《100》裂けてしまう。





 開いたドアから男が一人入室してきた。

 中位魔族のその男の名は、グラード=ニーヒル。


 ナナの、父親であった。



「……とと、さま?」


 唖然としてナナは呟く。

 彼女には、目に映った姿……その意味する所が、即座に理解できない。

 彼女はその父の姿に、にこりと微笑もうとさえした。

 

 一瞬で、ナナの頭と心はこれ以上無いほど混乱する。


「……ナナ様」


 スラルが振り向かず、視線を維持したままナナの名を呼ぶ。

 彼女とグラードの間に立ったスラルもまた、衝撃を受けてはいたが、

 しかし彼はナナ程取り乱したりはしない。

 取り乱すわけにはいかない。


 同様に、リリィも即座に気を整え、落ち着くように務める。

 ナナの痛ましい心中を思うが、自分がしっかりしなければ。

 自分がナナを、護るのだ。


 二人が瞬間的に動揺を抑え込めた理由は、他でもない。

 ナナを想う故。何をおいても、それがまず第一なのだから。


「ほんとうはね」


 父が……グラードが、静かに言った。


「本当は、明かさずに事を進めたかった。

 けれどいずれは知れる事だし、何よりナナに対して不実でいるのは

 自分が許せなかったんだ。

 僕は逃げてはいけない。君の失望も、あるいは憎しみも」


「……憎、しみ? ととさま、なにを……」


「エトラ、いいね? 僕は隠したくない」


 グラードは、エトラに何かを確認する。

 エトラは溜息をひとつ吐いてから、頷いた。


「私は出来れば、知らせずいたかったのですけど……

 スラルさんに痛い所を突かれてますし、いいでしょう。

 お任せしますよぅ」


「察しの通り、僕が新たな魔王。グラード=フォビア=ニーヒルだ。

 そして君らの言う通り、の目的はナナとリリィ……

 君らの間に産まれる子をすることだ」


「なぜ、わざわざ私達に新魔王に関する情報をお与えに?

 それがあったから、我々はこうして今人間領にいるのです。

 私達をこのように人間領に行かせたのは、貴方様自身と言えます」


 スラルがグラード……彼の義父に問う。


 グラードは、少しだけ答えを躊躇ったが、やがて言った。


「先ほど君は問うていたね、スラル。魔族領で権能に曝す事で、

 他に何をナナに強制しようとしているのか、と。

 それはね……“記憶”だよ」


「記憶……」


「ナナ、そしてリリィ。君たちの記憶に処置を施すつもりだった。

 元々は君たちの子が産まれてから、施行するつもうりだったが……

 けれど私が具申したんだ。いっそ、もう今すぐにでもそれを、

 処置をしてしまって良いのではないかとね」


「記憶処置……天秤卿リブラ殿ですか」


「そうだ。スラルは一度、リリィの記憶の事で天秤卿に打診しているね。

 あの時失敗に終わった要因は知っての通り、勇者の因子の存在があった。

 けれどそれは、今ならパスできる。勇者ではない今なら、リリィの霊力は

 魔族領でしっかり減退する事も確認出来ている。問題は……」


 グラードは、娘を……ナナを見る。


「因子以前に、記憶への干渉に関しては一つの問題がある。

 それはスラルやナナは知ってると思うけど、対象がその記憶をそもそも

 忘れたくないと思っている、それもより強く願っている程、そこに手を

 加えるのが困難になる、という事だ」


 どうでも良い記憶、忘れてしまいたい思い出。それは簡単に消せる。

 しかし忘れたくない思い出は、簡単には消せない。

 本人の心が、それを抱き込んで守ろうとするから。


「ナナ、きみはパパやママを忘れたいかい?」


「なにを言って……、そんなの……忘れたいわけないでしょ?

