第3話「雨降りの夜」

 少しプランを変更しないといけないな、と秀哉は顎に手を添えた。


「辻野への接触を間違えたとなると、このまま和樹に辻野のことを好きになってもらうのは難しい……。仕方がない、次だ!」

「次があるのかよ……」


 和樹はげんなりした。


「お前の住んでいるマンションの隣屋。誰が住んでいるか知っているだろ?」

「ああ……名越さんのことか?」


 名越家は両親と娘の三人家族で、長女は和樹より四つ年が上だった。ばったり会えば挨拶するし、あまりいらない貰い物を貰ったときにあげたり、逆に向こうから貰い物をもらったりことも何度かあった。が、両家の子供の年や学年が離れすぎているのが大きかったのか、そこまで親しいわけでもなかった。


「……まさか名越さんとこの子と付き合えって言い出すんじゃないだろうな?」

「大当たりだ!」

「言っておくけどそれは無理だぞ? あの人、大学進学で一人暮らしするからって、もうじき引っ越すし」


 以前、母から聞いた話だった。顔は知っている仲だが、そこまで深く交流していたわけではないため、特に感傷はなかった。ところが秀哉は「いやいや」と首を振るのだった。


「この名越とは、偶然和樹の仕事先で出会うんだ。客としてな。何年か越しの再会を向こうは覚えていた。その後も客として、和樹の仕事先に名越は何度も訪れた。仕事柄、長く話す時間があるからか、もともと顔見知りということもあって、二人の会話は弾むようになり、どんどん仲良くなっていった」

「俺、なんの仕事をしているんだ?」

「美容師だ」


 秀哉は指を二本立てて、チョキチョキとハサミのように動かした。

 和樹は驚いて自分の手を見つめた。美容師など今までノーマークの職業だったが、未来とはわからないものだ。


「二人は今じゃすっかり友達だ。しかし俺は思う。仲の良い友達になったのなら、仲の良い彼氏彼女になるのも容易いのではないか、と! 未来の名越は結婚を控えているが、今は違う! いや、むしろ本来名越と結婚するはずだったのは和樹なのではないか?!」

「そうか……? 相手にも選ぶ権利はあるだろ?」

「いやいや絶対ポテンシャルは秘めている! 要するに向こうは秀哉にもとから悪い感情は抱いていないんだ。それは今も変わらないはず。ならば、今から何かしら仕込んでおいても遅くはないだろう。ということで和樹、お前は今からマンションに帰って名越家に行け! そこで引っ越しの手伝いを申し出ろ! 引っ越しの手伝いをしながらじっくり二人で話すんだ! 未来では二人で話す機会が少しでもあっただけですぐに仲良くなっていた! つまりもとから気が合うんだ! 今からでも遅くない! たくさん話して、俺よりも名越に興味を持つようにするんだ!」

「えええ……」

「俺が下手に口を挟むと余計な結果を招いてしまいそうだからな、細かい指示は出さない! さ、早く行くんだ和樹! お互いの未来のために全力で頑張ってこい!」


 さあさあと、秀哉は両手で空気を押すような動作を繰り返した。ここで嫌がっても彼は引き下がらないだろうし、揉めればただ余計な時間がすぎていくだけだろう。渋々和樹は頷き、マンションに戻ることにした。駆け足と命じられたので、仕方なく走る。


 走りながら和樹は一度後ろを振り向いた。頑張れ、と言いたげに拳を顔の前で握りしめた秀哉が、思いのほか優しい笑みで、和樹を見送っていた。



  隣室を訪問して引っ越しの手伝いをしたいと言うと、長女もその母親も、突然の申し出に不思議そうにしながらも快く受け入れてくれた。


「助かるよー! 片付けが苦手でね、なかなか進まなかったの! でも永野君に見られているって思ったらちゃんと本気出さないとだね!」


 髪を一つに結んだ名越 美希は、快活で面倒見のいい性格というイメージだった。


 偶然会って挨拶したときなど、持っている飴やグミやガムといったお菓子を必ず一つ分けてくれたことが印象に残っている。とはいえそれ以上の人となりを知らないので上手く話が弾むだろうかと少し心配だったのだが、手伝いを始めてすぐにそれは杞憂に終わった。


