医者は再び不穏を纏いて
夜中の往来。村中で私を呼び止めたのは、一度聞いた覚えのある低い声でした。
それでも初め、何の声だったかと分からなかったのは、その時の覚えとなる声が弱々しく、異常なコンディションだったから。
そして今は、それを微塵も伺わせない健常な声。
「よう、聖女さん!」
「あ!ええ、と…」
その声は、あの時に門番をしていた傭兵の方でした。初めに警告をして、私が遠くに隔離して治療をした方。
「そういや自己紹介もしてなかったな。まあどうでもいいさ。大事なのは、アンタが俺を、俺たちを助けてくれたことだ」
「……ありがとうな、聖女さん。おかげで生きてるって事は良い、なんて、当然のことを思い出せた」
聖女さん、と言われることがむず痒く、それでいてどこかお腹の底が温かくなるような感覚があって。私はまだ、そう呼ばれるべきでない未熟者だという返答が咄嗟に出なくなる。
「あ…えへへ、いやそんな、私は…」
「っと、あの胡散臭いドクターにも礼を言わなきゃあな。あんな見た目してるが、あん人も一流だ」
くく、と笑う傭兵さんに釣られて、私も笑ってしまう。そうしてから、まるで私もハイレインさんを胡散臭いといってしまったみたいで、申し訳ない気持ちになる。そうしてから傭兵さんは今日もお疲れ様と去っていきました。
「や、イスティ」
その次に、私を呼び止めたのは今度は聞き覚えのある声。私たちの旅の仲間で、そして友だち。おしゃべり好きで陽気な声。
「あ、ダルク!こんばんは!」
「夜遅くまでお疲れ様。
そろそろおやすみしたらどうだい?」
「そうですね!
そうしようと思うので、先に休んでてください!
「……」
そう、ちゃんと答えたのですが。
次の瞬間にはダルクにがしり、と無理やり肩を掴まれ、そのまま私たちに貸し与えられた空き家に連れ込まれてしまいました。
「ほぉんと嘘が下手だねぇ。
ボクの爪の垢を煎じておこうか?」
「う…でも、まだ寝れていない人も…」
「それで!キミまで!眠らないで倒れたら!
一体全体どうするつもりなんだ!ええ?」
一節一節ごとにびし、びしと額を指で突かれながら言われてしまうその内容に、返す言葉もなければ出来ることもない。
ただ同じ所を突くせいでおでこが痛いです。
「はい…すみませんでした…」
「ま、謝ることでもないさ。度が過ぎたら逆効果ってだけで、過重労働が必要なのは確かだからな」
「それもですが。
…後ろ暗いことを全て任せてしまって。
ヴァンと、あなたに」
「ン?んーー…
まあ気にしなくていいよ、本当に。むしろ今回苦労してるのはキミら医療チームの方だから。申し訳なさを感じるとしたらむしろボクらの方」
「そういうことでは…」
「いいや、そういうことだよ。
結局のところ適性の話なんだから。
ボクらには出来ないからキミたちはこっち。
キミたちには出来ないから、ボクらはこっち。
ただそれだけの話であって、謝罪の必要はない」
「…なら、謝罪ではなく感謝を。
ありがとうございます」
「どういたしまして。
そして、こちらからもありがとう。イスティと出会えてよかったと、心から思う」
にこり、と微笑むダルクの顔と、繋がれる手。それはどうにもいつも見るそれよりも柔らかく、そして不自然に見えた。私はそれを、むしろ嬉しく喜ばしいものに思えました。
「…と、雰囲気がよくなったところで本題。
キミ、ひょっとして長い事食べてないだろ?だから差し入れの為にかるーく狩りに行ってきてね。良かったら一緒に食べようよ」
「!本当ですか!?
