《93》スラル、再び誓う。





 そよぐ葉の隙間から、柔らかく木漏れ日が届いている。

 それを見上げながら、スラルは久しぶりに自分の気が緩んでいる、

 と感じていた。


 自分たちを取り巻く状況はもちろん、予断を許さないものだけれど。

 一昨日以前の、常に重くもったりとした靄が心を覆っていた日々と

 比べたら、その心中は晴やかと言って差し支えないものだった。



 昨日、パスラの街上空から、その姿を見つけた瞬間。

 彼は一瞬、飛行魔術の運用が切れて、高度を“がくん”と落としかけた。

 あの時の衝撃は、言葉に尽くせない。


 ナナが、生きて帰ってきてくれた。

 目の前のその現実に、スラルは実のところ誰より怯えてさえいる。


 ラナンキュラスも、ナナの父も母も、そしてリリィもだけれど、

 こんな奇跡としか言えない現象が、果たして本当に夢でないのか。

 そんな思いに、スラルは一日経った今でも怖くて仕方がなかった。


 つまりそれだけ、彼はナナの生還を喜んでいるということ。

 そして、想い人のリリィと通じ合ったらしいのだから、

 執事として、あるいは彼女の義兄分として……

 こんなに嬉しい事は無い、と思う。


「魔族とはそういう顔もするのだな」


「……はい?」


 並んで歩くルーラリアが、横目に彼を見ながら不意に言った。

 その言葉に、スラルは即座にいつもの無表情に戻った。


「魔族に対し、ステレオなイメージをお持ちのようですね」


 スラルが前を向いたまま言う。皮肉のつもりではない。


「ふん……少なくとも魔族領からわざわざ出張ってくるような者は、

 基本我々に対し悪意ある顔しか見せんのが常だったからな」


「魔族は魔王様の御心に沿って、その意識の在り様が大きく変わる。

 そして魔王様は歴代ほとんど例に漏れず、他種族に対して強く

 敵愾心や憎念を抱いておられました。恐らく、魔王として覚醒を見た

 その時に、そういった想念が宿命付けられているのでしょう」


 故に、ナナのようなものが魔王となって以降も、変わらず人間に対して害意を

 持つ者は、当人自体が人間種に対して遺恨を抱いている可能性が高い。


「しかし、あのナナという者は違うと?」


「ええ、違います」


 きっぱりと、スラルは断じる。

 そこにルーラリアは突き放すような力強さを感じた。


「あの方は、これまでの魔王様とは様々に違いすぎる。

 もしかしたらこの方が魔王である内は、本当に勇者は現れないのでは

 ないか、と思ってしまった程に」


 目を細めてスラルは、『怖いから密やかに暮らしていくのじゃ』と

 スラルに宣言した日の幼いナナの顔を思い出している。


「……その話が本当なら、実に全く訳が分からん魔王だな」


「ただ、とても良い子です」


 魔王に、良い子とくるか。と思わず軽く吹き出すルーラリアだが、

 スラルのどこか穏やかな表情と目を見て、思った。


 ……まるで、兄か父親のようだな、と。



 そうして雰囲気ほど無口ではない魔王の執事と話をしながら、

 やがて彼女らは女王……が宿る神木の元に再び戻ってきた。


「フロレンス様。こちらの魔族が……」


『はい。お話は聞いていましたから、あの、大丈夫です。

 ええと……スラルさん?その、こんにちは……』


 相変わらずおどおどした口調。

 スラルは大樹のどこに視線を向けるべきか少し迷いつつ返す。


「こんにちは。聞いていた、というと?」


『あっ、そのごめんなさい、盗み聞きするつもりは……

 無かった事はないんですけど、えと、女王としてやっぱり

 聞いておかないわけにはいかなかったというか……はい』


「いえ、問題ありません。むしろ改めて説明する手間が省けます」


『あ、ありがとうございます……。

 エル・フローラ領内であれば、私はどこであってもすぐに

 聞き耳を立てる事が出来ますので……。お行儀が悪いでしょう?』


「女王様、ではフローリア様の事は……」


 ルーラリアが、少し躊躇いがちに女王に尋ねた。

 スラルはちらりと彼女を見る。


『それは、心配……ですけれど。でもあの子が決めた事なら、

 私に何か言う権利はないですし……』


 控えめに述べる女王の言葉に、スラルは少し違和感を覚える。


「失礼ですが、女王と聖女の関係とは?」


「……女王様は、フローリア様のお母上だ」


 ルーラリアの応えに、なるほどと頷く。

 そして、なおさら女王の態度が引っ掛かった。

 スラルは返答は然程期待せずに尋ねる。


「確定ではないとは言え、魔王討伐に参画するという事ですから。

 さぞ心配の事と思いますが……ですが、それに対して貴女が

 言う権利が無い、というのは?」


「……おい。あまり、余所者が内情に首を、」


『いえ、いいんですルーラリアさん。

 あの、スラルさん……よろしければ、少しお話を聞いて頂けますか?』


 配下の苦言を遮って、女王が改まった様子で言う。

 ルーラリアは驚いた様子で、女王の大樹を見た。


「ええ……どんなお話でしょう」


 スラルは表情を変えず、少しだけ居住まいを正して聞いた。



『私とあの子は、一昔まえから、その……わだかまりがあって……。

 原因は一方的に私にあるのですけど、私はフローリアからあまり

 良く思われていないのです』


「つまり、親子喧嘩だとか、そういった事ですか?」


