【43】魔王様、眠る。





 トン、と。


 小さく、左胸に何かが触れた。

 そう、ただ、触れただけに感じた。


 余は閉じていた目をゆっくり開く。

 そこに、誰かの顔があった。


 ……


(……スラル……?)


 そこにはなぜか、執事スラルがいた。


 なぜ貴様がそこに、と問いかけようとしたが、

 なぜか声が出ない。


 余は目線だけを下げ、今し方何かを感じた自分の胸を見た。


 そこには、スラルが何かを掴んで握り込んだ両手があり。


 やがてそこから大きく、赤い染みが広がっていく。


「……ナナ……」


 スラルの声。

 聴いた事のない声音じゃ。


 その顔をみた。

 いつも無表情が張り付いたそれは、大きく歪んでいた。


 目からは涙が流れ落ちて、

 悲しい、

 とても悲しい事があったように、


 スラルは、泣いている。


(どうした……お前もそんな顔をするのじゃな……)


 相変わらず、声は出ない。

 代わりに、こぷ、と口から何かが溢れた。


「ラーナ……僕は……ナナの執事失格だな……」


 スラルが震える声で言う。


 余は遅まきに、自分の身に何があったのか理解する。


 勇者の最後の一撃を待って目を閉じた時。

 スラルが倒れた余のもとにやって来て、


 この胸に、何かを突き刺したのだ。


(スラル……お前という者は……)


 頬に手を添えようかと思ったけれど、指一本動かなかった。


「もう……僕にしてあげられるのは……これくらいしか……」


 スラルが、訥々と、吐き出すように言う。

 突き立てた柄を握る手が、震えている。


(何を言っとるのじゃ……貴様も存外あほあほじゃの……)


 余は心の中で苦笑する。


 最後まで、お節介焼きじゃ。

 リリィの手に、掛けさせまいと。

 お前だって、こんな役嫌じゃろうに……



 この男はずっと、余の想いも向かう先も、全て赦してくれていたのだ。


 人間領での余の行いに、こやつは結局一度も言わなかった。

 自分が出向き、自分が魔王様に代わって事を行うとは。


 そもそもが巫山戯ふざけた話じゃ。

 魔王が直々に繰り出し、単身でその力を振るって来るなど。

 それが勇者の覚醒を早めるに繋がると、分かりきっておるのに。

 普通に考えれば、いくらでも部下の使いようがあるというのに。


 分かった上で、こやつは何も言わず余を見送り続けた。

 知っておるからじゃ。


 余が、心根の奥で、そうずっと前から。

 と、望んでおった事を。


 避け得ぬ、リリィの手に掛かる時を待つ日々が、とても辛かった。

 そして……


 魔王になったあの日から、ずっと。

 いつ来るとも知れぬ失意の日が、怖かった。


「僕があの日君に願わなければ……君はきっと、もう、……」


 ……


 うん……そうじゃな。


 きっとそれが最善だろうと、もちろん考えてはおったよ。


 余が、さっさと自ら命を絶ってしまう事がの。


 それを選ばなかった理由は……確かに、そうじゃ。

 お主や……ととさま……かかさま。


 皆の願いが、あったからじゃ。


「僕の言葉が、君を呪ってしまった」


 スラルの消え入りそうな言葉。


 余もいつか、自分に向けて言った。


 リリィを呪い、己を呪ったと。


 ベルのあの日の慚悔の告白を思い出す。

 宿した事が、産むことが罪だと言った。


 生まれた事も、出会った事も、生きてと願う事も。

 ぜんぶ……?


(本当に……罪なのかの……)


 余は、

 まだ、

 それを本当は信じていなかった。


 答えを出したかったのぅ……


(リリィ……)


 その名の主を最後に見たかった。

 でもそこにおるのは、もう……


 ……


 ……?


 空に居るはずのリリィの姿が、見えない。

 目を動かし、その姿を探す。


 すると、少し離れたところに、地に降りて立っていた。

 こちらを、茫洋とした目で見つめている。


 なぜ、とどめを刺しに来ない……

 もう、放っておいても死ぬと分かるからか……?

 もう、終わったと……


 彼女が、ゆっくりとこちらへ歩んでくる。


(いかん、スラル……離れ……)


 もちろん、声は出ない。

 しかし、とうとう余のすぐ傍までやってきたリリィの顔を見て。


 余は、心が大きく揺れた。


(……涙……?)


 リリィは、いまだ色の欠けた無表情であったけれど。


 その瞳からは、

 涙が伝っていた。


 ……


(そんな……)


 ずっと、見ておったのか?

 空で向かい合った時から?


 お主は、

 リリィは、その奥におったのか……?



 あぁ……


 死ねない。


 まだ、死ねない。



 リリィ、ナナが馬鹿だった。

 簡単なことだったのに。


 スラル、ととさま、かかさま、みんな、みんな。

 私はとっくに、知っていたんだ。


 呪いが確かにそこにあったとして。

 その隣に、いつもが一緒にあったこと。


 それは、好きの気持ち。



 ねえ。

 ナナ、みんなが好きよ。



 スラルが言ったからだけじゃないの。

 ナナが、ただ、死にたくなかっただけ。


 だって、好きな人がいるから……

 そこに、みんながいるから……


 呪いでもいいの。

 好きがあるから。


 出会わなければよかった。

 出会えてよかった。

 呪いと好き。


(リリィ……伝えたい……ことが、あるの)


 私が手渡したものが呪いでも。

 貴女と出会った事が呪いでも。


 私はあなたに、伝えるべきだった。

 伝えて、あなたの答えを聴くべきだった。

 逃げたりしないで。


 非業の死を定めに持つ魔王の親となった、

 父のように、母のように。

 きっとあの人たちも、いっぱい悩んだのね。

 でも二人は、呪いを刻んだまま、私を愛した。


 それは、ただただ、愛だった。



 リリィも私に、何か伝えようとしていた。

 なんだったんだろうな……


 思うことすべて、散文的だ。

 頭の中が、散らかっている。

 私は、まったく筋の通らないことを考えているかもしれない。


 とても、眠い。


 目の奥で何かが消えようとしている。



 ……でも、これだけ。



 リリィ。

 あなたと出会えてよかった。


 大好きよ。




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