第4話「語らい」
満足した心で、和樹は今日買ってきたばかりの本を閉じた。面白かった。時計を見ると、もうじき日付が変わろうとしていた。
母からは早く寝るよう言われているが、せっかくの春休みなのだ。夜更かしをする以外の選択肢は存在しない。
和樹は勉強机の一番下の引き出しを開けて、奥から紺色のノートを取り出した。鍵がついており、4桁のダイヤルを回して開く仕組みになっている。
和樹はこのノートを、読書ノートとして使っていた。今まで読んできた本の、読了時間や感想などを記録している。あくまでも自己満足なので、人に見せたことはないしこれから見せる気もない。ノートの存在自体も隠している。
それは、このノートが父親が家から出て行くときに貰ったものだからだ。そんなものを使っていると知られれば、母の胸中は心底複雑になるだろう。だから隠していた。
母が毎日仕事と家事を頑張っているのを見ている身としては、余計な心労をかけたくなかった。口うるさいと思う部分もあるが、それでも和樹にとっては一番大切な家族なことに変わりないからだ。
読書ノートもつけ終え、もとの場所にしまってから、和樹は改めて机の上を見つめた。
「……どうしよう」
机の上にあるのは、春休みの宿題だった。一問も解かれていない数学のプリントと、シャーペンと消しゴムが転がった状態のまま放置されている。
部屋に戻ってきてから、和樹は今まで放置していた数学の宿題をしようと準備をしたのだ。準備をしたところまではよかった。しかし、ただでさえ一番苦手な科目なので気力を保ち続けるのは至難の業だし、難しくてどんなに考えても答えがわからず、すぐに集中力が途切れてしまった。
少し息抜きしたほうがいいだろう、と今日買ってきた本を5分だけのつもりで読み始めたところ、面白くてやめられなくなり、気がついたら最後まで読み切っていた。宿題は手つかずのままだ。
仕方なくプリントと向き合うとするが、わからないと投げ出した部分はどんなににらめっこしてもわからないままだ。にわかに頭痛がしてきて、和樹は唸った。正直逃げ出したいが、ここで逃げても春休みが終わるまでには追いつかれる。しかしこの強敵をどうやっつければいいのか……。
ここで和樹の脳に、秀哉の姿が浮かんだ。秀哉は数学が一番大好きだと言っていた。もしかしたら、教えてくれるのではないか。一筋の希望を胸に、和樹は自室を出た。
母は寝たようだ。ソファを使うことになっている秀哉も眠っているのではないかと思ったが、リビングには明かりがついていた。一応、和樹はそっとドアを開けて、隙間から中を窺った。
秀哉はテレビ台の前に座っていた。テレビ台には写真がいくつか置かれている。誕生日のときに撮ったものや、入学式に撮ったものなど、写真ごとにフレームの色が異なる。秀哉はそのうちの一つを手に取って眺めていた。フレームの色で、中学校の入学式のときに撮ったものだと判断する。小学校のときと違い、中学の入学式は不安のほうが強く、撮影時も緊張が解けなくて硬い顔になってしまった。
そんな写真を秀哉は眺めていた。俯いているので、表情はわからない。少しして、写真をテレビ台に戻した。優しい手つきだった。
「それ、わざわざ見るほどの写真か?」
和樹は音を立ててドアを開けた。秀哉は肩を跳ねながら振り向いた。気まずそうにした後、苦笑しながら写真を指さした。
「顔、強張りすぎだろと思ってな」
「緊張してたんだよ」
「高校の入学式じゃあむしろはっちゃけてたのにな。高校デビューだって言って、メッシュを入れて入学式に臨んだんだぞ?」
「メッシュ!」
我が事ながら、随分と思い切ったことをすると感心した。もしかするとそのイメチェンがきっかけで美容師に興味が湧いたのかもしれない。
「ハマったのか、違う色のメッシュをどんどん試すようになっていったんだ。俺はメッシュには興味なかったけど、七変化和樹は見ていて飽きなかった」
「秀哉は何か高校デビューしたのか?」
「寝癖を直すようになった!」
ドヤ顔で言われたが、そうですかとしか返せなかった。
「で、こんな夜遅くにどうした?」
「あ、そうそう。頼みがあるんだ。春休みの宿題の数学がどうしてもわからないんだけど、教えてくれないか?」
「そんなことか。いいぞいいぞ」
宿題と筆記用具を持ってリビングに戻り、ダイニングテーブルを挟む形で二人で座る。プリントを見た秀哉は首を傾げた。
「これが……わからないのか? こ、このレベルで?」
教師に指名したのは間違いだっただろうかと和樹は後悔した。しかし直後、「仕方ないなあ」と秀哉が息を吐いてから、状況は一変した。
意外なことに、秀哉は教えるのがとても上手かった。一つ一つ丁寧に、複雑な部分を噛み砕いて教えてくれる。詰まってしまった部分に対しても、急かさず辛抱強く指導してくれた。今までで一番と言ってもいいほど、全体的な問題を解く時間が短くすんだ。