…ははーん、さてはダルクもお腹が空いてただけですね?」
「あはっ。ばれたか」
くすくす、と笑いながら二人で焚き火の用意を進める。実際、ダルクが言った通り、今日一日ほとんど何も口にしていなく、ぺこぺこでした。
そうして差し出されたのは巨大な、紫色の肉。異常な魔女の瘴気に当てられた動物は皆きっと、アルターの中に長年居たような魔物に変貌を遂げてしまっていたのでしょう。
「これ…食べれるんですか?」
「さっき毒味しておいしかったし、へーきへーき」
「なら大丈夫ですね、きっと!」
…疲れも相まっての判断能力の低下。まあそれでも、ちゃんと火を通したからか何も身体に異常は無かったので大丈夫だったんだと思います。結果論ではありますが。
「…食事中にするような、話ではないかもだけど」
「むぐ…ふみまへん、ひょっと口の中が…」
「ああ、ごめんごめんゆっくり聞いててくれ。
急いで飲み込まなくてもいいさ」
ごくり、と頬張ったものを嚥下する。
気付けば巨大な肉塊は残り少しになっていて。
相変わらずダルクはよく食べるなと思いました。
「……キミには言われたかないけどね。
と、違う違う。話のほうをしなきゃだ」
「率直に。
イスティ、キミはドクター・ハイレインをどう思う?」
ぴくり、と食事を続ける手が止まりました。それはその質問の意味が、ただ彼女をどう思っているかというだけではないとわかるからこそ。一瞬の沈黙に、焚き火の音がぱちぱちと耳に残る。
「…私は…
…私はドクターを信頼していますよ。
心の底から、彼女は優しいのだと思います」
その上で、そう答えた。
きっとその答えにダルクは反論をするのだろうということを覚悟しながらも、しかし私の思いは変わらないから。
「そう、それだ。
ドクター・ハイレインは優しく、親切に接する。
人々を親身に治療する頼れるドクターだろう」
「だが、しかし。
キミの前で殊更に優しく振る舞い、戦う。
看病してキミからの信用を得る。
そしてそのための、舞台を作る。
つまりは、この村の惨状をだ」
「もしそこまでが、彼女の思い通りとしたら。
彼女の狙いがキミだとしたら…どうする?」
「……何かの、確証が?」
「無い。
だから今言った事はただのボクの妄想で、たらればの話だよ。もし、そうだったら…っていうだけの、ね」
ぱちぱち、と焚き火が燃えていく音。
薪も少なく、勢いは衰えている。
濃く顔に差した影が、ダルクの表情を読み取らせない。
「……理由は、言えないんだけど…
ボクは、あのドクターを信用していない。
どうあろうと、なにがあろうと、だ」
「…私は、ドクターもダルクも、ヴァンも。
皆を信頼しています。
何があろうとそこに揺らぎはありません」
「まだ、会ってからそうも経ってないのに?
どうしてそう信じられるものかね、ボクらみたいなものを」
「私がそうされたら嬉しいと思うからです」
「そうか。それは、素晴らしいね。
いや、本当に素晴らしい…」
ぱち、ぱち…
薪が焼ける音も小さくなっていく。だが不思議と、ダルクの顔はさっきよりも克明に見えるようになっている気がした。
「…んじゃ、重苦しい話はおーわり。
今度はイスティがぶっちゃけてよ!」
「へ?」
「ねえねえ、ぶっちゃけた話さ。
イスティはヴァンをどう思ってるの?」
聞いてないまま暴露されただけなのに、今度は私の番だという友人のマイペースさに、ある種置いてかれそうになりながら、混乱する頭をなんとか動かす。ヴァンを、どう思っているか。
一瞬、顔を赤らめてから。少し冷静になって話す。
「そ、そうですね。私の友だちになってくれて、騎士になってくれると言った時は、小躍りするほど嬉しかったです」
「でも、彼は…
…彼は危なっかしい気がします。なんというかその、『格好つけたい』と言うわりには、自らを蔑ろにしているというか。格好つける、という自らの利になる事を意識していながら、それでいて命を失うことを厭わない。そんな矛盾を感じてならないんです」
「あ、そういう話じゃなくて。
シリアスな話はさっきで終わり。
だからもっとこう、ぶっちゃけトークだよ」
え。と、素っ頓狂な声が出る。
折角真面目にヴァンのことを話したのに。
かなり真剣に彼のことを思ってたのに。
「ねえ、ぶっちゃけた所。
イスティはヴァンの事好きかい?」
「……はい?」
再三の思考停止。
何を言ってるかはわかった上で、その質問に対する答えが頭が考えつかないで、ぐるぐると言葉がまとまらないでいく。
代わりに頭にたまるのは、真っ赤な熱ばかり。
「ねえねえ、どうかな。彼のこと愛してる?
