《101》それが、必要なら。





 静かだ。


 岩肌の壁、その上部に明り取りのために設えられた丸い穴から、

 正午前の柔らかな陽が差し込んで、温かく包んでくれる。


 ここへ来て、ニ時間程経っただろうか。

 リリィは片時も緩める事なく、気を張り続けている。



 ナナの父親、グラードが魔晶石に込められた術式を起動しようとした

 その刹那に、リリィはほとんど無意識に行動に出ていた。


 そうすべきであろうか、否か。

 考える暇も無かったのだ。彼女はただ内に沸き立った感情に従って、

 出来るかどうかも分からない転移霊術を試みた。


 実際、それは幸運にも上手く行った。

 先日賢者のそれを見て、その組成を意識してじっと観察していたとは言え、

 間違いなくそれは尋常の域を超えた術理であった。


 それをぶっつけ本番で、しかも勇者の因子を抜きにトレースしてのけた。

 未だこれまで、誰も知らなかったリリィの天才的才覚、その一端が初めて

 衆目に披露されたのだった。彼女自身も含めて。



 けれど、そんな事はどうでも良かった。

 転移が成功した事、そして今もひとまず追手の無い事、

 それさえ彼女はまったく安堵を得られないでいる。


 逃げ出して、

 彼女を連れ出して、


 そして、今自分に出来る事など何も無かった。


 魔王の姿を確認してすぐ……

 いや、エトラの話の途中でもいい。


 さっさと、あの場を離れるべきだった。


 もはや詮無い後悔が、ずっとリリィを苛んでいる。



 彼女が咄嗟に転移先に選んだのは、クロウやウサモフ達の根城だった。


 突然の来訪に、さすがにクロウもウサモフ達も驚いていたけれど、

 リリィの傍らで蹲るようにするナナの、ただならぬ様相に、

 彼らは言葉少なくリリィの言動に耳を傾ける事にした。


 耳を塞ぐように頭を抑え、きつく閉じた目端から涙を零したナナ。

 見た目に分かるくらい、はっきりと身体を震わせて何かを必死に堪える姿。


「ごめんなさい、事情はちゃんと説明しますから……

 どこか、静かに休める場所があったら、お借りできますか?」


 悲痛な顔をしたリリィの嘆願に、彼らは二つ返事で頷いた。

 プニャーペが意識して優しい口調で言う。


「私達は出るから、そこのクロウのベッドなり椅子なりを使いなさい。

 人間のお客を想定した場所って無いのよ……。ほら、クロウ」


「うん、僕らは広場にいるから、落ち着いたらおいで」


「……ありがとう、ございます」


 リリィは深く頭をさげて感謝を伝える。


 いいよいいよ、とクロウは微笑み、通り過ぎざまリリィの肩をポンと叩く。

 そして彼らは説明も要求せず、彼らは石扉を開けて退出していった。


 リリィはナナの肩を抱き、彼女をベッドの縁に座らせる。

 すると、ナナは身を屈めてリリィの胸に弱々しくしがみついた。

 抱き込むように、手を彼女の頭と背中に添えるリリィ。


 ふわふわしたナナの髪を、丹念に、確かめるように撫で続ける。

 背中をゆっくりと一定のリズムで、ぽん、ぽん、と優しく叩く。


 言葉を探した。


 でも、きっと言うべき事などないとも思った。


 ナナは、傷つき、混乱し悲嘆し――そして絶望している。

 その形、色、感触が、リリィには伝わっている。

 リリィは多くの人より、そういったものをよく知り、敏感なのだ。


 父が魔王であった事。

 その父が、そして母が、産まれて間もなく死ぬ事を前提として、

 娘に子をもうけさせようとしているという事実。


 それだけで、絶望するには十分に過ぎるけれど。


 彼女の辛さ、その根っこにあるものは……きっとそことは少し別。


 ナナは、優しいから。

 あんな状況でも、あんな突然の告白でも、すぐ察してしまうのだ。


 父も母も、そんな事本当は断じて受け入れられるはずが無いと。

 娘の子を差し出すなんて、ましてやその命を捧げるなんて、ありえない。


 ありえない事を、それでも彼らは受け入れるしかなかったのだ。


 父も母も、当たり前に信じているナナにとってそれは、

 ごく当たり前……当然の結論だった。


 なぜ受け入れなければならない?