宿題を全てすませた後、和樹は心から、「あんた、凄い人だな……!」と称賛した。今日までほったらかしにしていた数学の宿題が全部終わったことが信じられなかった。自分があまり苦しまずに問題と向き合えたことも信じられなかった。
「わからないところがあっても、すぐにああそういうことかって理解することができた。こんなの初めてだ。凄いな、あんたって本当に本物の天才だったんだな」
「ふふん。今の和樹のレベルに合わせてだいぶ気遣って教えてやったんだぞ。感謝したまえ」
「今ので尊敬度が下がった」
「なんだと、俺がいないとピンチになっていたくせに!」
「それは確かに。いやでも態度が駄目」
「はあ?!」
口こそ言い合っているが、お互い笑顔だった。つい大きな声を出してしまいそうになるところを、母を起こしてしまうため、なんとか堪える。
「にしても、教えるの上手いなんてちょっと意外だったな。なんかあんた、凄い独りよがりな教え方しそうだったから」
「生意気な……。それ、あのときの和樹にも言われたな?」
「あのとき?」
「中二の中間テストの後、俺が教室に残って一人で数学書読みふけっていたら、お前が話しかけてきたんだ。数学が好きなら教えてくれないか、って。中間テストの数学がひどい結果だったとかでな。あのときの和樹、真っ青な顔で面白かったぞ?」
「へえ、今と同じような状況じゃないか」
「いやだいぶ違うぞ? 教えたら教えたで、和樹は文句ばっかり言ってきた。独りよがりでついていけないって。俺も俺で頭の出来が良くないのが悪いとか言い返してな。大喧嘩に発展だ。危うくお互いの手が出るところだった」
「うわあ……」
和樹は体を引かせた。
「そこまで言うならお前は俺が一番苦手な国語をさぞわかりやすく教えるんだろうなって言ったら、いいぞ絶対参りましたって言わせてやるからなって、その場で和樹から国語を教わることになって。で、教わってみたら、驚いた。わかりやすいんだ、これが。一つ一つ丁寧に教えてくれる。わからないと言った部分は、わかるまで辛抱強く付き合ってくれる。わけのわからない存在だった国語が、あのときやっと理解できたよ。少しだけな」
「立場は逆だけど、やっぱり今と同じような状況だったんだな。数学のほうはどうなったんだ?」
「教えたよ。参りましたってなったからな。自分なりに教え方とかも調べて、日を改めて」
「おお、偉いじゃないか。見直した」
「和樹の反応はそこそこだったよ。色々頑張ったんだから今みたいに褒めちぎってくれれば良かったのにな」
「だったら今褒めてやる。すごいすごーい」
「雑!」
和樹はひとしきり笑ってから、「嘘嘘、本当に凄いって。まだ経験してないことだけど、ありがとな」と頭を下げた。
「そういえば、なんで国語が苦手なんだ? 俺からすれば、特に現国なんて一番取っ付きやすい科目に思うけど」
「はーっ、できるやつの言葉って上からだな!」
「さっき同じようなこと言ってた人がいたけど誰だったかなあ」
「国語って、抽象的じゃないか。問題がふわふわしていて、むずむずする。このときの気持ちを考えなさいとか、作者の感情とか……。はっきりした答えがないものばかりだ。地図もなしに知らない町に放り投げられたみたいで、どうすればいいのか呆然としてしまう。反対に数学は、答えが複数ある問題も存在するが、それを込みでも確定した未来に行ける。だから好きなんだ」
「ほおー、知らない価値観だな……」
「それに、俺からしたら、あまり馴染みもない。小説はほとんど読まないからな。なんか、苦手で」
「え、なんで?」
本好きの和樹からすれば、聞き逃せない話だった。つい前のめりになる。
「和樹からすれば信じられないか。読書ノートつけてるくらいだしな。この習慣、15年後も続いているんだぞ?」
「そんなに? 凄いな俺……」
「俺からすれば、そこまで本に夢中になれるほうがよくわからないんだ。小説に限った話ではないが……。物語って、すぐ“運命”や“奇跡”って概念が出てくるだろ? あれが、胡散臭く感じて仕方ない。結局全て確率の話でしかないのに、そういう綺麗な言葉で表現されているのが」
「嫌いなのか?」
「嫌いっていうか、信じられない。ざっくりしすぎてて、明確でない。なのに、それが絶対的な答えであるように支持されている。それが全体的に、不信感を呼ぶ」
吐き捨てるような口調だった。顔つきも若干険しい。はっきりしていないという理由一つではすまされないくらいには、嫌っているように感じた。
「だいぶ捻くれてるな……」
「捻くれるさ」
秀哉は無理矢理作ったような笑みを浮かべた。彼は「だって」と肩を竦めた。
「運命や奇跡があるなら、俺は“普通”になっていたはずだ。父さんも母さんも、俺が“普通”になるようずっと願ってたから」
「……」
「それに、俺はタイムマシンまで作ってしまったんだぞ? でもこれは奇跡ではない、俺の努力と実力の賜物だ! そうだろう?」
秀哉は明るい声で言い放った。意識して出したような明るさだ。そうだな、と言ってから、和樹は黙った。
「……俺も、本は好きだけど、運命や奇跡って本当にあるのかなって思うときがあるよ」
