第五章
第36話 静寂な背伸び
夏から秋になり、十一月。再び日本に来た。
東京国際空港から、そのまま撮影現場の洋館に向かう。ルイーナと関係を深めていくところの撮影から入るそうだ。
今回は、最初からちょくちょく参加することになった、ローランド役の東条さんが、俺に挨拶をしてくれた。
「久しぶりです」
そう言って俺は。握られた彼の手を握り返す。
「お久しぶりです」
「俺の撮影は映画のシーン的には最後の方なんだけど、今日の夜に撮るらしくて」
「名演技、楽しみにしてます」
俺が微笑みながら言うと、照れ臭そうにしていた。
少し奥の方で、俺も頑張らないと。と、心に誓っているような礼くんを見つけたので声をかける。挨拶をしてくれたが、元気が少し無くなっていた。
あまり触れてもいけないような感じだったので、話題を変えることにする。
「ドイツのお土産、礼くんの」
ドイツにしか販売されていないチョコレートを手提げ袋から取り出して渡すと、笑顔を見せてくれた。大人のような対応をいつもしているが、この時ばかりは、チョコレートで喜ぶ幼い子供のように見えて可愛く思った。無理して笑っている感じもしないわけではない。
昼の撮影は、ほとんど光介が小学校で授業をしているか、同じ留学生と対談しているシーンであった。
悪役真田丈のイメージがガラリと変わるような演出をされている。
悪さを感じさせない表情や声のトーン。周りのサポートも素晴らしいと褒め称えたい。俺も初めて、映画の現場を見るのだが、脚本や演出をしている人は凄いなと思った。
「こんな風に撮るんだ」
「うん、でも、これまだ完成していないよ」
礼くんが呟くように言う。驚いているようだ。そんな様子を見ていた東条さんが話しかけてきた。
「大丈夫だよ。この先、どんどん良くなるから」
「更に良くなるんですね」
俺は思わず口をぽかんとして固まってしまう。出来がよいものを更に良くなる確信して言える東条さん。監督への信頼が素晴らしいと尊敬した。
「礼くん、チョコレート持ってる! いいな!」
東条さんが俺に強請ってきた。
「東条さんのチョコレートは少し甘めです」
と言って、東条さんの分のチョコレートを渡すと、ニヤッとした顔で受け取った。嬉しさが隠しきれていない。礼くんがチョコレートを貰った時の反応より、嬉しさが顔にデカデカと書かれているようだなと思った。
夕方になると撮影は一旦終わりになり、休憩に入る。
夜も、続けて撮影をするそうだ。俺は夜の撮影前に監督と話し合うことになった。監督は、今回の作品を作るにあたって、かなり思い入れがあったようで俺の意見も聞きたいと言われたのだ。俺は快諾した。
「この洋館は昭和初期に建築されたらしい」
「とても、作品にあってます」
俺たちは洋館の外で話をすることにした。
「今日は、ローランドのシーンを撮って終わりだけど、明日はルイーナ役を入れての撮影になる。一年間体調を崩して、今回の俺の映画が彼女の復帰後すぐの作品になる。何か意見があったら教えてほしい。今日までの撮影じゃ何を言えばいいか分からないと思うけど」
俺は「それよりも」と話を変える。
「礼くん、元気ないですけど、何かあったのしょうか?」
と訊いた。監督は難しい顔をして
「葛藤中、病み期と言ったところ? 俺も気は遣うが、結局のところ、自分次第だよ。でも、頑張ってもらわないと作品は完成しない。ここまできたんだから」
と言いながら、たばこを口にくわえた。
「たばこ、吸うんですね」
「普段は、仕事の付き合いだけだけどね」
そしてライターを取り出すと、俺の方に体を向けて
「吸ってみる?」
「いいえ、結構です」
と断ったが
「遠慮しなくていいのに」
苦笑いされてしまった。
監督が火をつけて口に吸い込む。それを見ていた俺は、ふと父のことを思い出す。
父は酒は飲まずに、いつもたばこを吸っていた。いつもと言っても、辛いであろう時や何かの節目で吸っていた。
黒い瞳は祖父譲りだろう。その黒い瞳は、たばこの煙のせいではない。いつも曇っているような、そんな気がした。何か、すっきりしていないような気がしていた。いつも何を考えているのか分からない、ミステリアスな人だ。
「やっぱり、吸います」
俺が答えると、「本当に?」と目を丸くしながら俺の口から離したたばこを渡される。俺も、父のように深く息を吐いてから口に入れた。
口に広がるのは、甘いバニラのような香りだった。今まで、何の味もしなかったはずの舌が嘘のようである。これが美味しいということなのだろうか。俺にはよく分からなかった。
「どうだい?」
監督は優しく微笑む。
「正直、分かりません。俺はまだ、幼い。何も分からない」
俺も微笑み返し、そう言った。
監督は少し悲しげだったような表情をしていたが、何も言わずに夕日が沈む空を見た。もうすぐ、夜空が見える。
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