 そんなのも決まっている。


 自分のためだ。

 娘と娘の子を天秤にかけて、娘を選んだ。


 選ばざるを得なかっただけなのだ。


 その帰結が、今なによりもナナを苦しめている。

 父も母も、何も悪くない。

 自分のせい。自分のせいなのだと。


 その絶望が、今ナナの心を裂こうとしている。

 リリィには、それが我が身のように伝わっていた。


 ……ナナだって、何も悪くはないのだ。

 でもその言葉は、きっと意味を持てない。


 リリィは何も言わず、ただじっと大切なその子を抱きしめる。

 微かでも何かを伝えようとするなら、もうそれくらいしか残っていなかった。



 …………


 ……



 正午を回る頃、ナナは……少なくとも外面上は、落ち着きを取り戻した。

 ただ表情は暗く、いつもの少女の朗らかさは見る影もないままだが。


 そんなナナが、リリィに言った。


「……すまないの。クロウに、事情を説明しないといけない。

 お願いしていいか、リリィ」


 いつもの口調を意識しながら、それでも弱々しさが滲んでしまう。

 リリィは、その健気さにどうしようもなく辛く胸が締め付けられる。


「うん……分かった。すぐ戻ってくるからね」


「ん……ごめんな」


 謝らないで、とリリィは思う。

 けれどそれをあえて飲み込んで、リリィは言葉以外を手渡した。


 そっと、頬にキスをする。

 そして、なんとか微笑みを浮かべた。


 かつてミミとのお別れした時の、ナナの言葉を思い出す。


『リリィ、幸せになって』。


 背中を、ぽんぽんとさすってくれた。


(あの時あなたにもらった物に、私まだ……なにも返せてない)


 弱気になってはだめ、リリィ。

 きゅっと唇を結ぶ。

 なるもんか、とリリィは心の中で自分の頬をぴしゃりと打つ。


 例え相手が誰だろうと、どんなに強大だろうと。

 それこそ、神様だろうと。

 この子を好きになんかさせない。


 ナナの私。

 私のナナ。


 私の、恋人。


 誰にも、渡さない。





「ふむ。事情は、大方理解したよ」


 リリィに事情の大筋を聞き終えて、クロウは数度頷いた。

 顎をかき、天井を斜めに見上げる。


「――そうか。ついにというか、事が動き出したんだね」


「それにしても……なんてこと。産まれたばかりの子を犠牲になんて」


 プニャーペが、悲愴な様子で呟く。

 クロウが視線を下げて、釈然としない顔で述べる。


「しかし、解せないな。なぜ死んでしまうんだろう?