「えっ?」
「うちの両親、学生時代から凄く仲良しなカップルだったんだけど。父親はあっさり若い女に骨抜きになって、離婚した。そういうのがあるから、運命ってなんだろうって思う」
和樹は苦笑しながら、頬杖をついた。机の表面を見つめる。
「小四で親が別れた後……なんで父親がいないんだって、クラスメートに揶揄われて大変だった。普通じゃない家って笑われる度に、父親を恨んだ。ま、こんなこと言っておいて、結局父親みたいになる可能性もあるけどな。子は親に似るのが普通らしいし」
母からは、一途に人を愛するよう、何度も言われている。和樹自身も、そうなりたいと思っている。
しかし、父親の血を引いている自分が、父親のようにならないと言い切れるのかと。たまに、思うことがある。そういうとき、まだ見ぬ未来が、恐ろしくてたまらなくなる。
母にすら話したことがないのを漏らすくらい、気が緩んでいた。
「ならない」
和樹は顔を上げた。背筋を伸ばし、真っ直ぐな目をした秀哉がそこにいた。
「まさに勉強会の後、お前は同じことを言ってきた。だから俺もあのときと同じことを言う。“普通じゃないのはその父親のほうだ。そんなやつの言う“普通”を真に受けるな。お前の、真摯に生きたいという覚悟を、お前自身が信じなくてどうするんだ。”……大丈夫だ。和樹はそんな“普通”に当て嵌まらないやつだと、俺が一番よく知っている。お前はな、胸を張って世間を生きる、いいやつになるよ」
和樹はぽかんとした。秀哉の言葉の一音一音が、力強さに溢れていた。
ふふ、と思わず笑った。その場しのぎの慰めではないことくらいわかる。なぜなら秀哉は未来の和樹を知っているのだから。
目がすっきり覚めたようだった。心が軽くなっていた。そうしたのは、この秀哉という人だ。
「ん? まだ悩んでいることがあるのか?」
「お腹空かないか?」
「は?」
和樹は台所まで行き、目当てのものを箱から二つ取り出して、テーブルの上に置いた。丸い形の大きなマドレーヌに、秀哉はきょとんとした。
「貰い物なんだ。さっき勉強教えてくれたお礼」
秀哉はじっとマドレーヌを見ていたかと思うと、ぱっと顔を上げた。
「いいな!」
和樹は電子レンジで牛乳を温めてホットミルクを二人分作ると、いただきますと揃ってマドレーヌを食べ始めた。ふわふわなのにしっとりしていて、バターのコクが口に広がる。美味しい、と和樹は頬を押さえた。秀哉も、美味しい、と笑顔でマドレーヌを頬張った。
食べている間、色々なことを話した。 感じ方や考え方など見えているものが違うからか、話が合わないなあと感じる部分も多々あった。が、そんなすれ違いが不愉快には思わなかった。むしろそういう考えができるのか、と新発見に繋がった。向こうもそう思っているようだった。初対面のクレイジーさに翻弄されていたが、落ち着いて向き合ってみると、秀哉は割と話しやすい人物だった。そう感じたことに、和樹は一番驚いた。
食べ終わり、話も一段落ついた頃、秀哉は満足げに息を吐き出した。
「本当に美味しかったな……! おかげで眠くなってきた。ありがとう、助かった」
「眠れなかったのか?」
「まあ過去に来ているわけだし、神経が昂ぶっているのも当然さ」
秀哉はクッションを枕にソファに横になり、布団を被った。大きくあくびをする。
「悪いけど電気は消していってくれ」
「うーん……」
「な、なんだ? どうした?」
和樹はソファの傍まで来て、秀哉を見下ろした。手足を曲げる形で、横になって丸まる秀哉は、幼い子供のように映った。
怪訝そうにする秀哉の手が、布団からはみ出ていた。和樹はおもむろにその手を取った。びくーんと体が強張ったのが伝わった。
「ななななに?! なんだ?! はっ、なにっ?!」
「いや、遠足の前の日とか、緊張して眠れないとき、母さんがいつもこうやって手を繋いでくれるんだ。そしたら少しずつ気持ちが落ち着いてきて、いつの間にか眠れてるんだよ。寝れないんだったらやってあげる」
「いらないいらない! 余計なお世話だっ!」
凄い力で振りほどかれ、今度は布団の中に手が隠れてしまった。
「ほらっ、寝ろ! 子供は寝る時間!!」
「人の親切をなんだと思っているんだか……」
「俺は逆キューピッドだって言っただろうが! こんな情けは無用!」
「そういえばそうだった」
「忘れるな!」
秀哉がここにいるのは、自分と付き合ったが上手く行かなかったので、今までの時間を取り戻すためにタイムスリップしてきたのだ。その前提が、すっぽりと頭から抜け落ちていた。
秀哉が向こうを向いてきつく目を閉じてしまったため、仕方なく和樹は立ち上がって部屋を後にした。
なんとなくで手を握ってみたわけだが、あまり嫌ではなかった。本当に寝付けなかったのなら、寝付くまで握り続けても、それを苦には思わなさそうだと感じた。
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