第六章

第46話 哀傷①

 ドイツから帰ってくる頃、日本は梅雨入りしていた。

 西洋造りの建物が、前より増え始めた。地方でも増えてきているという。

 雨がザァーと降っている。

 その音に紛れ、市郎さんに名前を呼ばれたので、そちらを向く。

「留学した知識を活かして、人材育成をする。それがお前の役目だろ?」

諭されるように言われた。

 雨の音が少しうるさい。

 俺たちがいる建物は、少し広めの洋館の一室である。ソファも、大きな棚も新しく調達したらしい。

「東京の春は、ドイツの春より綺麗で暖かく感じるのは何故だろうか」

 俺がそんなふうに独り言ちていると、横にいた市朗さんが反応して

「空気が美味しいからじゃないか? というか、春はもう過ぎたぞ?」

と答えられる。

 俺は「ああ、確かに」と納得したが、心に穴が空いたように自分が変わってしまったことを国に詫びたかった。

「だけど、育成するのは学問の知識ではなくて、軍事的なことになりそうだがな」

 市郎さんは、棚の上に置いてあるラジオから流れる音楽を聴いていたのか、こちらを振り向きながら苦笑いをする。

「確かに、そうかもしれませんね」

と俺は同意した。

「さっきの話の続きだけど」

市朗さんが切り出した。

「これからもたくさんのことを学べ。自分の中に知識を取り入れていけ」

「はい」

なんとも言えなかった。

「早川さんが、これからも期待しているってさ」


 留学から帰ってきてすぐは、早川さんが事業を経営している場所や、井ノ原教授の元に行ったりしていた。そこで研究や論文に没頭していたのだ。


 すると、政治的に評価するべきに値された研究や論文だったらしく、俺は表舞台に赴いた。


 雨音が外からするとはいえ、室内ではラジオが流れている。流れる音楽は優雅なワルツではなく、軍事的な行進曲のような音が流れてきていた。


 東京の西洋的な屋敷に住んでいる吉池宅には、留学後も世話になっていた。彪吾さんは貿易関係の仕事をしつつ、戯曲や文を創作していた。日記も認めているようだった。

 また、俺が留学している間に別嬪さんの女性と結婚して、子供を一人奥さんとの間に授かった。元気な男の子で、よく喋る。 

 俺は、留学から帰って教養学の仕事に打ち込んでいるだけだったのに、いくつか縁談話の申し出があった。俺はうまく断っていたが、政治家の娘さんとの縁談は、立場が上の方だったため断りづらかった。


 政治家の方がどうしてもというので、一度だけ会って本人に嫌われようと適当な態度をとったが、娘さんは「あなたがいいです」と言うのだった。

 理由を問う。

「好きなことに打ち込んでいる姿を私は生涯をかけて支えたいのです」

 真っ直ぐな目で言われた。

 愛嬌がある顔をした、包みんでくれそうな女性だと思ったが、結婚する気にはならなかった。

 性格が合わなかったことにして、すぐに別れようと思ってはいたが、三回ご飯を食べに行った。彼女はおしゃべり好きで色んなことを喋っていたが、楽しくはなかった。

「私、木ノ下光生さんと結婚を前提にお付き合いしたいです」

と言ってきた。俺は断った。

「どうして?  私はあなたの支えになりたいのです!」

と食い下がってくる。俺は、その熱意が怖かったので「ごめんなさい」と言って逃げた。しかし、彼女は諦めなかった。

 それからは、毎日のように電話や手紙が来るようになった。俺の仕事場にも来るようになって、周りも彼女のことを応援するようになっていたのだ。

 しかし、彼女のお父さんが縁談話を進めてしまっていたらしく、両親も「是非とも」と、話を進めてしまっている。あまり乗り気ではなかった。


 俺は、日本に帰ってからは人材養育のために教育機関を設立するための準備をしたり、勉学に励んでいた。生涯でルーシー以上に素敵な恋人は現れないと思っている。

「お前ならできると思うけど、無理しないでね」

と言ってくれる彪吾さんに、

「ありがとうございます」

と言った。そう返事をした時の表情や声色を忘れないだろう。


 結果、俺が根負けした形で交際を始めた。

「木ノ下光生さん。私はあなたの支えになりたいの!」

と言ってきた顔は無垢な顔であった。

 彼女は俺との結婚を望んでいるようで、それが俺の心に引っかかっていた。だから、結婚はもう少し待ってほしいと言った。すると彼女は「分かりました」と言って引き下がった。

 それからも交際を続けていて、彼女の両親にも挨拶に行ったりしていた。

 彼女の両親がとても俺に好意的な態度を取ってくれるので、俺は安心して交際を続けた。

 その頃には、俺にも縁談の話がいくつか来ていたが、全て断っていて、彼女も俺が断り続けていると知っていたからか、何も言わなかった。

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