 ナナとリリィの異能を併せ持った子に魔王の因子を与える。

 こうして生まれる魔王をもって黒幕が成そうとしている事は、

 ほぼ間違いなく“遍く魔族人族に、【巡悔の揺籠】を試みる"事だ」


「でも死んでしまったら、元も子もないわよね」


「そう。……もしかしたら、その赤子から能力を簒奪するつもりなのか?」


「え……? さんだつ?」


 リリィがクロウの言葉に首を傾げる。


「奪ってしまうって事。そのエトラという魔族は“固有能力"も奪えるのかな。

 であれば、実際はそれを手にしたエトラをこそ、魔王にするつもりなのかも」


「なんでその子自身ではダメなの? わざわざ移し替える意味は?」


 大きな身体をもふもふ揺らしながら、プニャーペが問う。


「分からない。ただ、想像した事がひとつある。

 エトラがもし、としたら……?」


「……それは」


 リリィはクロウが述べたそれに目を見開く。

 もしそれが可能だとしたら……


「ナナの異能を【A】、リリィのを【B】。それを掛け併せて【AB】。

 すでにとある【C】の異能を所持している者に、この【AB】を譲渡する。

 そうすれば、その者は【ABC】の能力を保持する事になるのかもね」


「であれば、そもそも能力を奪う異能の持ち主が、エトラとも限らないわね。

 エトラが誰かに賢者の霊術転移を貸与された可能性もあるもの」


「そうだねぇ……むしろその可能性は高いだろうね。

 その簒奪能力は間違いなくキモの一つだ。それが直接ナナ達の前に

 姿を現すってのは、ちょっとリスクが高いよね、確かに。

 特にあの場のリリィは、彼女たちにとってかなりリスキーな存在だ」


 リリィも同意する。


 ただ、それでも自分が同席する場で彼らが構わず事を進めに来たのには、

 理由に心当たりがある。魔王の正体がナナの父親であったからだろう。

 魔王が彼でなければ、確かに問答無用でリリィは魔王を叩く心積もりでいた。

 リリィは動けなかった。彼らは、当然そこを織り込んでいたのだろう。


「……でももしそうならば、少し光明が差すというものだね」


 クロウが言う。

 その言葉に、もちろんリリィは驚く。


「こうみょう? 何か良い考えが?」


「うん……恐らくなんだけど、僕はその【C】に心当たりがある」


「えっ……ほんとですか?!」


 ああ、とクロウが微笑んで頷く。


 諦めない、と思いつつそれでも現状に出口を見いだせなかったリリィは、

 クロウの申告と微笑に文字通り光が差したように感じた。


 しかし。


「待ちなさいよ、クロウ。それってまさか――じゃないわよね?」


 プニャーペが、クロウをじっ……と睨んで言った。


「え……?」


 リリィもその目線を追って彼を見た。


 一人と一匹の視線を受けて、頬を掻くクロウ。


「まぁ……そうだね。たぶん……いや、その可能性は大分高いと思う」


「そう……それはいいわ。ただ、そうだとして。

 それが分かっただけで光明なんて言わないわよね?」


「……鋭いね、ハニー。さすが」


「はぐらかさないで。あなた――死ぬつもり?」


 プニャーペが責めるような口調で、言った。

 リリィは思いもよらぬそれに、絶句する。


 クロウはバツが悪そうに、苦笑しながら呟く。


「……そうしたいのは、山々なんだけどねぇ」


「っ……あなた……!!」


「まぁ待ってよハニー。忘れてないだろう?

 僕は死にたくても死ねないんだよ」


「ど、どういう事ですか?」


 さらに驚きを重ねて、すぐにリリィが尋ねる。


「文字通りさ。ちなみに、ナナも僕と同じ。死なないんだよ。

 いっとき絶命はするけど、その後はほら。ウサモフになって復活するんだ」


「あれは……一度だけじゃ、ないんですか?」


「そう、何度でも……らしいね。僕はね、これまで数百年生きてきたんだけど、

 その中で3回だったかな……死んでるんだ。でも、ご覧の通りさ」


 ゆるく両手を広げるクロウ。


「だから、仮にさっきまで喋ってた事が正解だったとして、そして

 僕がその【C】にあたる者だとして。事は簡単ではないんだな」


「……例え出来たとしても、ダメよ。そんなの、私が許さないから」


「ふふ。……ありがと、ハニー。だけどさ……」


 クロウは、リリィを見る。

 そして次にその視線は、部屋にいるはずのナナの方へ。


「僕は、もう十二分に生きた。本来はおじいちゃんどころじゃない。

 もし譲るべき席があって、それが彼女らのような子供達ならね……

 僕は喜んで、今をと受け入れるよ」


「クロウ……」


 プニャーペのふわふわした毛並みが、力なくへたる。


 リリィは、何と言ったらよいか分からず……

 けれど、考えることだけはやめない。


 そう、考えて、話を聞いて。

 そうしたらこうして、色々糸口が見えてくるのだ。


 クロウを犠牲にして良いとは、もちろん全くもって思わない。


 けれど、リリィは。


 その胸に、ひとつ誓った事があるのだ。



 ――ナナを、護る。


 そのためなら、きっと。


 私は、冷たく、残酷にだってなれる。

 なってみせる。


 ナナが選べないものを、

 私が引き受けよう。




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