着実に距離は狭まって





激痛。彼女が手を動かすたびに痛みが走る。

それを寧ろ楽しそうに、動かされて。

ぶつり、ぶつりと身体から音が鳴る。


「う…ああ、痛い痛い!」


「ハアハハ、我慢しろ。男の子だろう?」


「やめ…ッ!痛ッ!」


廃屋中に悲鳴が響く。

僕の、情けのない悲鳴だ。

ぷつりと皮膚が貫かれる感触。

だが、それよりも痛みを感じるのは…



「痛だだだだ!

だからなんでつねる必要があるんだよ!しかも太腿!」


「だから我慢しろ、ヴァン。縫ってる方の痛みは薄らいだろ?人の脳は何箇所も同時に痛みを感じるようにはできてないんだ」


ローラウドはそう宣ってはいたが…

…なんかただ痛い所が増えただけな気もする。






……



「さて、縫合はこれで終わりだ。

にしてもくっつけ方が雑すぎる。

これはお前が自分でやったのか?」


「…ああ」


「二度とやらない方がいい。

キュビズムより酷い腕の生え方になるぞ」


「だって、自分でできないからくっつけてくれ、なんて他のやつに頼んだらカッコ悪いじゃないか」


「カッコつけて、こう腐りかけてるんなら世話ないだろう」


…同行を申し出られ、付いて行って。

その直後に僕は後ろから昏倒させられた。

目が覚めて次に居た場所は見知らぬ廃墟。

そしてそこで僕は腐敗しかけ、動きにくなっていた腕と脚をぶつりぶつりと裁縫細工のように縫われていた。

縫われる痛みに苦悶をあげたら、次はつねられた。

そっちの方が痛かった。


だが、実際相当に腕も脚も動きやすくなってくれた。黒い血と腐りかけてた肉をも適応させてくれたらしい。

これに関しては、礼を言うしかないだろう。

金色の髪を靡かせながら、自慢げに首を振るった。


「さて…ここが当面の私のねぐらだ。

ここでならゆっくり話せそうだな」


「お茶菓子は出してくれないのか?」


「我慢しなさい。後でカフェにでも行くか?」


軽口を叩けば、優しい顔でそう答えられる。

その優しい顔は『ローラウド』より記憶の中にある『姉さん』にずっと近しくて、見ていられなくなり目を逸らした。


「…改めて、だ。ヴァン。何故、お前はそうなった?

何がどうあってそんな身になった。

ダークナイトなんぞにやつした理由はなんだ」


「それを話すのは、まずあんたがオレに誰が魔女であるのかを教えてからだ。ついでに、お前の目的もな」


「全く、堂々巡りだな。別にそんな下手な取引をしなくても私は話すと約束するがね。そんなに私が信頼できないか?ヴァン」


「出来ない。あんたはいつだって約束を破る。手袋を編んでくれると言った時も、字を教えてくれると言った時も…」


「…また逢いにくる、と言った時も。

約束を守ってはくれなかった」


「……確かに、そうだな」


ただの当てつけのつもりで言った言葉に、ローラウドは哀しい顔で一度俯き、ならばお前から先に聞きたいことを聞いてくれ、と態度を一変させる。妙な罪悪感で胸がちくりと痛みながら、結果的にはよかったじゃないかと自分を納得させて質問を始めることにした。


「ローラウド。あんたは何故魔女に従う?魔女の下僕として瘴気をばら撒いての目的はなんだ。魔女の復活させることがあんたの目的なのか」



刹那。

息が止まった。

精神的重圧や威圧の問題ではなく。

先まで俯いてた筈の、目の前の狂人の腕が怒りにぐつぐつと煮立ちながら僕の全身を、壁がひび割れるほど強烈に叩きつけていたからだ。


「…なァ。なにを言った。なんと言った?

私が魔女に従う?魔女の為に何かをするだと?

いや、言うんじゃない。

もし言われたらこのまま握り潰して殺しそうだ」


僕はここで、僕らの勘違いに気付く。瘴気を嬉々としてばら撒く姿に、紋章の獣を操る力。人を紙屑のように殺す姿から僕ら全員は、こいつが魔女の信奉者であるのだと思っていた。


「私が、あの糞忌々しい魔女の下僕だと?

