレにもわかる」


「…ヴァン…

なぁんだ。きみ、はなからハイレインと手を組んでたのか。戦ってたのは狂言かよ。ハハ、きみに裏切られてたんじゃ、仕方ないか…きみもボクが憎くて仕方がなかったんだな…そりゃそうか…」


「!それは違う!

…オレは、オレはお前が死ぬのが嫌だったんだ。

だから、オレは…!」



「痴話喧嘩の最中、済まないね。

こっちの準備は整ったぞ少年」



会話を切り上げさせて、女医は感情の無い声で囁く。震える手を抑えながら、シリンダーに激毒を詰め込む。

ダルクとイスティは知っている、あの薬。

その者の時間と引き換えに力を渡す魔女殺しの薬。



「ハイレイン。あんたの言う通り魔女は目覚めた。

これからどうするつもりだ」


「ああ、目覚めたとも。そしてチャンスも今。

目覚めたばかりの奴は、寝ぼけ眼だ。

それにとてつもない空腹、エネルギー不足。

歩き食いをしながら王都に向かうだろう」



何かを食べてる瞬間ほど隙だらけの時はない。

寝ぼけている時の判断力の低さ。

黒いあの蝶も、彼女の周囲から離れるだろう。

それらにつけ込むと、彼女はそう言っている。



「…今度こそ奴を殺す。

確実に魔女を殺すには、潜伏している状態ではない。覚醒状態になった時に殺し切る必要がある。その為に、私はイスティ・グライトに…

…真実を、教えてまで目覚めさせる必要があった」


「嘘つき」


「……」


「あんたの合理性は矛盾している。矛盾だらけだよ、ハイレイン。…もう、イスティの中にいる暴食は目覚めかけていた。わざわざ記憶を取り戻させる必要もないくらいに。それにあんたは、オレらに手を出させないつもりだろ?魔女を殺すだけなら、オレ達の手を借りたほうが確実だっていうのに」


「あんたは、どうしてそこまで言い訳をするんだ。

せめて本音を吐いてくれよ。…仲間だろ」



「…ハァ…ドクターを、付け給えよ少年。

だが、言い訳か…ふふ。なんて的確な言葉だろうな。そうだ。全て、言い訳なんだよ少年。これ以上犠牲を出してはならない、というのも。君たちにこれ以上関わらせたくない、というのもな」



