第15話 優しさに触れる

 医術というのは、怪我人や病気を患っている人の手当をすること。医術は怪我人を治療するだけでなく、患者の心理にも触れなければならないということだ。

 医術科の先生曰く、患者さんがどんなに苦しくて辛い思いをしているのかを知らなくてはならない。

 だから、相手の気持ちを考えなければいけなかった。

 俺は、人の気持ちなんて分かっているようで分かっていないような気がする。ずっと好きなことを学んでしかいない。それしか考えていない。

 だからなのか、嫉妬に対するいじめとは呼ばれるようなこと、無視は日常的に起こっていたが、俺は俺の研究に没頭していた。

 振り返ってみると、嘲笑いや、挑発行為をされることも今まで多々あったが、入学したての頃よりは大分マシになったと思う。

 嫌がらせをしていた人たちも、他人に構う余裕が無くなったのだろう。

 医術で失敗した時も陰で笑われていたような気がするが、それに構う余裕もないほど、自分を見つめ直したかった。


 とある日の暮れ方。元基さんの部屋に行くと、ペンと作文用紙とメモ帳が乱雑に机の上で広がっていた。元々、戯曲を劇作家の知人の元に届けているとかなんとか聞いていたので、その類のものかと思って覗き込む。

「恥ずかしいから止してくれ」

そうすると、少々恥ずかしそうにしながら元基さんは言う。 

 何を書いていたかと言うと

「日記のようなものだ」

と言った。元基さんがどんな風に思っているかを知る機会になった。

 俺は、元基さんに

「文学がお好きで? 俺も書物は読む方だとは思うので」

と言ってみる。

「僕は戯曲の方が好きなんだけどね。詩はちょっと苦手だし」

元基さんは苦笑いをしながら、俺が書き留めていたノートを眺めていた。俺は気になって聞いた。

「どんな詩だったんですか?」

元基さんにとって思い入れのある詩なのではないかと思って聞いてみた。すると、俺の予想は外れて真剣な眼差しで言ったのだ。

「うん……題名は忘れてしまったんだけどね……」

それからというもの、また作文用紙にメモをし始めた。何を書いているのかが気になっていたが、元基さんが言うまでは見ないようにした。

「何があれば物語を書けますか?」

俺は興味本位で聞いてみた。ほんのちょっとの興味だ。

「そうだな、紙とペンと頭と発想とか? 伝えたいって言う気持ちとか」

俺にはまだよく分からなかった。


 俺は、今まで医学を学びながら日々過ごしていた。

 そんな毎日を繰り返していて気付いたことは、自分の体が疲れていること。医学を学ぶために睡眠時間を削り勉強をしていたせいで熱を出し、一週間学校を休ませてもらうことになった。


 血へのトラウマも、漠然としたこれからへの不安も、これからどうしたらいいのか、自分で興味があるからと飛び込んだ世界で生きていっていいのか、父のようにならなければならないのかという葛藤。

 俺は医学の道に進めば進むほど、様々なことを考えていた。


 休学して翌日、朝日が昇ってすぐくらいのことだった。

 下女だろう。そう思って顔を扉の方に顔を向けると、元基さんが水を持って入ってきた。

「薬なら、自分で飲めます」

俺がそう言って起き上がる前に、元基さんは

「少し話そう。光介は、ここに来て数年経ってけど、無理させてしまっているような気がする」

 俺は、はっとなる。

「そんなんじゃ!」

 俺は弱々しいらしい。

「そんなんじゃないです」

 強く否定する。

「光介」

元基さんは、俺の目を見て言う。その目は真剣だった。

「無理をしてはいけないよ。自分のペースでいいんだ」

元基さんのその言葉は、俺の心の奥深くに突き刺さった気がした。

「はい」

俺は小さく頷いたのだった。

 どうしてこんなにも優しい人ばかりなんだ。家族も、鈴郎さんも井ノ原教授も。この人たちは、どうして俺なんかのことを心配してくれるんだ。

「あのな、医学のことについては僕は何も言えないし、僕の知ってる医学についての知識が光介の助けになってあげられることなんて、何もないから。ただな、光介の助けになりたいよ」

俺の頬に手を当てて優しく微笑んでくれる。涙が出そうになるが、俺は唇を噛んで耐える。

 どうして、みんなは俺を気にかけてくれて、大切にしてくれているのだろう。なんでそこまで優しくできるのか。俺にだって分かる、きっとそれは……。

「優しさを返せないかもしれない。俺に何も無いってこと。だからせめて医学を頑張りたいんです」

「そうじゃない」

俺がそう答えると首を横に振った。

「違う。違うんだよ」

 俺の目から溢れる涙が止まらない。衝動的に出てきた涙は止められずに起き上がろうともするが頭が痛み起き上がれない。俺はこんなことで、また皆に迷惑をかけてる。何もかもが嫌になってしまう。

 自分だけ取り残されたように感じるのだ。周りに置いて行かれる恐怖は、いつまで経っても消えてくれやしないのだろう。それが悔しくて堪らなかった。

「血が、怖くて」

「血?」

「実習で失敗したんです。それから、怖くなりました」

 それから、わけを話すと、元基さんの目が点になっていた。俺だって馬鹿だと思う。落ち着いていればできることだった。医学生が何でそんな失敗をするんだと思われるだろうか。

 でも、これは本当の事なのだ。今まで必死に抑え込んでいたものを一気に吐き出してしまった気分だ。

「教授にしっかりしろって怒られて、それからお偉いさんが俺を訪ねてきて」

吐き出してスッキリするかとも思ったが、ただ涙が止まらずに出てくるだけで後はどうにもならずに、自分はまだ幼い子供なんだと過信していた俺が恥ずかしくなった。知識を知っていたって実践出来なきゃ、お笑いものだ。

 元基さんに何を言われても反論の余地もないと思っていた。だが、元基さんはこう言ってきた。

「そういうことがあって、今は血を見ると怖いって感じちゃうんでしょ?」

確かにそうだ。あれ以来は血を見て吐き気を覚えてしまうことがある。

 俺の涙を拭ってくれながら元基さんは

「今ここで泣けるんだったらさ。多分まだ大丈夫だよ」

俺は、元基さんの言葉を聞き流さずに聞き入れることができた。

「頑張っていれば、人は必ず見てくれている」

 元基さんは、涙が止まらない俺の頭を撫でてくれる。誰かに触れられる温かさを初めて知ったような感覚がした。小さい頃に父や母が頭を撫でてくれた感覚に近い。

 この歳になって泣くことなどなかったはずなのに、涙は止まることを知らずに流れてくる。

 元基さんには申し訳ないことをしたと思う。それでも、こうして泣いてしまった方が良いと感じた。

 その後に、元基さんは俺の体を心配してくれていた。

 俺は、元基さんが俺を看病してくれたので、俺もまた何かあった時に同じようにしたいと言った。

「困った時はお互い様」

元基さんの笑った顔は、まるで太陽みたいだった。

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