《50》静かな産声。





 魔王城、謁見の間。


 分厚く威圧的な意匠が施された扉をゆっくりと開き、

 そこへ魔王付きの執事スラルが一人入ってくる。


 彼の黒くプレーンな革靴が鳴らす足音が、一定の間隔で響く。

 彼は玉座へと続く段差の手前までやってくると、足を止めて

 そのまま膝を折り傅いた。


 いくらかの間を空けた後に、彼は口を開く。


「貴女の要求に対し、かの人族の街は未だ返答を決めあぐねているようです」


 執事の平坦な声が微かな反響を伴って響く。

 十秒程彼は待つが、そこに返る応えがないので、一つ息をついてから

 玉座に向けて顔を上げた。


 その視線の先にいる彼女は、彼を見てはいなかった。

 あるいは、何も見ていない。


 目を開き、まるで精巧極まる生き人形のように玉座に佇んでいる。

 そしてその表現は、言い得て妙であった。


 魔王リリィ=フォビア=セプテム。


 彼女は基本、常にそのようにしてあった。

 生気というものをと何処かに取り落としてしまったような、

 重篤の夢遊病患者といった在り様。


 そして不意に、ふらりと、彼女は立ち上がる。

 足音が立つのが不自然に感じる程、幽鬼じみた歩調で段差を降りる。


 スラルの横で立ち止まり、やはり彼を見ぬまま呟いた。


「もういちど、いってくる」


 簡潔な言葉。


「……かしこまりました。お気をつけて」


 スラルもそれ以上言葉は無い。


 執事が言い終わる前にはすでに、彼女は歩いていた。





 魔王ナナ=フォビア=ニーヒルと勇者リリィの戦い、その幕引きは。

 勇者によってでなく、スラルの手によって手繰られた。


 その最期は、実にあっけなく、余韻さえ無いものだった。


 勇者により瀕死を晒していた魔王に、

 スラルは自らの意思でとどめを刺す。


 魔王城にいつからか秘蔵されていたという霊力纏いの短刀でもって、

 彼は忠義を誓った魔王の心臓を刺し貫いた。


 理由はただ、勇者の手に掛けさせたくなかったからだ。

 それが魔王の、最後に残った願いだと信じ、割り入った。

 そこにある意味など、もはやほとんど無いと分かった上で。



 やがて目を閉じ、息づかいも失われた魔王の躯を、

 スラルは抱きかかえようとした。


 しかし次の瞬間、その姿は忽然としてしまった。


 音も無く、転送陣の前後のような兆しも無く。

 瞬きの後には、まるで最初からそこに何者もなかったかのように。

 魔王の姿は消えていた。


 スラルは、魔王の最期のあり様など知らなかった。

 こんなにあっけなく、名残のひとつさえ無いものなのか?

 弔うべき遺体さえ、残らないのか。


 それからややもせず、傍らで涙を流し呆然としていた勇者の体が傾いだ。

 地面に倒れた勇者をスラルはしばし唖然と見つめた。


 しばらく彼は己の行動を決めかねていたが、やがて決心し

 勇者と共に魔王城へと帰還する。

 彼女の身を客間のベッドに横たえ、傍らの椅子に腰掛けた。


 スラルは自問する。


 私は、この娘を殺したいだろうか。


 とどめを刺したのは自分。

 そして同時に、勇者……この娘なのだ。


 スラルは己に問う。

 もちろん自分の事だ。答えは初めから分かっている。


 殺したい、とは思わなかった。

 それどころか、すでに彼女の無事をどう保証したら良いのか、

 その事に思考が向いてさえいた。


 魔王に託されたという事、そして魔王の権能が故は確かにある。

 しかし、それをそっくり差し引いても。


 スラルはリリィを、殺したいと……主の仇だと思えなかった。


 魔王の託し、権能が封じたのは勇者へのそれでなく、

 彼自身への殺意だけだった。

 誓いが無ければ、とうに彼は魔王と共に命を絶っていた。


 目の前で死んだように、けれど確かに生きてそこに眠る人間。

 魔王ナナが、ただの少女のように恋に落ちた人間。


 魔王となってから、あのように浮ついてはしゃぐナナを、

 スラルは初めて見た。


 リリィはただ、勇者であっただけだ。

 この娘自身に、何の責も咎も無い。

 スラルは哀しいまでに賢しい男だった。


(魔王様の遺した望みは、無為にさせない)


 スラルは誓い、

 そしてその上で、一人で魔王を悼み、泣いた。





 翌日、リリィは目を覚ます。


 しかしそこにあった彼女は、およそ感情というものが抜け落ちていた。

 悲しみも怒りも、悔恨も失意も、彼女から滲むものは何も無かった。


 その精気すら感じぬリリィの姿を見て、スラルは思い出す。

 魔王を斃した勇者の多くが辿ったという末を。


「リリィ……様」


 スラルは彼女の瞳を見て、息を飲む。


 無かった。


 すでに、魔王がかつて施した擬装は失われていたが、

 その奥にあったはずの勇者の因子がそこには無かった。


(魔王と共に……失われた、のか……?)


 今さら、とスラルは思う。

 しかしそれも、詮無い思いだと分かっている。


 まるで心を失ったように佇むリリィ。

 彼女の悲壮の嘆きを予想していたが、そこだけはひとまず安堵した。


(これが……最善かもしれない)


 あの心優しい少女が、悲嘆に心を圧し潰されずに済むなら。

 魔王様もきっと、そう望まれただろう。


 心に頷き、なんと声を掛けようかとスラルは考えた。

 だがその時。


「なまえを、きめた」


 そう、リリィが口にした。

 スラルは一瞬、意味が分からない。


「名前を……? それはどういう……」


「わたしは、これから魔王を。そのためのなまえ」


 抑揚を欠いた、どこかたどたどしい言葉。


「魔王を、する……君は、何を言っている?」


「リリィ=フォビア=セプテム。わたしが魔王をするなまえ」


 スラルは努めて、気を落ち着ける。

 何かが、始まろうとしている。


 そして、スラルは目にする。

 リリィの目から、ひとすじ零れたものを。


「ナナを、いなくしない。

 ナナと、わたしはおなじにする」


 拙い言葉。

 スラルはその意味を汲み上げる。


(まだ、そこに……残っているのか、リリィ)


 かつての勇者達のように、失ったもの。

 心なのか、記憶なのか、分からないが。


 まだ彼女の中には、微かであっても残ってしまっている。

 それが今、彼女に何かをさせようとしている。


「……お話を、お聞かせ下さい……リリィ様」


 スラルは傅く。

 胸が、ただ苦しかった。


「…………」



 そうして歴史において初めて、

 かつての勇者が新たな魔王として名乗りを上げた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る