『いえ、喧嘩というか……。

 スラル様やナナ様ご存知でしょうか、人間領には古くから常に、

 人種に対する差別があるのですが』


 スラルは少しだけ瞼をぴくりと動かすが、ひとまず何も言わない。


『かつて、百五十年くらい前まででしょうか。

 元々人の世で最も強くその差別を向けられていたのは、我々エルフ族でした。

 今でこそ人族の一つとして数えられていますけど、昔はそれは苛烈な扱いで、

 それこそ人として扱われていないと言える程でした』


 それは、スラルも知識としては知っていた。

 エルフ=奴隷というのが常識でさえあったらしい事。


「その風向きが変わり出した要因は、当時エルフとして初の聖女として

 覚醒をみたフローラ様の存在です。フローラ様が聖女として戦場に立ち、

 初めて人々にエルフ族の卓越した霊素運用技術が認識される事となった」


「確かにエルフ族は、人間族と比べて生来、霊術の素養が高い。

 聖女フローラによって、勇者不在の間の対魔族防衛は飛躍的に損害を

 抑える事が出来たのでしたね、たしか」


「はい。特に魔物に対する特攻的な結界術や破魔術が発揮されました。

 その事をきっかけに、エルフ族に対する風向きは大きく変化したのです。

 けれど……古くから続いた因習は、そう簡単に覆るものでもありません」


 女王の声の調子が明らかに暗くなっていくのをスラルは感じる。

 だからというわけではないが、彼は続きを引き受けて話した。


「我々が知識の範囲では、それ以降ですね。

“卑人”という言葉が人間達の間で使われだしたのは」


 スラルの言葉に、ルーラリアも表情を暗くする。


『……そう。エルフ族の有用性が知られてから、急速にそれは広まりました。

 表だって申し合わせた者は無くとも、確実にその風潮は芽吹いていった。

 虐げられる者、下に置かれる者が必要なのだと、世論は暗に頷いていた。

 その矛先が向かったのが、彼らなのです』


「言うなれば、かつてのエルフ族は差し出したのだ。

 彼らが理不尽に貶められていくのを、先人達はすべて黙認した。

 そうする事で、自分や家族、仲間を守ろうとした」


 ルーラリアが、苦い物を噛み潰すような顔で言った。


“自分たちの代わりに、新たに虐げられるものを”。


 人間には必要なのだろう。

 無条件に、自分より劣るとされている誰かが。

 歴史が語るそれを、魔族であるスラルは全く共感出来ないが……

 その動機を言葉にするだけなら、理解は出来た。


 醜いと言えば醜いし、

 哀れと言えば哀れな種族だ。


『以降私たちは地位と平穏を手に入れました。

 薄灰色の肌をした人々を生贄に捧げることで。

 そしてその罪過さえ……多くのエルフ族は、忘れてしまっているんです』


「それと、貴女達母娘の関係と、どう繋がりが?」


「フローリア様は想い人、フレイ様の妹君をその手に掛けている。

 雑多な事情はあるが、大元は妹君が卑人であった事に起因している」


 スラルの疑問に、ルーラリアが答える。


 なるほど、とスラルは即座に要点を想像した。


「百五十年前に、貴女はすでに世に在ったのですね?」


『はい。私は当時、聖女様のお付きでした。

 それ故に、少なからずエルフ族として発言できる立場にありました。

 私もまた……家族や友人のため、卑人を作り出した者の一人と言えます』


 エルフ族は、個人差は大きいが非常に長命な者が多い。

 病気や外傷には弱いが、環境次第では数百年生きる者もある。


『かつてあの子は自ら記憶を封じて、私の事も忘れ去っていた。

 あの子の苦しみは……ううん、それだけじゃない。今の世の中に

 たくさん植え付けられている悲しみや絶望は……

 ある意味、私達が見てみぬ振りを続けているせいでもあります』



 ……深く悲しみや悔悟を滲ませた声音が、スラルに届く。


 彼女らは、勇者……リリィの姿を見て何を思っただろう。

 卑人から生まれた勇者は、たしか史上初の事だったはず。


 女王もルーラリアも、先程談話室で行った説明の中で、

 かつて魔王ナナとそれを継いだリリィが採った選択と、

 その顛末をすでに聞いている。


 彼女らの胸中を少し想像するが、

 けれどやはりスラルはナナの事を思った。


 新たな魔王の件に一時隠れたが、ナナがかつて苦心したその問題は

 今も当然続いているのだ。


 ……あの子の義憤は、再び彼女を動かすだろうか。


 きっと、そうだろう。


 人の、根源的な悪意。

 改めて、如何ともし難いと思う。


 それでも、あの子は目を背けられない。

 あの子の目はまた、真っ直ぐそれを見るだろう。


 スラルは、本当は。


 ナナに、もうそんなもの忘れて欲しかった。



 …………



 そしてスラルは改めて考える。


 彼女が生還した事や、勇者が心を取り戻した事。

 全てがただの、運命の気まぐれだとは到底思えない。


 これから、ナナとリリィの二人に何が待つのだろう。

 そしてそこには、誰かの意志があるのだろうか?



 ナナを、守る。


 果たせなかったはずの約束を、

 今度こそ果たしてみせよう。


 スラルは、彼女がいるはずの方向を見て、強く誓った。




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