安全神話の崩壊 ~1995年 地下鉄サリン事件~

1. 史上最悪のテロ事件

 平成を代表するアイドルグループ SMAP。

 彼らが1998年に発表した27枚目のシングル曲 「夜空ノムコウ」は、このような歌いだしで始まる。


 「あれからぼくたちは 何かを信じてこれたかなぁ…」


 この歌が表すように、平成と言う時代は“不信の時代”だったとも言えるだろう。

 その最たる例が、安全神話の崩壊。

 今まで安心安全と信じて疑わなかったものが、次々と崩れ去り裏切られていったのだ。

 

 「夜空ノムコウ」が発表される3年前、そんな安全神話の崩壊を象徴する出来事が連続で発生した。


 1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災。

 そして、同年3月20日に起きた、地下鉄サリン事件である――。


 ■


 1995年(平成7年)3月20日、東京都――。

 月曜日、朝。

 この日は土日と祝日に挟まれた平日で、都心はいつも通りのラッシュアワーを迎えていた。

 仕事へ向かうサラリーマン。 学校へ急ぐ学生たち。 込み合う電車。

 平々凡々な時間である。


 午前8時21分。

 静寂を切り裂いたのは、警察無線に飛び込んだ一本の緊急通報。

 営団地下鉄(現 東京メトロ)日比谷線八丁堀はっちょうぼり駅と茅場町かやばちょう駅で、詳細は不明だが急病人が出たというものだった。

 

 時を同じくして、この2つの駅にほど近い聖路加せいるか国際病院にも、消防から一本の電話が入った。

 「茅場町駅で爆発火災が発生! 重傷者を何人受け入れられますか!?」

 救急外来はすぐさま、準備を開始した。

 想定されたのは、火災による重度の熱傷、つまりヤケドだ。

 ところが丁度その頃、病院の一般受付に、不自然に目を押さえた女性3名がやってきたのだ。

 応対した看護師に、彼女たちは訴える。


 「地下鉄で、シンナーを撒かれた」


 耳を疑った。

 一方、救急外来に到着した患者に、医師たちは狼狽する。

 運ばれた来た人々は火災の外傷はないのに、心臓が止まっていた。

 いったい、どうなっているのか!?


 実はこの時、聖路加国際病院だけでなく、警視庁も東京消防庁も、いや、その場に居合わせた全ての人間が、前代未聞の事態に混乱をきたしていたのだ。


 午前8時頃から日比谷線、千代田線、丸ノ内線の複数の駅で、乗客や駅員が次々に倒れるという正体不明の変異が起きていた。

 目の痛み、呼吸不全を訴え、中には病院に運ばれた患者と同じく、痙攣し息をしていない人もいた。

 うめき苦しむ乗客で駅周辺はあふれかえり、駅員や救急隊の怒号が飛び交う。

 築地駅を上空から捉えた映像では、道路が封鎖され、防護テントや何十台と言う消防車両が停まり、さながら、野戦病院の様相を呈していた。


 聖路加国際病院も、この緊急事態にある決断を下す。

 全ての外来患者の受付を中止し、被害にあった乗客を受け入れる!

 奇しくもこの病院は、3年前の改築の際に、戦争や大災害が起きても、大量の患者を受け入れられるような設備を施していたのである。


 しかし依然として、乗客がなぜ突然に倒れ、苦しみだしたのかが分からない。

 そんな中、現場の医師たちが、患者の眼にある兆候を見つける。

 瞳が異常に縮む「縮瞳」と呼ばれる症状で、有機リン系の農薬中毒でよく出るものであった。

 だが、ビルに囲まれた東京で、どうして農薬中毒の症状がある人々が?


 その答えは、人々が倒れ、緊急停車した電車の中。

 車両の床が水浸しになっており、水たまりの真ん中には新聞紙でくるまれた何かが、穴の開いた状態で放置されていたのだ。

 この新聞紙が原因なのは間違いない。


 午前11時。

 警視庁科学捜査班の調査により、この包みの中身が何なのかがようやく判明した。

 ―― サリン。

 第二次大戦前のドイツで発見され、その後ナチスが化学兵器としてた開発した毒ガスだった。

 外見は無臭無色の液体だが、威力は青酸カリの約500倍。 気化し人体に吸収されれば、瞬く間に神経を破壊、筋肉がマヒし、呼吸が停止する。

 あのヒトラーですら、使用を躊躇したとされる兵器。

 サリンもまた、有機リン系の毒物だった。

 

 何者かによる化学兵器によるテロ攻撃!


 人々はひるむことなく、この“悪夢”に毅然と立ち向かった。

 治療には、有機リン系農薬の解毒剤 PAMパムが効果的だ。

 しかし、東京の在庫は瞬く間に使い果たされ、最悪なことに、パムは全く利益の出ない薬であったため、日本で取り扱いのある卸問屋は名古屋のスズケン1社のみだった。

 聖路加国際病院から連絡を受けたスズケン本社は、東海道新幹線を使い、沿線の倉庫にある全ての在庫をピックアップしながら東京に向かう作戦に出た。

 浜松、静岡、横浜。 各支店のパムが集められた。

 更に住友製薬が、抱えていた全てのパムを、関西から緊急空輸。

 万が一、農薬中毒事故が起きた時のためにストックしていた在庫だった。

 こうして集められたパムが、都内各所の病院に配られ、苦しむ患者の治療に使われたのだ。


 同時に、地下鉄の除染も開始。

 12時50分、自衛隊に災害派遣が要請された。

 担ったのは、陸上自衛隊の第32普通科連隊や化学科部隊の隊員たち。 これが、初の実戦であった。

 ガスマスクと防護服に身を包んだ隊員が、サリンで汚染されたホームや電車を、決死の覚悟で中和し洗い流していく。

 被害が都内の広範囲に及んでいたため、除染は真夜中までかかったという。


 こうして起きた前代未聞の無差別テロ事件は、当時死者12名 重軽傷者約5500名を出す大惨事となったのである。

 被害拡大を防ごうと、サリンの包まれた新聞紙を除去しようと試み、命を落とした地下鉄マンもいたという。

 化学兵器が国の首都で使用されたとあって、世界中のメディアが、この事件を報道し、人々を震撼させた。


 だがいったい、誰が何のために、こんな事件を引き起こしたのだろうか。

 その答えは、意外にもすぐに分かった。

 というのも、警察と自衛隊は当初から、ある団体が引き起こしたのであろうと、目星をつけていたからだ。


 カルト宗教団体 オウム真理教である。

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