冗談でもそんなことを言うな。

首を落として肥溜めに沈めるぞ」


痛痒は無い。代わりに、妙に頭が冴える。

今だに強く締め付け壊さんとする液体のような奴の手が、そうではないということを思い知らさせる。

むしろ、逆だ。こいつは魔女を憎んでいる。その存在どころかそれについて語った者すら、許し難くなる程激しく憎悪している。ならば、ローラウドが魔女の瘴気をばら撒いているのは何故だ。それを利用する事で何かの利益を生む為なのか。


…いいや。まだもう一つ。

僕は勘違いしているんじゃないか?


確かに僕らが行く先々にはこいつの姿があった。

だがそれは二つ目の村、カーディラルで出会ってからの話。初めてラウヘルでの魔女の瘴気と対面した時きはこいつと会わなかった。王都グラントーサでも暗殺には来たが、瘴気そのものは発生していなかった。


カーディラルの時も、イスティに化けて瘴気をばら撒くつもりと言っていたと聞いた。だが、それが『魔女の』瘴気であるという発言はない。

ローラウド=魔女の瘴気、という前提で僕たちは思考を進めていた。だがそうだ。冷静に考えれば、ローラウドと魔女瘴気は必ずしもイコールじゃない。


ただ単に、ラウヘルでは姿を変え隠していただけかもしれない。だけどこの考えがもたらす可能性は、つまり。

『魔女の瘴気を振り撒いているのは此奴ではない』?



「……僕は、あんたを誤解していたよ」


「おや…わかってくれたか?

すまないな、ようやく冷静になってきた」


「ああよくわかったよ。

あんたが、どうしようもない屑ってことが」


「ふん。よく言われることだが…お前に言われると、少し傷つくな。いや、手荒な真似をして悪かった。そう気を悪くしないでくれ」


そう、さっき急に煮立ったのと同様に、急激に冷静になる。腕は蛞蝓のようにじめりと蠢き元の形に戻り、元の体積に変わった。


そうだ。例え、そうだとしても目の前にいるローラウドが人を、全てを悪戯に殺していることに変わりはない。ただ人の命を弄ぶためだけに紋章の獣を扱っていたことも同じだ。紋章獣を人為的に生み出す為に、どれだけを殺してきたのかもわからない。

だから、都合の良い思考で目の前の彼女から罪を減らそうとするな。直視しろ、ヴァン。目の前にいるお前の姉は、大罪人なんだ。それから目を逸らすな。分かっているから、ロウ姉さんと呼ぶこともやめようとしているんだろう。


「ふふ、敵意満々と言ったところだな?

…なあ、ヴァン。お前はバカだ。

バカで向こう見ずで、それでいて無駄に行動力だけはあると来た。姉さんは昔からお前の一挙一動を見てないと落ちつかなかったっけな」


「…僕だって、あんたを見てると落ち着かなかったよ。

すぐに喧嘩は売るし、見下して足元を掬われる。約束は守らないし、プライドが高いのにずぼらだ」


「はあははは!辛辣だな!

そういうとこは私に似ちゃったかもな!

なんにせよ互いに、不満は沢山あるというわけだ!」


先の激昂をした顔の皺のそのままに。

彼女はその顔を笑顔に変えた。


「なあヴァン。だからこそ、私はお前が好きだよ。

だからお前の周りには私以外は必要ない。

私だけが横にいれば、それで十分だ」


じとり、と黒い血で濡れた手が両頬に浸される。ゆっくりと挟み込んだ彼女の手は、記憶にあるよりもずっと暖かくて、罪悪的だった。

その手を取ってしまえばこの胸のつかえは無くなるだろうか。なんて、嫌なことを少し思った。その選択肢からは、必死に目を逸らす。



「…あの三人の中に…

魔女がいる、というもの引き離すための嘘か?

三人をオレから遠ざける為だけの詭弁か」


「嘘は吐いた覚えは無い。が、そう思いたいならそうでもいい。もしくは私は狂っているから、発言は信用ならないかもしれないな」


「はぐらかすな」


「はあははは。なら聞いてみればいいじゃあないか。何を躊躇う必要がある?何故私の目的から質問した?どうしてその質問を後回しにしたんだ?まさか、聞くのが怖いのか?

それはまた、随分とかっこ悪いじゃないか」



そう、言われて。かちりと決心が付く。

今の発言には、とても苛ついた。

何が苛ついたというと、図星だったからだ。

僕は、正体を聞くことが怖かったんだ。

だけれど…


(…ここで折れれば!

死んだ人に報いることすら出来ないんですッ!)


