【9】魔王様、勇者ちゃんの傷に少し触れる。
父を見送った後、余は結局外へ繰り出す事は無く。
踵を返して今頃リリィが朝食を摂っているであろう客間へ引き返す事にした。
「魔王様、どちらかへお出掛けするのではなかったのですか?」
スラルが後ろから声を掛けてくる。
「いや。やっぱりリリィちゃんが気になる」
「左様でございますか」
ちらり振り返って執事の顔を見ると、僅かに目を細めただけの無表情。
どうとでも取れる顔だが、恐らく浮かんでいるのは呆れとか苦笑とか
そういう類じゃろう。
ふん、いいんじゃ気にせんもん。
やがて余は再び深呼吸の後客間の扉を開く。
室内にはまだ、リリィだけでなくハルニレの姿があった。
俯くリリィと困り顔のハルニレ。
二人の様子を怪訝に思いながら余は声を掛ける。
「……む。なんじゃどうした?」
訊ねつつ視線をテーブルに置かれたいくつかの皿に移すと、
そこにはどうやら手付かずのままのスープやタマゴサラダが見えた。
「魔王様、それが……リリィ様、どうしてか食事が進まないようで」
ハルニレの言葉にリリィを見やると、手にロールパンを持ったまま、
視線を落としてなぜか……今にも泣きそうな顔をしておるではないか。
余はその顔を見て一気に心拍が上がる。
「どっ、どどどうしたリリィ、お腹でも痛いのかの……?!」
わたわたと訊ねる余の声に驚いたのか、びくっと肩を震わせるリリィ。
そしてすぐに、必死とも言える勢いで首を横に振る。
「実は先日も、出したお食事をほとんど口にされていないんです。
その時は、状況が状況ですから、喉を通らないのも仕方ないかと
思ったのですけど……」
「……ふ、む……」
余はリリィの様子に只ならぬ何かを感じ、メイド長を見て命じる。
「ハルニレ、ここはもう良いから、戻るのじゃ」
「……はい、かしこまりました」
ハルニレは改めて一度リリィを見てから、余に一礼し台車を押して出ていく。
そして、客間には余とリリィだけが残った。
余は少し間を置いてから、努めて優しく訊ねてみる。
「リリィ。それは、食べようと思えば食べられるかの?」
余は言葉を選ぶ。
リリィは一寸の間のあと、頷く。
余は一度、深呼吸をしてから問う。
「……いまあなたがそれを口に出来ない理由は、奴隷だった日々と関係がある?」
少しだけ余の顔を見て、すぐに目を伏せる。
頷かなかったが、余にそれは伝わる。関係があるのだ。
余は幾分躊躇ったが、やはりとても
この子をこれ程の拒食に追い込む原因を、取り除かなければ。
「さぁ、正直に話して。なぜ食べられないのか。
これはね、そう……恐ろしい魔族の命令よ、リリィ」
そう言って、余はリリィを
胸の何処とも知れぬ場所が、鋭く痛む。けれど、表情には出さない。
リリィは俯いたまま小さく震え、少しずつ言葉を紡ぐ。
「……昔、いきなり凄い、ごはんが出されて……最初は、怖くて誰も食べなくて
……でもすごく美味しそうで、みんなお腹も、とても空いてて、」
途切れ途切れに、消え入りそうに。
「我慢でき、なくて……食べちゃって、そしたらご、ご主人様が来て、
″誰がいつ、それを食べていいと言った”って、怒って、……」
ぎゅう、とリリィは衣服の肩口の辺りを掴んだ。
少し覗く肌に、痛ましい火傷らしき跡が見える。
「……、……その、あと」
「いい。もう良いリリィ。
すまんの、辛い話をさせて」
余は震える肩と頭をそっと抱きしめる。
力をこめず、自分に出来る精一杯の優しさで。
そのまま、リリィに語り掛ける。
「……よいか、リリィ。お前の主人を名乗っておった痴れ者はもうおらぬ。
先日も言ったように、全て終わった。お前を理不尽に嬲る者は地獄に堕ちた。
お前はもう、そこへは二度と帰らない」
頭を撫でる。
それくらいしか、出来る事を余は知らない。
リリィはまだ震えている。
何が足りぬだろう。
余はひとつ覚えに撫で続ける。
――余は思う。
余はまだ、この子にとり所詮何者でもないのだ。
そして奥歯を強く噛み締めたその時、余はそれを聞く。
「……ごめんね……」
ごめんね、みんな。
リリィは擦り切れた声で、言った。
……
あぁ……。
この子は……この子を苛むのは、この火傷や他の傷ではないのやも知れぬ。
この子は見たのだろう、自分のように責めを受ける者たちの姿を。
止められなかった、救えなかった者たちの地獄。恐怖。響く悲鳴。
それらは彼女の身だけが抜け出してもきっと消えない。
(……余は途方もなく浅はかであった)
ようやくに気付いた。
自分がリリィ惹かれた理由、その根源。
この子の涙と引き換えて知った浅薄。
誰かを救うという事。
全て終わっただと?
何が終わったというのだ。
この子の心はまだ、地獄に残っている。自分の意志で。
だって……
救うべき者が、まだそこにいるのだから。
――余はもう一度、赴かねばならぬ。
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