鈍足で駆けていく黒魔女の地響きに耳を傾けながら、ハイレインはマスクを外した。顔全体を覆うそのマスクの下にある表情は、見る者が凍りつくような程憤怒に歪んでいた。


「…消えないんだ。

私から、皆を無茶苦茶にして母を殺して、姉を狂わせ全てを我が物顔で喰らって。そんな奴への憎悪が怒りが、消えないんだ」


「憎しみが、消えないんだよ。

だから殺したいんだ。私が、この手で」



…ヴァンは、どのような事を聞かされたにしても彼女の征伐に無理矢理ついていくつもりだった。どんな事情があれど、絶対に二人で戦った方が成功率は高いだろう、と。

だけど彼女の吐露した感情は、彼に自身の存在がむしろ足を引っ張るだろうことを理解させた。それは実力の有無や感情論ではない。

もし少年が魔女を仕留めようとした瞬間、ハイレインは少年をなんの躊躇いもなく攻撃するだろう。自らが、とどめを刺すためだけに。



「だからダルク。ヴァン。私は征くよ」


「……そうか」


「ああ、それではな」


医師は、掌にあるマスクをただ彼らに渡した。

もう二度と被る事はないと言うように。

ハイレインは、かの薬を自らに撃ち込む。

自らを咎人として、処刑するように。


がぁん。

一発で、紋章獣を素手で殺す程の力を得る薬。

それを。何度も、何度も何度も何度も。

自らに撃ち込んだ。

一発で、代償に彼女の命の数割を奪った薬。

それのこの過剰投与が意味することはつまり。



「ハイレイン。…オレは…」


「……君はダルクくんを見ていてやれ。

そのままだと、自ら死を選ぶだろう」



「……ドクター・ハイレイン」


「なんだ。

最期くらい気の利いた台詞を言えよ?少年」


「楽しかったな。みんなでの旅」


「ああ。まったくもって、な」


びきびきと血管の浮き始めた顔に、似つかわない優しい笑みだった。

ちゅん。石畳から火花が散った。それが彼女の靴が音を超えて動いた音だと言うのは、目の前からその姿が消えていった後に気づいた事だった。



「………ダルク」


「うぅ、ああぁっ、うう…」


「…すまなかった。

お前に悲しませないなんて、誓っといてこのザマだ。オレは結局、お前にばかり背負わせちまった」


「……今度はオレも、覚悟を決める番だ」







……





まだ奴は覚醒しきっていない。

力に慣れようとしている最中。

駆けて追いつき、その観察をする度に確信した。

まだだ。あの時母を殺した1割の力もまだ出せていない。黒蝶を駆る姿も、宙空を歩きながら自らの足につまづく姿も、全てが物語る。故に決着はすぐ訪れるはずだ。


急激になった脳への血の巡りが時間感覚を鈍麻させる。思考がやたらと早い。目の前の動きが全て、スローに見える。

だが遺された時間はきっと、自覚よりもずっとずっと短い。この身体の異常に、血管も臓器も耐えられる筈はないからだ。



『……なあに、あなた』


尋常ならざる気配を感じたのか。

はたまた、銃の音がうるさかっただけか。

少なくとも暴食の魔女はドクターに気付いた。


すると無数の蝶が彼女に向かう。

全方向から、ハイレインを喰らわんと。

横目でちらりと、運のない哀れな旅人の姿を見た。

蝶が触った所からはそのまま肉も骨も消えている。

全てまっさらに、喰われて消滅している。そこにあるのは蝶と同じ色の、ぽっかりとした闇だけだ。



『…くさくて、とってもまずそう』


顔を顰めた魔女。

それに返礼するようにハイレインが手に持った銃を乱射した。どれもが、狂気の魔女の体躯に掠りもしない。身体が制御できず、当てずっぽうをかましているのだろうか。答えは、否。


撃った弾も、スローに見える。過剰なドーピングな目の血管が切れ、失明する直前に。彼女はその脚を駆動させる。



きゅん。ちゅん、がぁん、ぱきん。


幾つかの、硬質音がして。刹那に、ハイレインは宙に浮いている魔女の目の前に出現して。そのま、胸ぐらを掴んでいた。向かわせた筈の蝶も置いて行かれている。

瞬間移動をしたのかと思うような移動のそれ。

だが、違かった。


ハイレインは自らが撃った弾を、そのまま飛び石にして中空を駆けて飛んだ。飛んだその先で、銃弾を更に打ち出し。それを踏み台に、空中での軌道を駆けたのだ。何かを弾いたような音は、弾かれてあらぬ所へと跳んだ弾と破壊の一線を超えた拳銃の破損音。



初代聖女との戦いで一度失った身体。

立ち上がったばかりでの魔力不足。

寝惚けている、判断力の不足。そして、ただ、歩き食いをするための粗食と思ってしかいなかった油断。

それらが重なって、唯一。

勝機がここにある。ここにだけ、ある。


何十重にも重なった針に、糸を通すようなそんな無理を通したような条件。ハイレインはそれをこそ待ち続けた。待って待って、待ち続けて、ようやくここに来た。


届いた。

牙が、届いた。

胸ぐらを掴み、魔女は反応が遅れた。オート・ガードをしている黒蝶も咄嗟の移動に置いて行かれて、まだこちらに追いつけていない。

心臓を貫かんと手刀が作られる。手先が膨張によりぐずぐずに崩れかけているが、まだ、動かせる。

振りかぶって。それを、放って。




「……ドクター?」



「………」



感覚が、鋭敏となっていた故に。

そう、呼ぶ声を聞き逃せはしなかった。目の前から聞こえてきた小さな声。たった一言。その声はくぐもった大気を揺るがすルーンの声ではなく。ただただ、可憐で。ずうと聞いていた声。


ハイレインには魔女に対する、全くの憐憫はない。

イスティを慮る気持ちも、とうに殺した。

殺害に不要な感情は全て置いてきた筈だった。

イスティ・グライトを告発したあの瞬間に。彼女の人格を殺したその瞬間に、そんな感傷を全て殺したのだ。そうでなくばならないと。



なのに、一瞬だけ。小さなその声で、イスティ・グライトとの。ダルク・アーストロフとの、ヴァンとの記憶が、巡った。

感情は消したけれど、想い出と記憶そのものは置いてこなかった。置き去ることなど出来なかった。なぜだろうか。仲間、という響きが思いの外気に入ったからかもしれない。


こちらにメニューがあります、と嬉しげに声をかけてきた時のこと。幼い母に瓜二つのその姿を見て内心驚愕した事。

献身を胸に、暴食の瘴気に呑まれた村人を助ける姿を見て。助けられなかった人々を見て涙を流す姿で、母の代用品でなく、イスティとして見るようになった時のこと。旅を歩くにあたり、ただ本当に彼女を眺めて微笑むようになっていたこと。

その、村の瘴気も。ラウヘルの暴食も。目覚めかけていた魔女自身の仕業だと知ってしまった時も。それを知りながら彼女を眺めていた自らの記憶も。

私が正気を失ったら、これで殺してくれないかと、あの時にイスティに渡した銃を思い出した。だからどう、という訳でもないけれど。



彼女の記憶は、追想と思い出は。

ただ消えない憎悪と呪いを刹那のみかき消した。

かき消して、しまった。



「…ああ。クソ」



牙は、届いたのだ。

確かに、災厄の心の臓を貫ける場所まで。



「───だめか」



だけど一瞬の停止が彼女を正気付けた直後。

ハイレインは諦観を口の端に浮かべた。

邪悪な笑みを浮かべる魔女の顔が最期に、見えた。

それは純朴なイスティの表情ではない。

いとも容易く人を殺し騙す、酷薄な──



そうして女王を守らんと。

黒い蝶々が、医師を包み込む。

その、スローモーションの動きを。

ただゆっくりと目を閉じながら眺めていた。





『……げぇ。やっばり、まっずい…』




…ただ、それが。彼女の終焉。

天災に呑まれただけの、哀れな終焉。


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