彼を見てると胸がきゅんとしたりしない?さっきの発言を聞く限り、よーーくヴァンを観察してるのは確かみたいだけど!」
「…は!?なっ、い、いや!そんな…きゅん、とか愛してるなんて!いや、無い事はないですが…って今のは違くて!」
「たっはっは、顔まーっか!
どうかな?その動揺は急な質問に驚いてるだけかな?それとも…ズバリ、本心を突かれちゃったからの動揺かな?」
「!……も〜〜〜〜!寝ます!」
「あらら、照れなくていいのに。
実際のとこどうなの?ほらほら」
「知りません!もう!ダルク嫌いです!」
…
……
夜が更けた村の中。
すっかりと周囲は静かだ。耳を澄ますと、少しだけイスティとダルクの甲高い声が聞こえてくる。
その中に、一つだけ足跡が混じる。
不規則で不穏な足の音。
薬品の刺激臭が混じった足跡だ。
「あんたか、ハイレイン」
「やあ、ヴァニタス少年。
君の気配の探知精度は猟犬並みだね」
そうしてから、ハイレインは許可も出していないのに扉を開けて入ってきた。剣を研ぎ、投げ剣を削る僕の姿をマスク越しに眺めて、おおと大仰に首を振った。
「暇だからと言って、随分と暗い趣味に勤しんでいるな少年。そんな事じゃ、余計に婦女子たちに怖がられるぞ?」
「趣味じゃない!必要じゃなきゃこんな面倒くさい事誰がやるか」
がしゃり、と乱雑に作り上げたモノを端っこに寄せる。どうせ眠れないからと手慰めで作っていたものだ。出来は悪いし雑に扱っても構わない。
「…はあ、こんな夜に何の用だ?
必要な話か。それなら他の二人も呼んで…」
「いいや。目的は情報共有ではない」
ずるり、とハイレインが懐に手を突っ込む。
銃、か?
ぴりと脳裏が張り詰めて腰に付けていた剣に手を添えて、もう片方の腕で心臓を抑えて防御をする。
「ふふん、目的は祝勝会だ。
アーストロフ少年とグライト嬢はいたが、君だけ村民を気遣って居ないのは味気なかったからな。土産も持ってきたぞ」
…そんな僕の警戒を嘲るように、ハイレインが懐から取り出したのは大ぶりの袋。中から酒の匂いがぷんぷんとする、袋だった。半ばげんなりと、恥ずかしくなりながら、臨戦体制を解いた。
あんな大きな袋どこに収まってたんだ、細い懐のどこに。
「そら、酒と煙草だ。
宴といえばこれに尽きるだろう」
「…オレ、酒呑める年齢じゃないよ」
「おや、そうかい?
まあ私の地元では15から皆呑んでいたし平気だろう。何よりこんな場所では治外法権だよキミ」
「あんたドクターだろうが。子どもに酒と煙草勧めるか?普通」
「なあに、酒は百薬の長という言葉も何処かにある。身体にいいとも。私が言うんだ間違いないぞ!」
「酔っ払いは自分の言ったことを全部正しいと思いやがるんだ…!」
陽気な様子の、ハイレイン。
そうだ、道理でいつもと匂いが違うと思ったんだ。今のこの胡散臭い医者からは、いつもと違う酒の匂いがする。袋からではなく、身体からだ。
「いや、常々。こうして話してみたいと思っていてね。
少年!君は実に興味深い。
どうなっているんだ君の身体?」
「うわ…さ、触るな急に!
