<なかったこと>コーヒー 〜古民家カフェ<奇>の不思議メニュー 3杯目〜
男は逃げていた。
住宅街を走り、知らない角を曲がり、目に飛びこんできた看板「古民家カフェ<奇>」。ここだ、と思い飛びこんだ。
店内はまさしく古民家カフェだった。床や壁の木が黒光りして年季が入っている。 古びた家を改装して、一階部分がカフェになっているのだろう。「お客だれも来なくてヒマですね」なんて聞こえてきそうな店だった。
「いらっしゃいませ」
カウンターにいる中年のマスターが愛想よく言った。
男は黒カバンを握り締め、すばやく店内を見まわした。客はひとりもいない。いや、カウンターにもうひとりいた。眼鏡をかけた地味な女。学生のアルバイトだろう。ぽかんとして男を見ている。
そのとき、パトカーのサイレンの男が聞こえてきた。
「あ、警察」
女が当たり前のように言う。
「こっちに来るね」
マスターがぼんやり返す。
「俺のことはだれにも言うな!」
男は銃を出し、つきつけた。
*
三人は固まったままだった。
サイレンが店の前を通りすぎていく。
「ご注文は?」
マスターが聞いた。
「知るか!」
男はドアに駆け寄り、磨りガラスから外をうかがう。
ぼんやり透けた向こうに、まだパトカーのランプが見える。
「でも、なにか注文してもらわないと」
背後でまだ言っている。
「ま、マスターのコーヒー! おお……美味しいんですよ!」
それまで黙っていたバイトの女が突然言った。
「そそ、それに! すごいんです! な、なにがすごいか聞きたくないですか!」
まだしゃべってる。
「ま、マスターのコーヒー、飲んだら願いが叶うんです!」
*
男が座ると、イスも床もぎぃと音をたてた。まったくいかにもな古民家カフェだ。男は膝の上に黒いカバンを置いたまま、銃を握り締めた。
「はいどうぞ」
いつの間にかマスターが横にいて、コーヒーカップを目の前に置いた。
「当店オリジナルブレンド<なかったことにする>ですよ」
カップの中をのぞきこんだ。
白いカップの中に黒い液体。
男は一瞬、深い穴の底に落ちていくような、そんな気がした。
湯気が立ちのぼってきて、コーヒーのいい香りがした。
取っ手に指を通し、持ちあげる。
ひとくち、飲んでみた。
熱い。口の中にさわやかさが広がり、苦さが舌に染みこんでいく。飲みこむと、食道から胃に、あたたかさが落ちていくのがわかった。
「うまい」
思わずそう言った。
横に立つマスターを見あげた。ニコニコしている。ただ者ではない、のかも。男は思った。
「吉田さん、これで願いが叶いますよ」
「どうして俺の名前を!」
カップを乱暴に置いて、男は拳銃を向けた。
マスターは怖い怖いといった体で手を少しあげた。しかし顔は笑ってる。
「しし、調べたんです!」
姿は見えないが、カウンターの下から女の声がする。
「ねねネットニュースになってますよ! 『銀行から現金盗まれる。警察は現在、北北西銀行に勤める吉田健康(34)の行方を追っている』って!」
「だから願いは<なかったことにする>か」
マスターが言う。
「ままマスター! その人、警官を轢いて拳銃奪ったみたいです! きょ、凶悪犯です!」
吉田は拳銃をぎゅっと握った。
マスターは笑顔のままでコーヒーカップを指さした。
「もう大丈夫ですよ。だって<なかったこと>になるんですから」
そのとき、膝の上が軽くなった。見ると、黒いカバンがない。
一瞬、取られた! と思ってマスターを見るが、先ほどまでと変わらない。笑顔のまま立っている。それに、手にしていたはずの銃もなくなっている。そんなバカな。
「<なかったこと>になったんですよ」
マスターが言った。
サイレンも、いつの間にか消えていた。
吉田はふらふらと立ちあがった。ぎしぎしきしむ床を歩き、店のドアをそっと開けた。新鮮な風が顔にあたった。冷たくて気持ちがよかった。ドアの隙間から顔を出す。外にはもうパトカーも警官もなかった。住宅街のはずれにある、静かな一本道だった
生まれてからずっとなにかに耐えつづけていた。こんなに気分が晴れたことはなかった。意味のない重圧と嫌な上司の抑圧。耐えかねて銀行の金を盗んだ。だがもういい。すべては<なかったこと>になった。
吉田は店を出て行った。
「たた大変ですマスター!」
「なに?」
「こ、コーヒー代もらってません!」
*
吉田はもどってきた。
だが、コーヒー代を払うためではなかった。
「吉田さん、血まみれじゃないですか」
マスターは笑顔を崩さなかった。
「<なかったこと>もう一杯」
吉田は一時間前とおなじ席に座った。手には銃ではなく血まみれのバットだった。
マスターはコーヒーカップを置いた。吉田はぐいっとひとくち飲んだ。前とおなじ、深い苦味が心地よかった。
「ままマスター! ネットに拡散されてます! 『銀行員バットで上司タコ殴り動画!』って!」
吉田はもうひとくち飲んで「うまい」と言い店を出ていった。血もバットは消えていた。
「まマスター!」
「コーヒー代ね」
「どどどうします!」
「また来るよ、きっと」
「こんこん今度はちゃんと!」
「わかったよ」
*
吉田がやって来たのは数日後だった。
おなじ席におなじように座り、マスターがコーヒーを出す。
カウンターの向こうから声がして、数々の犯罪が並べたてられた。
「吉田さん」マスターが言った。「そろそろお代をいただきませんと」
「それも<なかったこと>にしろ」
吉田はぐいっとコーヒーを飲んだ。苦味が前よりも強い気がした。舌がしびれるような。
「それはできないんですよ」
マスターは笑っている。
吉田は立ちあがった。ここ数日の罪はすべて消えた。彼は過去のすべてを精算してきたのだ。俺を抑圧してきたやつら、バカにして足蹴にしてきたやつら。
すべての過去に決着をつけた。そしていま、自分の罪もふくめすべてが<なかったこと>として消えていく。
吉田は気分がよかった。なにもかもが消えてなくなる。自分の過去、自分の思い、自分自身もすべて……<なかったこと>になる。
マスターは笑顔のまま立っていた。古びたテーブルとイス。だれも座っていないその席に、コーヒーカップがひとつあるだけだった。
マスターはカップを持ち、ササッとテーブルを拭いた。
バイトの女の子が言う。
「お客だれも来なくてヒマですね」
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