第17話 卒業して

 医学を学ぶことは恐れてしまった。だが、我が儘であるとは思いつつも、留学はしたい。留学するにはどうしたらいいのか考えた。

「政治家……研究者? 元基さんみたいに、貿易関係者なら渡航も可能?」

 大井宅の渡り廊下を立ち歩きながらブツブツ言っていると、元基さんが俺を驚かせてきた。肩に手を置かれるまで気付かなかったのだ。

「僕の存在には気付いてよ」

頬を膨らませてそう言ってきた。

 俺は、咄嵯の事で固まってしまい何も言えないでいた。

 すると、元基さんは俺の手を握ったままこう言ってくれた。

「大丈夫、大丈夫」

 その一言が俺の心を動かしてくれるような不思議な感覚を覚えた。

 それから、渡り廊下から俺の部屋にゆっくり自分の考えを話した。

「とりあえず、留学はしたいんだな」

「異国は行って目に焼き付けたいのです」

「なら、何かしらの研究者になるとか? 政治に関わるのは難しいとしても、貿易関係はありだと思う。でも、そこは自分で考えるとして、まずは西洋語を覚えるところからだね。語学力は必要不可欠」

 元基さんの言っていることは的を得ている。俺は外国語に関しては医学科で本場の教授から学んでいる。

「医学の調査研究も評価されたんだろ? それで留学ってことにはならないのか? 医者じゃなくて研究者としてなら行けるかも」

そういえばと、思い出したかのように言われたことに耳を傾けつつ、確かにそれもアリかもしれないと考えることにした。


 結局、卒業後は医者になるわけでもなく、留学できるわけでもなく、井ノ原教授のお手伝いをするために、たまに学校に行くか、もしくは自宅で研究をしているだけという形になっている。

 研究費はそこまでないし、できることも限られてくるものだから、主に学校を卒業する前の研究を丁寧にしたものがほとんど。

 しかし、その中で論文を書き上げるのはかなり大変だった。

 それでも、自分の書きたかったものがやっと完成することへの喜びが大きかった。ただ内容的には、まだまだであるし、他の人に見せる勇気もないようなものだけど。

 でも、いつかは自分の作品を世間に見せたいと思っていた。そう思って心が強くなれるようにと願ったのであった。

 ただ、やっぱり一人でやっているせいなのか、時々孤独を感じることがあった。自分だけで作り上げる世界に浸ってしまうことがあるのだ。

 そんな時は決まって誰かと話したくなる。誰かに会いたくなって仕方がない。

 そして、一番会って話している時間は元基さんが多かった。一緒に住んでいるものあって、お互いにいい話し相手だ。

 そうやって一年が経つであろう冬のこと。雪が小さいながらも降っていた日に、とある人が俺を呼んでいると井ノ原教授が言ってきた。



 雪が可愛らしい音を奏でてる。そんな中、俺が向かわされたのは、大学の構内にある応接間。俺は久しぶりに早川さんに呼び出されていた。

 部屋に入り、礼儀正しく挨拶をすると早川さんから、「単刀直入に言おう」と言われた。真剣な表情であったので、背筋をさらに伸ばして続きを聞く。

「ツイ国に留学しないかね。君にとってもいい機会だと思うのだが」

俺は少し間をあけて口を動かした。

「ここで、決断しなければなりませんか?」

俺は、戸惑いが隠せていないだろう。声が震えていた。

「いいや、でもなるべく早くの方がいいのだよ」

彼の言葉を聞く限り、断る余地はあまりなさそうだと感じていた。

 何故なら、もう既に決まっている感じの雰囲気を出しているからだ。断っても行くしかないと言うことだと感じた。

「しかし、驚いたね。主席でここを卒業したらしいじゃないか。どこか国のやつが目をつけるであろうに」

「今はひっそりと研究したり、論文書いたりしているので」

苦笑いをしていうと

「なんというか、少し先を君は見過ぎていたんだろうな。あの時は希望に満ち溢れた顔というような、そういう顔をしていた。そして今は、なにかを求めているような感じもしなくはないが、何か悩みを抱えているようでもある」

鋭い観察力だと思った。彼は一体何者なんだとも思う程だった。

 でも、何故か悪い人ではないと感じるものがある。

「実は……医師を目指しているわけではないんです」

俺の言葉に早川さんは眉を寄せた。そして俺は続けた。

「でも、留学をしたいという思いはあって。父は医師だったものだから、医師にはいずれなると話はしていますが、時間の問題かと」

「医師が嫌になったのか?」

「まさか。でも、それは飽くまで僕の人生です」

早川さんは俺の目を見て頷いた。そして、少し考えた後、こう言ってくれた。

「なら、その道で行きていくといいのではないか? 私は応援する」

俺は彼の目をしっかりと見て言ったのだ。

「ありがとうございます」

 すると彼は微笑んでくれたのだった。それからまた話を続ける。

「それでだ。君はこれからどうする?」

「どうって……。ただ、怖くなったのです。医師はとてもいい仕事だとは思いますが。だから、どうとかは特には決めていないです。留学も今はちょっとちゃんと考えられないです」

正直に言えば、怖いという言葉が一番似合っているのではと考えたりする。この職業につくことで、患者さんの命を奪ってしまうこともあるだろう。だからこそ、命を救う側になりたいと考えたりもする。

「まあな、医師として君を留学生にさせるわけではない」

 俺は、どういうことだかその台詞で分からないでいたので、聞き直した。

「ツイ国で文化や書物に触れて学ぶことをしてほしいということだよ」

 俺は黙って話を聞いた後、質問をした。

 それはどんな理由で留学することになったかということだった。

 早川さんは答えてくれた。

 元々、早川さんは大学で教育実習を行っていた頃があったらしい。その時に、学生たちと交流を持っていたようだ。

 その中には医学部の生徒もいたということを知った。

「欧米文化を教えられる教師として、君を推薦している。本当は素晴らしい医者だと言って推薦したかったが、なんだか君はそれを望んでいないように思えたのだよ。医者になることを拒んでいるように見えるんだ。だがしかし、君の知識と技術があれば問題はないと判断したまで。それに君の実力であれば、向こうの人間を説得させることだってできるだろう」

 俺は、それが嬉しかった。ここまで信頼されているとは思いもしなかった。

「調査研究書。どれも素晴らしいかった。真面目なのだな。学校に在籍している時に書いた論文も実に良かった。評価している」

ニッコリと笑う早川さんの顔には、嘘なんて微塵もなかった。

 すぐにお礼を言った。こんなチャンスを逃すことは出来ないし、逃すつもりはなかった。


 こうして留学が決まったのだ。

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