 指定されたものを箱に詰めていきながら話す過程で、和樹の大好きな漫画を彼女も集めていたことを知った。更に、見ている、または見ていたアニメもかなり被っていた。趣味の話で盛り上がり、年齢の差を感じないほど短時間で打ち解けることができた。同時に和樹は、ある種の感動を味わっていた。


「今ちゃんと“人”と話しているなあ……」

「な、何? どうかした?」

「いや、こっちの話」


 今日は昼からずっとわけのわからない大人と対峙し話し続けていたため、こうやってまともなコミュニケーションを取ることがひどく久しぶりのように感じられた。人知れず浸りつつ、ちゃんとしたコミュニケーションを取れる時間を楽しんだ。


 ところが、そうやって喋ることに重点を置いて作業をしてしまったため、もうじき夕方を通り越そうというのに、進捗は芳しくなかった。窓の外を見て、かなり暗くなっていることに驚いた。いつもより更に暗く感じるのは、いつの間にか空を分厚い雲が覆っているからだろう。


「なんだったらこの時間だし、お母さんさえ良ければの話だけど、夕飯も食べていく?」

「あ、そうしようかな……」


 和樹のお腹も、ちょうど小腹が空いていることを訴えていた。じゃあ、と頷きかけたとき、窓の外からぽつぽつと音が聞こえてきた。


「あっ、降ってきたねえ」


 昼間強く吹いていた春の風は、雨雲も運んできてしまったらしい。窓ガラスを滴る雨粒の量は徐々に増えていき、十分もしないうちに、雨脚は強くなっていった。


 ざあざあと、水の流れる音が絶え間なく聞こえてくる。和樹は箱詰めの手を止め、雨に濡れる窓を見た。春の雨は細くて静かなものなのに、今日の雨はかなり激しい。雨の一粒一粒が建物に打ち付けてくる音がはっきり聞こえてくる。少し外にいれば、あっという間にびしょ濡れになってしまうだろう。


 和樹は我に返り、集中せねばと作業に戻った。が、三分もしないうちに、気づけばまた窓の向こうを見ていた。


 彼は、と思った。傘を、持っていただろうか、と。


「どうしたの? 大丈夫?」


 名越が心配そうに声をかけてきた。和樹は大丈夫です、と答えようとした。そのとき、ざあっと雨の音が更に大きくなった。遠くで小さく雷が鳴った。次の瞬間、和樹は立ち上がった。


「ごめんなさい、用事を思い出してしまって。そろそろ帰らないと」

「わかった! 今日は本当にごめんね、ありがとう。またちゃんとお礼に行くからね」


 ありがとうございました、と頭を下げ、和樹は名越家を後にした。一旦自分の部屋に帰り、傘を二本持つ。そのうち一本を差して、和樹は外に出た。


 日は傾いていた。水に濡れた世界は、ひんやりと冷たくなっていた。


 春とはいえ、まだ夜は冷える。雨が降っているともなれば尚更だ。肌寒さと共に、和樹は走った。目指すは公園だった。今どこにいるかわからないが、いる可能性が一番高いのは、タイムマシンを隠してあるあの場所だろう。


 誰もいない公園をざっと見回す。すると、木の陰に一人の男が座り込んでいるのが見えた。


 男は幹に頭を預け、首を上に向けていた。バイク型のタイムマシンを傍らに置き、ぼんやりと雨空を見上げている。見ているというより、ただ瞳に映しているだけ、という感じだ。