ていうかアンタに触られたくない!」
「おや、嫌われたものだ。
酷い事なんてまだ一度もしてないだろう?」
「あんたオレに解剖させろとかどうとか言ってただろ、前!」
あはは、と曖昧な笑みだけ返して僕の服の下に手を潜り込ませてくるハイレイン。マスクを外していればその距離に少しどぎまぎしたりもしたろうが、どうやってか器用にマスクをつけたままパイプを燻らせて酒を飲んでいる為、不気味でしかない。
そうして、そのまま。近しい距離のまま言う。
耳元に、口を寄せてから静かな声で。
「…少年、君にだけ話しておきたい。
この中で信用できる者は君だけだから」
動きが止まった。
聞き直しもしない。ただ、彼女のその発言は、さっきまでのような酔いや酩酊を感じさせるものでは全く無かった。
「…状況判断が早くて助かるよ。
ではまず率直に言おう」
「この村。グライト嬢が救ったこの村は…
近日中に台無しになる。その確率が高い」
「……!」
身じろぎを、ドクターが抑えて止める。そのせいで僕はただ、動揺を抑える為に、前を向いて寂れた蝶番を眺めることしかできない。
「…これは予想だが。
暴食の魔女は、幼稚で負けず嫌いだ。故にこうして瘴気に陥ってから、奇跡の復活を遂げた村の存在を許さないだろうね。
ただ、だからそいつをそのまま殺す、というよりは…」
「…この奇跡そのものを無くす可能性が高い。
即ち、村ごと滅ぼされる、ということだ」
「ラウヘルの、ようにか…」
「そういうことだな」
そこまで言うと、ハイレインは僕からそっと離れて正面に向き直る。そうしてからまたパイプを燻らせ、杯を傾けた。
相当量を呑んだ筈の彼女に、しかし今はもう酔いの様子は無い。
「…もしかして。あんたは、ラウヘルが滅びるのも予測してたんじゃないのか」
「ああ」
「…!何故、教えなかった…!」
「警告したところで信頼をしたかい?疑って私に誤った殺意を向けようとするのが関の山だったろう」
…否定は、しない。できない。
あの場で疑わしい存在はこのドクターだったし、実際に僕はあの時、アルターで出会ったこいつに殺意を向けていたのだから。
「私とて、一応ドクターだ。
人が助かるに越したことはない。
だからここで警告をするのだ、ヴァニタス少年」
「用心棒として、目を光らせておけ。
ここからこそが分水嶺だ」
「……ふう、呑みすぎたようだな!
そろそろ宴もたけなわだ。解散するとしよう」
まるで、何かにアピールするように急激に酔ったふりと、そうした能天気な口上を垂れるハイレイン。
その姿をただ、じっとりと眺める。
そうした所で何が分かる訳では無いのだが。
「一つ質問していいか」
「…おや、なんだい?」
「さっきアンタは、信頼できるのはオレだけと言った。
…あの二人が、信用できないか」
「できない」
あの二人とは、当然、この場に居ないあの二人。
イスティと、ダルクのその二人のこと。
「理由は」
「言わない。
言えない、ではなく言わない。
言わない理由は、つまり…」
「それもまた、警告をしたところで信頼されないからか」
「その通り。理解が早くて助かるよ」
「その態度が信頼に値するものだと思うのか?
ふざけやがって…」
首を摩り、そうしながら背中を向けるドクター。
その背姿からは何も感情を読み取ることが出来ない。
だから、せめて僕は今の自分を、伝える。
「…あんたが言うからどうとかいう、話ではない。
オレは仲間を信じている。友だちを信じてる。
それだけは、どうあろうと変わらない」
「ククー。
その仲間の中に、私は入らないのだな。
悲しい、悲しいことだ」
「……
…最後にもう一つだけ」
「どうぞ」
「なぜ、オレを信頼した?あの二人が信頼できず、オレになら話せる理由はなんだ?」
「……キミは、信用できる」
「だから、何故だ!」
「似ているからだよ。
根本的に私と少年は似ている」
そう言って、彼女は、マスクを取った。
その端正な顔にはどのような表情も浮かんでいなかった。ただ暗い暗い家屋の中。その暗闇と同じ無だけが顔に浮かんでいる。
「君は、信用できる。
否…理解できる。正常の枠から、離れてるから」
今度こそ、質問は終わりと言わんばかりに荷物を纏めて扉を開ける。マスクを被り直した今の彼女は、むしろさっきよりも人間らしく見えた。そして、そう思う自分に、どこか寒気だった。
「ドクター・ハイレイン」
「黙れ。背中から話しかけるな。
…同衾を所望なら、また今度にしてくれ」
ばだん。
来た時と同じ筈の扉の音は、厳しく、より断絶的に聞こえた。
…
……
……そうして夜は、更けていく。
存在しない足跡と、薬品臭がいつまでも脳液を刺激するように、不穏な気配をじとりとじめつかせているようだった。
不穏が、息を潜める。
つまり、何からくる気配なのか。
それは、何かが起こってからしかわからないままに。
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