…高潔な、彼女の姿を思い出す。

恐怖、痛み、絶望。

それに立ち上がった僕の聖女。

僕は彼女に相応しい存在であるべく、聞かなければならないのだ。



「……ならば教えてくれ、ローラウド」


「魔女は、あの中の誰だ?」





……




(あの、驚愕と絶望に歪んだ顔)


一人にしてくれないか、とふらつき出ていったヴァン。脱走は出来ない。彼女の手が、文字通り『手錠』になっている。

そうして一人になって。

ローラウドは思案する。

先程まで浮かべていた弟の表情について。


(流石に予想外だったようだ。それとも私を疑っているかな。何やらうまいこと行って、私と同行することにならないものか…)


また、ふとヴァンの発言を思い出す。

魔女を知っているというのは、オレを三人から引き離すための嘘なのか、というそれ。もちろんそうではない。そうではないが…

良い案だ、と着想を得た。



「ふん、だが…確かに…

もうあの三人は消しても構わないか」


べろり、と。

ローラウドが舌を露出する。

そこには一つの紋章が輝いていた。

一つの獲物を、紋章の魔物と操る邪紋。


これで、休眠中の『魔女』共々全員死ぬのならばそれでいい。そうでなくても、どうせ奴らはここに来るのだ。

その時に、また皆殺しにしてやろう。

そう思いながら。

ローラウドはおおよそ4380時間ぶりの睡眠を取った。







……





「こいつは…つ、舌が痺れてきた。

うん、毒があるからダメだな」


「……やれやれ。君たちは…つくづく健啖家だな。私はどうにも魔物を食べる気にはなれないよ」


「えー、そうですか?美味しいですよ?」


「そうかもしれないが…

今の私には携帯食料で十分だ」


「ハイレインもアルターで変化した草花を擦り潰して薬にしてるじゃないか。それと何が違うんだい」


「…ム。それを言われると耳が痛いな。

ただやはり嫌なものは嫌としか言えん」



なんだか最早いつもの事になりつつあるような、狩りをしていた。急いで出てきたから食料も少ないし、何より沢山馬を走らせた分ボクらは食べる食べる。おっと。ボクら、と一纏めにしたらハイレインは心外かもしれない。


だいぶ、魔女狩り教団に近付いてきた。近づくにつれ生き物の気配すら消えてきた荒れ果てた地になっていく。草木もまばらになり、普通の獣の気配も無い。代わりにあるのはゆっくりと漂う瘴気と魔物の気配。

イスティには一層頑張って貰わなければならない。蔓延している瘴気を祓いながら、乗り慣れてない馬も走らせなければいけないこの状態。相当に疲労が溜まるはずだ。だのに気丈に振る舞っている。


「うへえ、見てくれアーストロフ少年。5つめの目がこんな所に付いてるぞこの鳥。絶対ゲテモノだ、やめておきたまえよ」


「いやいや、魚だって眼球が美味しいじゃん?生き物ってのはゲテモノ程旨いんだ、相場は決まってる」


「私は、奪ってしまった命ですし毒でなければなんでも食べて無駄にはしたくないと思うのですが…」


「んーん、ウソだねイスティ。君さっきあれ美味しそうって言ってたの、ボクちゃんと聞いていたから」


「うっ…聴かれちゃいましたか…」


「正気かグライト嬢!?」



そう、三人で姦しく話をする。

意外とこの三人での旅は居心地がいいかもしれない。結果的に、ボクらの心の距離は狭まっていると云っても良いかもしれない。

だけど、それでも。

やっぱり横には彼が居てくれないと何処か足りない。

それはきっとイスティも、同じ考えだろう。

ハイレインはどうかはわからない。

だけれどここにいる皆は、少なくとも。

隙があれば馬を走らせようとする。

ヴァンがいる先へ走り抜けようと。


「さて、ここで取れるものはこれくらいでしょうか?少し休憩をしたらまた先に進…」


「待て」



静止の声は、ボクが出した。

嫌なものが近づいてくる予感。

一度、つい最近に感じたような予感でいて、それとはまた違う何か。曖昧だけれど、その精査性はどうせ後で他が高めてくれる。


「…相変わらず超人的な勘の良さだ、アーストロフ嬢。引け、引け引け。荷の方へ…いや、寧ろそれとは逆方向に走れ。

明らかにこっちを追ってきているし逃げきれん」


「!…私にも見えてきました、あれは…!」



一番前に、ハイレイン。

一番後ろにイスティ。

そしてその真ん中にボク、ダルク。そんな陣。

本当はここの一番前に命知らずでカッコつけしいの男が居るはずなんだけれど、今はいない。

そしてその状況で、この襲ってくる相手は非常にまずい。


『キィララララララ!!』


そいつの鳴き声は非常に人に近しい。それは、そうだろう。首から先は人間と全く同じ器官がついている魔物だ。故に狡猾で、紋章付きの中でも騙す知能があるタイプの魔物。

だからと言って身体能力が低いわけではない。大鷲を更に巨大にしたような鉤爪と、腕と一体化した翼。ごわごわとした羽毛はまた、その人肉を食べて肥えた強大な身体全てに生え揃っている。大きさは縦に4mほど。バジリスクに比べれば滅茶苦茶小さい。