 そんなの当たり前……ととさま何を……分からない、ねぇ……」


 混乱し、ナナは泣きそうになりながら父に応える。


「うん……そうだろうな。だから、人間領に行かせたんだ。

 そしてさらに都合が良い事に、ここエルフ領であれば、ナナの魔力的な

 抵抗力は大きく弱体化している。

 後はここで、君が記憶をなってくれれば良い」


「……グラード様、お考え直し下さい」


 スラルが、割って入る。

 その表情には、はっきりと悲痛な思いが浮かんでいた。


「何か察したかい、スラル? きみは本当に聡いなぁ……悲しい位。

 でもそれは聞けない。これは僕と……メルが背負った罪科なんだ」


「しかし、それは……エゴです。ナナは……」


 悲愴を浮かべ、スラルは言い縋ろうとする。

 しかし、グラードが言ったように、スラルは悲しいまでに察しが付いていた。


 ――たぶん、それしかないのだ。


 一度傷つける選択をしなければ、ナナを守れない。

 スラルは、言葉を見つけられなかった。


 そしてリリィ。

 彼女もまた混乱の中にあったが、ひとつだけ。

 今のグラードの顔を見て思った事がある。


 この顔には見覚えがある、と。


 これは……そう、あの時のものと同じだ。

 自分と友達をやめると言った、あの時のナナの顔と、同じ。

 ぎゅ、とリリィはナナの手を握った。


「……リリィ」


 弱々しい声で、ナナがリリィを呼ぶ。

 握り返す手も、言い知れない不安に震えていた。


「ナナ、よく聞きなさい」


 グラードが、一歩進み出て言った。

 いつもの穏やかで、柔らかな声とは違う。

 父の声音は、ナナが聞いた事のない……重く張り詰めたものだった。


 そして、父は怯えるように身を竦める娘に、


「――ナナとリリィの子は、産まれて間もなく死んでしまう」


 そう、言った。



「…………」


 沈黙。


 誰も、何も言わない。


 ナナの手を握るリリィの顔も、時が止まったように固まる。

 スラルは後ろを振り向きかけ、しかし二人の顔を見れない。


 ナナは、ただ茫洋とした顔で、口を僅かに開いて……

 しかし、やはり何も言わない。

 言えない。


 やがて父が微かに目線を下げて、続ける。


「そして僕も、メルも、その事を知った上で、それを受け入れた」


「――どうして」


 ナナが、か細い声で、問う。

 その「どうして」には、二つの問いが混ざっている。


 どうして、子供が死んでしまうの?

 どうして、それを二人が受け入れたの?


の決定は、覆らない。我々魔族は、それに決して逆らえない。

 避け得ぬ事ならば、僕もメルも、ナナを選ぶ」


 父が答えたのは、後者の「どうして」に対してだった。


「あの方?」


 スラルが尋ねる。


「答える事は……出来ない。それは許可されていないんだ」


「その何者かが、貴方を……いえ全ての魔王を選定したのですね?」


「スラル、僕は以降、些細な質問にも答えないだろう。すまない」


 スラルは、ぐっ……と奥歯を噛む。

 義父らはすでに、最悪の選択を突きつけられていたのだ。


 ナナという愛娘と、これから産まれてくる……愛孫になるはずの子と。

 人質交換という体の、その実答えの分かりきった選択を。


 スラルがもう一度口を開きかける。


 しかし、その時、後ろで。



「……ぅ………、ぅぅ"……?」



 ナナが、呻く。

 皆が、彼女を見た。


 頭を両手できつく抑え、青ざめたその表情は信じ難いものを

 見たかのような、何とすれば良いのか分からぬと言ったもので。


 リリィもまた強烈に目眩を覚えながら、それでも何とか気を繋ぎ、

 ナナの手を握ったまま必死に己に何事かを、頭で言い聞かせている。


「ナナ……大丈夫……?」


 何とか、それだけ声を掛ける。


 しかし、それを遮るように、父は続けた。


「僕らは、見殺しにするんだ。君の子を。僕らの子孫を」


 びくん、と大きく身体を震わせるナナ。


「……ひ、……ぅ…………やめて……もう……」


「そして、君たちの記憶からすら、その子を抹殺しようとしている」


 重なる言葉たちが、

 ナナをどんどん、圧し潰していく。


「……ととさまぁ…………やめてぇ……!!」


 もう、聞きたくない。


 そんなの。


 ととさまの口から、ききたくない……!!


「いやだ、そんなの嘘……!! 違う、全部ちがう!!」


「違わないんだ、ナナ」


 父の冷たい言葉。

 耳を塞ぎたい。


 いやいやするように、かぶりを振ってナナは呻いた。


 だって、


 そんな残酷なはなしが、あっていいはずがない。


 父が。


 母が。


 そんなの、


 受け入れられない。


 裂けて、しまう……


 胸が、頭が――心が裂けてしまう……!!



 ついにしゃがみ込んで耳を塞いでしまうリリィ。

 その姿に父の表情は一瞬歪む。


 しかし、すぐに浮かびかけたものを消し、

 父は懐から手にひらに収まる位の小さな晶石を取り出した。


 それが何なのか、スラルもリリィも、見当が付いた。

 黒く昏く、しかしどこか優しい仄明かりを放つその魔晶石は……

 恐らく、天秤卿によって齎されたもの。


「……リブラ殿の編まれたこれは、極めて精緻な術理で成っている。

 安心しなさいスラル、リリィ。君等との思い出は少しも忘れたりしない。

 最低限、消すべきものだけを消してくれる」


 ふっ、と翳った笑顔を向けるグラード。


「処置後の記憶に、整合の取れない部分はもちろん出てくるし、

 恐らくそれが少なからぬ混乱を招くだろう。

 君らが……特にリリィ。傍にいて、励ましてやってほしい」


「…………」


 スラルが、あまりに複雑な思いに歪んだ顔を向ける。

 しかし、ナナの事を思った時、彼は身体を避けないわけにいかなかった。


 父が、ナナの傍に立ち、静かに膝を折る。

 そして、手にした晶石を掲げようとした――


 が、その時。


 突如、ナナの足元が眩く光った。


 いや、ナナだけではない。

 光は、リリィの足元にも及んでいた。


「――!! いけない、」


 壁際にさがって静観していたエトラが声を上げる。


「グラード様、せめてそれを――」


 言われ、グラードは魔晶石に封ぜられた魔術を起動しようとする。


 しかし刹那、それを晶石ごとリリィが電光の如き速さで奪い取った。

 彼がしまったと思う間もなく、


 リリィ、そしてナナの姿が一瞬立ち上がった光の柱と共に――


 ――消えた。



「ウソでしょ……? えぇ、そんなのインチキぃ……」


 エトラが、二人の消えた空間を睨んで力なく言う。

 グラードは呆然と、晶石を掠め取られた手を見ている。


 スラルは……


 ただ、リリィに感謝して、


 そして、やはりナナの事を思い、痛む胸をおさえた。




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