第48話 哀傷③

 正子は、俺がドイツに息子がいることを知らない。ましては、ドイツに愛人がいることがわかったら国から酷いバッシングを食らうだろう。

 俺は、正子のことを大事にしたいと思った。

 しかし、その思いは受け入れられない。だから、この秘密を墓場まで持っていくと決めていたのだ。

「私は光生さんの妻として支えます」

 彼女はそう言っていた。俺はその言葉に甘えてもいいのだろうか? そう自問自答した日もあったが、答えは出なかった。


 正子が段々とお腹が大きくなっていくにつれ、俺はこの土地から逃げたい気持ちが強くなってきてしまった。

「俺が、徴兵されたら、今までの想いも、全てが終わると思えることができれば、なんだがいいような気がします」

 彪吾さんの部屋でラジオを聴いていた時に、思わず呟いた。

 彪吾さんは俺を見て、どうしたのだよと言わんばかりの表情で見つめてきたが、俺は目を逸らすことはしなかった。

「光生はもう大人だし、そろそろ兵役についてもおかしくはないね」

と言った後に

「光生は、国は捨てたくないと思うよ。留学もして、これからってところだし。人材育成ってのいうのもある」

そう付け加えて言われる。一呼吸置いたが、また彪吾さんは話を続けた。

「俺は、死ぬための戦争も光生のために行く。それは本望だよ」

なんとも言えない顔をしていた。

「言っていることがよく分からないんですけど。でも、俺だって、この国の人のために戦うという選択肢はありなのかなって思います」

 俺は、自分でも訳のわからないことを言っている自覚はあったが、「そうか」と言った後、何も反論はしてこない。

「俺は、死ねるなら死にたい。どうせなら最後くらいは善の人間として」

 俺は、何故か今の自分が何を思っているのかわからなかった。



 千九百四十五年、二月上旬。赤紙が来る前に、自ら志願して兵になった。彪吾さんのご両親には、当然のように反対された。

「光生、お前は留学もしていたし。学業は優秀だから、お前が戦地に赴くことはないんじゃないか?」

 しかし、俺が行くと決めて譲らなかった。

「頼むから、命を戦地にだけは……。しかも自らなんて、光生の父親は何というか」

俺は少し俯き、数秒後、顔を上げた。

「この国は俺が守ります。俺が学んだ大好きなものが消える方が嫌なのです」

 俺の、切なくも決意に満ちた瞳を見ると、彪吾さんの両親である二人は、それ以上何も言わなくなった。

「気をつけて行ってくるのだよ」

と悔しそうに言われた。


 すぐに彪吾さんの耳にも入ったらしい。部屋に戻るなり

「どういうことか、説明しろ!!」

と問いただされた。俺は昼下がりの自分の部屋を見て言った。

「彪吾さん、少し出かけましょう。俺、あんぱん食べたいです」

わざとのように、そう言って笑った。

 そしたら、彪吾さんは怒りが隠せていない顔で

「支度をしてくる」

そう言って自室に戻って行った。


 支度を終えた俺と彪吾さんは、家を出て、歩き出す。俺たちは黙っていた。俺は自分のことで頭がいっぱいだった。彪吾さんは、何を考えているのだろうか。

 しばらくしてから、彪吾さんが口を開いた。

「俺の両親、本当は止めたかったのに、お前の意志を尊重したんだと思う」

彪吾さんがこちらを見る。

「だから、俺は訊くぞ。どういうことだ?」

俺は歩きながら答える。

「彪吾さん、聞いてくれますか?」

「戦争に行く理由か?」

「俺が犯した罪を」

 彪吾さんは、疑問が半分と寄り添いたいという半々の顔をしていた。


 彪吾さんの家族の分のあんぱんをお土産に買い、俺たちはあんぱんの食べながら、家に帰った。

 俺が「彪吾さんにしか聞かれたくない」と言うと、彪吾は両親には出かけるように言ってくれ、使用人も誰も通さないようにしてくれた。

 彪吾さんの奥さんとお子さんは一階の彪吾さんの部屋とは一番離れている畳で過ごすように言った。

「しばらくは二人っきりで話したい」

と彪吾さんが言うと、奥さんは

「わかりました」

と疑うこともなく、子どもの世話をしながらそう返事をしていた。俺は一つ小さくお辞儀をする。奥さんは、微笑んでお辞儀をしてくれた。


 彪吾さんの部屋で俺は話をした。

「俺の子どもが、ドイツにいるのです」

 彪吾さんは、しばらく固まる。目が点になりながら、「え?」と言っているような表情をしている。俺がもう一度、同じ言葉を口にすると彪吾さんはやっと反応した。

「は?  子どもがいるのか? てか、お前、正子さんとの子どもは? この前、相談してきたじゃないか、どうしようとか言って。というか、誰と?」

聞きたいことをじゃんじゃんと言ってきた。

「いえ、籍は入れてないです。いいとこの娘さんで、年下のドイツ人の女性です。子どもは男の子ですけど」

 その女性には、歳の離れた旦那さんがいたが事故で死んでしまい、その後に授かった俺との子どもであること。

 俺と彼女が望んだことだと付け加えた。

「でも、なんで今になってそんなことを」

 俺は、自分に怒り狂うように、自分に訴えるように言った。

「俺は帰って来て、何度も思ったのです。俺は国に恥をかかせるような行為をした挙句に、誰にも知られることなく、今自分が段々と出世していっていることに。もう取り返しがつかないと!!」

 彪吾さんは何も言わずに俺を見つめていた。

「俺は、何十年後の教科書に載るのであれば、ドイツに留学し、日本の発展のために力を注いだ教育学者ではなくて、ドイツで愛人ができて子どもを産まれて、今でも想い続けている、罪を犯しながらもそれを表沙汰にせず、国の繁栄に貢献し続けた男と書いてほしいと思った。俺はそれが本望だと。国のために生きたのではなく、国を想い続けて生きた人間と残してほしい」

 彪吾さんは静かに俺を見つめていたが、「そっか」と言った。

「こんなこと、言えませんけどね」

 その時、自分の声は震えていて、泣いていることに気付いた。

「永遠に犯した罪を黙って生きようと思っていたのです。ドイツに、このことを知っている夫婦の方はいらっしゃいますし、勘づいた仲間もいますが、黙っていてくれている。でも、俺は、その選択が間違いだとは思ってはいないのです。幸せなのです」

そう言って、俺は子どものように泣きじゃくった。

「そんな俺に、生きてほしいと思います?」

 彪吾さんは黙って頭を撫でてくれた。


 そして、語った。ドイツで留学した時の俺の身に起きた出来事を。優しい記憶。もう一度会いたいと思ってしまうため、思い出すことはしなかった。けれど、今は違う。残すのだ。俺の本当を残すのだ。


 彪吾さんは、紙を用意しペンを動かす。彪吾さんは

「自分の親や親戚にも内緒で、ずっと隠す」

と言ってくれた。続けて、また言葉を紡ぐ。

「一生守る。そして、語れる時代になったら、いつか」

俺は一筋の涙を溢した後、笑って言った。

「はい、お願いしますね」

こうして彪吾さんは俺の共犯者となってくれたのだ。

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