【86】夢あるいは追憶。素敵な目覚め。





 私はひとつの街を見下ろしていた。


 それなりに大きい街だと思われるが、その全景が視界に収まっている。

 曇天の元、私は随分空高く浮かんでいるようだった。


 やがて街中、そこかしこから、紫色の靄が滲み出す。

 この風景がキャンパス上の物であれば、まるで紙に染み出す色水のよう。


 じわじわと、けれど決して緩慢ではなく、みるみる内に。

 街並みを薄紫色に染め上げてゆく。


 誰かの右手が、その淀んだ風景に向けて伸ばされた。

 それが自分の手だと一寸分からなかったのは、腕を上げる感覚がまるで

 無かったのと、そもそも私は腕を上げようなんて思ってもいなかったからだ。


 勝手に突き出されたその手が、ぼぅ……っと淡く光る。

 黒く燻る、とても不吉な光。


 その手を、やはり私の意志と関係なく、ぐっと握り込んだ。


 しばらく、そのまま。


 そのうち、眼下の街を広く埋めていた紫色の靄が、少しずつ

 消えていくのに気付く。


 所々で、まだ靄は小さく残っていたけれど、

 先程までのように街中を染め上げんばかりでは全然なくなった。


 その一連が、何を表しているのか、知っている。


 あの紫色の靄は、そこにいる人間達から立ち昇ったもので。

 それがこうして晴れていったのは、靄の元が死んでしまったから。


 後に残っているのは、小さな靄しか生み出さなかった人間だけ。


 私は、自分の手のひらを見つめている。

 小さな手だ。

 幼い少女の手。


 その手を見た時、ようやく理解した。


 これは、むかし。

 いつか見たもの。



「……素晴らしい」



 不意に、誰かの声。


 いつかの私が声の方へ振り返る。


 けれど、そこに誰かいるのが一瞬見えたその時、

 視界が急に、閉ざされてしまう。


 真っ暗になった。

 けれど誰かの気配がそこにある。


 その闇の中で、誰かが続けた。


「もうずっと、忘れ去っていたの。

 自分が何を求めていたのかさえ……忘れた事さえ忘れようとしていた」


 誰かが、たぶん、わたしに。

 話しかけている。


「自分が何のことのない、ただの傲慢な自惚れ屋に過ぎないと知ったから。

 だから全部投げ出したくせに……なのに、またのこのこと出てきてしまった。

 本当に愚かなんだなって、思う」


 聞いた事がある声のように思う。


 ……でもどうしてだろう、誰のものなのか思い出せない。


「でも、きみを見つけた」


 まるで、愛おしむような声。


「きみと、……あなた達のお陰で、思い出せたの」


 ありがとう、と言った。


 私と、あの子。

 それは……


「運命なんて、大嫌い。信じるもんかって思ってたけれど……

 あなた達がなら、私は信じてもいい。

 だから――」


 だから……?



「――今度こそ、地獄を作り上げて」


 優しい声のまま、言った。


 そして、それきり。

 気配は消えた。



 …………


 ……



 ……


 意識が、ぼんやりと浮かび上がる。


 夢を、見ていた……と思う。


 どんな夢だったか。


 思い出せぬまま、余は微睡みの中で目を開く。


「…………」


 覚えのない天井が見えた。

 ここは何処か、思い出そうとする。


 寝ぼけた頭を回転させていると、

 余はようやく隣に誰かの気配があるのに気付いた。


「……リリィ?」


 顔を横に向けると、そこに愛しい姿があった。


「おはよう、ナナ」


 まだ引かれたままのカーテン、その隙間から漏れた光が、

 彼女の優しい微笑みをちょうど照らしておった。


(……きれーじゃのぅ……)


 ぼーっとした頭で、見惚れる。


 身体を起こそうと思い、もぞりと動く。

 すると、掛布越しに、リリィが余の身体をおさえるように手を添えた。

 そして、小さな声で囁くように言った。


「……すこし、目を閉じて」


「んむ……?」


 余は言われるまま、もう一度目をつむる。

 まだ寝てていいんかの……

 でも、リリィがいるなら起きたいのぅ……


 そんな事を思っていると、ふいに。


「…………」


 ちゅ。


 ……


 ほっぺたに、何か柔らかなものが触れた。


 ……ぇ?


「――――ッッ!?」


 ばちっ!! と余は目をかっぴらく。

 そして、リリィを見た。

 ちょうどその顔は、余から離れてゆく途中であった。


「り、りりぃ?」


 余の声が上擦りまくる。

 彼女は慌てたように顔を背けて、そのままカーテンの方へ。

 そして、それを両手でやたら勢い良く開いた。


 余は口を半開きにしてそれを見つめる。

 たぶん、だいぶアホな顔をしとる。


 もう一度余に振り返ったその顔は、真っ赤じゃった。


「ご、ごはん……朝ご飯、食べよう?」


 微妙に歯切れ悪く、ごまかすようにリリィが言う。

 そして、そそくさと部屋のドアへと向かおうとする。


 お、


 おぅおぅおぅ?


 そんな、ごまかすなんぞ許すわけなかろうがー!?


「待てぃ」


 しゅた、とベッドから降りて、すたすたとドアとリリィの間に割り込む。

 そして、彼女を真っ直ぐ見つめる。


「……リリィ? なんで目を閉じさせたの?」


「あ、ぅ…………ぁの」


 俯いて、胸の前で指をむにゃむにゃと編むリリィ。

 くそ、可愛い。

 しかし逃さん。


「世の中には、隠しちゃいけない真実があるのじゃ……分かるな?」


「……う、うん」


 もしかしたら違うかも、とかそんな可能性は1mmも残したくない。

 まだ恥ずかしがって言わないリリィに、余は強硬手段に出る。


「め、目を閉じるでないぞ」


「えっ……」


 余はリリィとは逆に、そう言った。

 そして自分の顔を、彼女の真っ赤な顔に近づけて、


「…………っ」


 その頬に、ちゅ、と口づけしてやった。


 ……


「……こ、これでそのまま、お返しか?」


 顔を離し、余は尋ねる。


 ……あっつい。

 おそらく、リリィと同じくらい余の顔も茹であがっとるぞ……!!


「うん、おんなじ……です」


 ぽつり、答えるリリイ。


「そ、そか」


 うむ。と頷いて、そこから言葉が出ない。


 なんかもう、なんじゃ……!!

 余はクネクネしそうになるのを堪える。


 そうしてしばらく、ドアの前で二人して、俯き合っておった。




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