 ぱしゃぱしゃと、湿った地面を駆けて近づいた。和樹に気づいた秀哉は、びっくりした顔をこちらに向けた。


「和樹、どうしてここに。名越は?」

「手伝いはもうほとんど終わったから、帰ってきた」

「話は弾んだか?」

「思っていたより楽しかった」

「おお、そうか。好きになれそうか? 付き合えそうか?」

「それは、よくわからない」

「な、なんでだ? 何が不満なんだ? 見た目も性格も文句なしだろう? 辻野だって、悪いところとかないだろう?」

「そうだな、それは思う。けど……なんだろうな……」


 改めて見ると、名越は綺麗な人だったということを知った。辻野も可愛かった。二人とも、性格も良いのだろう。


 しかし、だ。好きになろうという思いを込めて見てみると、引っかかるものが生じず、滑らかにすり抜けていくのだ。素直に伝えると、え、と秀哉は眉間に皺を作った。


「お前って贅沢なやつだな……。そんなにタイプにうるさい男とは知らなかったぞ?」

「今はそんなことより、あんただよ。じきに日が暮れるけど、あんた今日どうする気なんだ? 一度未来に帰る……ってわけでもなさそうだよな」

「当たり前だ、燃料がもったいない。ここで野宿しようと考えていたんだが……この雨じゃ難しいよなと思っていたところだ」


 秀哉はため息を吐いて雨の降り続く空を見上げた。


「まあ何かあったときのために財布は持ってきているし、どこか泊まるさ」

「じゃあ家おいで」


 秀哉は大きく目を見開いた。そのまま動かなくなった。和樹は持ってきていたもう一本の傘を差し出した。


「ずっとここにいたんだろう? 風邪引いても知らないぞ? 風呂貸してやるからおいで」

「は、え、いや」

「あ、でももうすぐ母さん帰ってくるから、未来から来たとか変なこと口が裂けても言うなよ?」

「あっ、えっ」

「ほら早く。こっちも寒いんだから」


 更に相手に近づける形で、傘を差し出す。そこで、秀哉の体が微かに震えていることに気づいた。やっぱり寒いんじゃないかと呆れる。温かいお風呂なんて、今秀哉が一番欲しいものではないだろうか。なのに秀哉は「け、けど」とためらっている。和樹はやれやれと肩を竦めた。


「……湯気に煙る浴室」

「は?」

「体に染み渡っていくあったか~いお湯。手足を思いっきり伸ばして肩まで浸かる。両手にお湯を受けて顔を洗う。凍っていた体がどんどん解凍されていく」

「ちょっ、おま……」

「ぽっかぽかに温まって逆にすっかり熱くなってしまった。熱い熱いと風呂から上がった先で目にしたのは……」


 ここで和樹は声を落とした。


「……キンキンに冷えたコーヒー牛乳だった」

「ぐう゛うっ!!」


 秀哉は胸を押さえてうずくまった。


「ぎ、牛乳だったら揺らがなかったのにっ……! なんでコーヒー牛乳が出てくるんだよ……!」

「今ちょうど冷蔵庫にあるんだよなあそれが」

「うわあああ……!」

「ごはんもついてくるよ。お腹空いているんじゃないのか?」


 秀哉が首を横に振るのと同時に、ぐううとわかりやすいお腹の音が鳴った。和樹は吹き出しながら、「おいでってば」と腕を掴んで立ち上がらせた。冷えなのか、秀哉顔はすっかり青白くなっていた。なんでこんな思いをしてまでこんなことを、と思った。


 少しして和樹は、秀哉が小さく頷いたのを確認した。




 一気に飲んでもよさそうなものを、秀哉は風呂上がりのコーヒー牛乳を、一口一口味わうに飲んでいた。その度に顔全部で感慨に浸っているのを表すのが面白かった。和樹がそれをいじっていると、母が帰ってきた。


 見知らぬ来客に当然驚く母に、和樹は用意していた言い訳を言った。友達のお兄さんなのだが、親と喧嘩して家を飛び出してしまった。雨も降っているし衝動的だったから何も持っていないので、一晩だけどうか保護してくれないかと友達から頼まれたのだと。


 自分でも無理矢理な言い訳であることはわかっていたし、やはりというべきか、母は「は、何それ?」と不審がった。とにかく押し通すしかないと決意すると同時に、秀哉が立ち上がり、母の前に立った。


「突然の訪問、無礼なことは重々承知の上です。大変申し訳ありません。ですが何とぞ、一晩だけ雨宿りさせて頂けないでしょうか。もちろん、これ以上の無礼を働くことは決してしないとお約束します」