だけれどその分に凝縮された力が、ある。

紋章の獣・ハルピュイア。

そいつの名前は、それだ。


「……どうする、二人とも。ハッキリ言ってヴァンがいないと全滅、よくて相打ちだぞ」


「わかっています!…免罪の蝶を作り出し、大量に散布して目眩しをします。その間に三人別方向へと走れば、なんとか…」



くすくすとこちらを値踏みしてくる獣。それをやってみたら、とでも言いたげな態度だ。確かに逃げれば、各個狩猟されるのみだろう。だが、それ以外の手段が見つかるわけもない。

…ならば、ここまでか。

そう思って、ボクは『力』を使おうとして……


……ハイレインの腕に、抑制された。



「二人とも、少しだけ下がっていてくれないか。

一つだけ試したい、調合がある」


「なっ…!?無茶です、ドクター!

戦うならば私たちも」


「下がっていろ」


有無を言わさない言動。

それの言葉に含まれるのは自棄でも自己犠牲でもなかった。むしろ、それは高揚。あくまで実験を試したい、興奮があった。

いつでも入れる準備をしよう。イスティとボクはアイコンタクトをしてから、言われた通りに少しだけ後ろに下がった。


ハルピュイアは動かない。

知能が付いて、弄ぶ悪辣さが付いたのだ。餌どもが、どう抵抗するかを見て、その上で翻弄して絶望した姿を喰らおうとする、悪辣。だけれど野生の世界では、それは油断というのだ。


油断故に、その獣は唯一の負け筋を拾った。



「ようやく…ようやく、完成した調合だ。

私がこちらの世界に来てから30年。アルターの草花毒物、魔物の肝の全てを探し続けて…クク、皮肉なものだ。つい昨日、魔女の瘴気にあたり続けて変異したものから発見したのだよ…」


ドクター・ハイレインは銃におぞましい色をしたシリンダーを装填した。それから、瘴気が溢れていたのは気のせいではなかった。

そうして、それを。かちりと押し当てて。


がぁん。

自らの首を撃ち抜いた。



「!?」


「ドクター!?」


「ごはっ!…あ、が、ああああ…!」



瞬間に、ハルピュイアが翔ける。ここで初めて、奴は目の前の『餌』が、餌以外の『何か』に変貌をしようとしていることに気付いたのだ。だけれど判断はあまりにも遅すぎた。それは人の知能を持っていても、人の悪意をまだ持つに至らなかった経験の浅さのせいだったのだろう。


「ククー、ククククク…

いやはや、いぃがいと、自我を保てるものだ!そうでなくては困るが、試作だんかいだと、きみらとこいつの区別が、つがなくなる可能性があったからねぇ!ハハ、フフハハ…」


ぎち、ぎち、と。

ハイレインの服が悲鳴を上げ展延していく。

内側の膨張による革服の悲鳴。

仮面の下からぼだぼだと血が垂れている。

自然現象では、肉体がそうまで急激に変化することはあり得ない。それこそ、ローラウドのような化け物では無い限りは。

故にそれは、彼女が自らに打ち込んだ薬は…



ハルピュイアの、蹴り。

それは、この世の全てを殺せると言われている。

魔物としての膂力、金剛石も貫く鉤爪。

そして飛翔とそれに使う筋肉の全身駆動による鞭じみた蹴りの威力は音の速さすら超えて、不死身の者すら壊すだろうと。


そんなものを。そんな、蹴りを放った脚を。

ハイレインは、素手で捕らえていた。

全員が唖然とした状態から、もっとも早く復帰したのはイスティだった。彼女は早口で詠唱を唱え終えると、身体から光の蝶をぶわりと生み出した。


「飛び回りなさい、免罪の蝶!