 そう言って、深々と頭を下げたのだ。え、と母は目を丸くした。ええ、と和樹も口を開けた。


 あの奇人変人ぶりはどこへやら、秀哉は前面に押し出していた。逆にやり過ぎなくらいに殊(しゆ)勝(しよう)になっていた。その腰の低すぎる態度に押されたのか、母は目を白黒させながら、「わ、わかりました。狭いところですが、ゆっくりしていって下さい」と言ってくれた。


 その後の秀哉も、色々な意味でおかしかった。「置いてもらうのですから、これくらいするのは当然です」と言って、冷蔵庫の中身を確認してから夕食を作ったのだ。生姜焼きだった。おかずだけでなく、ごはんも味噌汁もサラダも用意した。


 生姜焼きを一口食べた母は、「まあ美味しい!」と目を輝かせた。和樹も一口食べて驚いた。本当に美味しかった。ここまで甘さと辛さのバランスがちょうどいい味付けになっている生姜焼きを初めて食べた。自然と白米が進んだ。


 途中、母が職場からの電話で席を立ったタイミングで、こっそり「料理上手には全然見えなかったんだけど」と率直な感想を述べた。秀哉は得意げに、料理は科学だからな、と言った。


「未来ではあんたが料理担当?」

「いや。未来の和樹も料理上手だからな。当番制だ。どっちも気が乗らない日は喧嘩になるが」

「喧嘩って……。それどっちが勝つことが多いんだ?」

「どうしてもやりたくないときは、俺が床の上で大の字になって嫌だ嫌だ言い続けるんだ。そうしたら和樹は大体代わってくれる。次の和樹の当番のとき、絶対俺にやらせてくるが」

「うわあ子供だ」

「和樹も大概じゃないか」


 秀哉は楽しそうに笑った。


 夕食後、秀哉は洗い物も全部行った。その後で母に、何か手伝えることはないか聞いてきた。母は渋ったが、どうか手伝わせて下さいと、秀哉はどこかしら必死さを感じる言い方で頼んだ。折れた母は、じゃあ、といくつか仕事をお願いした。


 切れかかっている電球の交換や、換気扇や排水溝の掃除、少し調子の悪かったテレビやデジタル時計の修理などをこなしていく秀哉は、手伝いそのものを喜んでいるように見えた。頼まれ事を全部終わった頃には、母の警戒心はすっかり消え、むしろ秀哉のことがお気に入りになっていた。


「いやー、秀哉さんは本当に良い人だわねー! さぞモテるんじゃないかしら!」

「いえ、生憎そちらの出会いはさっぱりでして……」

「あらそうなのー? 見る目ないわねえ、こんな素敵な人がどうして!」

「母さん、もうやめなってば」


 秀哉は母に捕まり、話し相手にさせられていた。さすがに恥ずかしく、母を止めようとした和樹だったが、意外にも「大丈夫だよ」と言ったのは秀哉だった。


「本当に大丈夫。話させてくれ。俺も話がしたいんだ」

「そうは言っても」

「いいじゃないの、和樹! この人聞き上手だから、ついお喋りしたくなっちゃうのよ! 和樹も秀哉さんみたいな大人になってほしいわ~! お料理上手で礼儀正しくて真面目で優しくて!」


 秀哉の正体は本当は全然違うことを言いたかったが、懸命に耐えた。すると秀哉は、穏やかに笑って、「大丈夫ですよ」と言った。優しい声だった。


「和樹……くんは、いい大人になります。俺よりももっと。保証します」

「あら本当ー?! 優しいわねえ、ありがとう!」


 すっかり心を開いた母は、ぺらぺらと様々な雑談を繰り広げる。秀哉は時折見解を交えつつ、基本的には相槌を打ちながら、聞き役に徹していた。こうなると母は止まらない。秀哉には悪いが、和樹は逃げることにした。


「それでねえ、和樹には一途に人を愛する子に育ってほしいのよ。これって決めた奥さんと、生涯を共にしてほしいの。で、幸せな家庭を築いてほしい。それが今の私の一番の夢なんだけど、ちょっと先を見据えすぎているかしらね?」

「……そんなこと、ないですよ。その気持ち、とてもよくわかります」


 リビングを出るとき、一瞬だけ振り返った。


 母の話に何度も頷くその笑顔に、ふと、影が差したように見えた。

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