そして…彼女を導いてっ!」



空中に留まった光の蝶。

それを見て、ハイレインはすぐに合点がいったようだった。手にしたハルピュイアの脚を握り潰した直後に、跳んだ。

その、跳躍も。人の域の力ではない。


『ヒッ…!?』


獣は、空へと退避した。

だがそれを追ってきた目の前の『何か』。

怯えて飛んで、逃げようとする。

だがまたそれにすら追いつく、怪物。

空中による機動は出来ない筈であるのに。

ハイレインは蝶を飛び石にとして、中空を駆け、跳び、跳ねている。空を掴み縦横無尽を支配する姿は、人とは。

否、生き物の様式とは程遠く見えた。



「免罪の蝶が奴の弱点に着いています!

光を放っている、場所を狙って下さい!」


ごば、という音。

ハイレインの振るった拳が、蝶の止まっていたハルピュイアの羽を、脚を、胸を砕き。そしてまた、その拳もぐちゃぐちゃに崩れた音だ。

……もう、ここまできたらやる必要もないかもしれないが。ボクは堕ちてきたハルピュイアに向けて、さっきからずっと溜めていた一撃を放つ。トドメだけ、持っていってしまおう。



「…『喰らえ』」



ばくり。

飛ぶことも最早出来ずに、その首を喰らう。

鋼鉄をも通さない羽毛ごと噛みちぎって。



…闘いは、終わった。

一方的な虐殺になるだなんて、誰もが思いはしなかったこと。だけれど実際になった。だから今ボクたちは無事でいるのだから。


いや、無事でいる、というのもウソだ。

それはつまり、一人だけ無事でないものがいる。



「げほっ…げは、ごえ、がはッ!」


「ダルク…ダルク!ドクターが、ドクターが!」



仮面から、夥しい量の血が流れ出させるハイレイン。ぼとぼどと顎の部分から大量の血が零れ落ちて尚、彼女の眼の部分まで血が迫り上がっている。人間から流れてはならない量の失血を、イスティは必死に癒し、戻そうとしている。



「死ぬ…死んでしまいます!必死に治してるのに、命がどんどん目減りしていくんですッ!」


「グ、クー…それは、そうだろう。今実験した調合は、著しく命というそのものを削る。まァそうだな。ざっくり概算して健康寿命を30年ほど削ったのではないか?脳細胞も相当死んだな。いつもより゛、げぼっ、三秒ほど言葉の対応が遅い…」



…先までは痛いほど内側から張らされていた筈のハイレインの服を見てみる。だぼだぼの、しわしわとなっている。術前は、その服は彼女にピッタリのサイズだったはずなのに。

今、服で隠れた内側はどうなっているのだろう。



「そんな程度のものが、どうだ?

クク、くくはははは…命を賭けても助からないような強敵を、たったそれ程度で打倒できる素晴らしい新薬が完成したんだ!ははは、これ以上のものもない!素晴らしい力だ!紋章獣を単騎で殺しきる程の圧倒的な力ッ!これならば、この力ならば!」


「………魔女にも、届き得る。

ようやく、殺すことができる…!

その為なら何もいらない、何も…ッ!」



…ボクらは、ハイレインを誤解していたと、そこで気付く。彼女は悪人ではないのかもしれない。ただ、それでも。

執念の元に何かを傷つけてまで追い続ける。

傷つける相手が、自らであるか、周囲であるか。

ただ、それだけの差分。ただそれがたまたまボクたちには無害であっただけで。彼女はローラウドと、根本が同じなのだ。



「さあ、着実に距離は迫っている。

あの毒婦の反応はもう少しだ。

明日に備えようじゃないか、諸君」


「!動かないでください!

今動いたら、本当に死んで…!」


「大丈夫だよ、グライト嬢。

私の身体は、君たちの予想よりずっと外道だ。

それに私は魔女を殺すまで絶対に死なない」


「それに…

丁度よかった。新鮮な食材が大量に手に入った」


人の形を模したハルピュイアの首をもぎ取って、そう言った。さっきまで、魔物は食べる気にならないと言っていた者が。今や、人の姿そっくりの物を喰らわんとしている。

その変貌はきっと、不可逆なのだろう。

ボクはただそれに目を逸らして。


「……ふん。

それじゃあ、祝勝会でもしようかい?

それとも、明日の勝利をかつごうか」


下手くそな軽口しか叩くことができなかった。






……





彼女たちは進む。進む。

ローラウドの居る場所へ。

ダークナイトの居る、場所へ。

これ以上なく、更により一層早く。


魔女狩り教団へ、歩を進めていく。

その先にある物が、彼女たちの関係の破滅であるとわかっていながら。

距離は狭まっていく。

ゆっくり、ゆっくり。狭まっていく。


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