珀 ⑦

鉄製のじょうを手首にかけられた。

「何もしていない君たちにこんな仕打ちをして、すまない。でも、仕方ないんだ」

牢番の男の尻尾がしょげる。簫狼族のすべてが、人間に悪感情を持っているのではないらしかった。

羽子は、秋久と獄舎に入れられた。

牢内は床板が張られておらず、地面が剥き出しになっている。

はめ殺しの格子窓から、集落の外れにある滝が僅かに見えた。

「鉄格子か。住居は枝を組んで笹の葉がいてあったが、金属製のものもあるんだな」

「鎔鉱所があるからね。小さい炉が一つあるだけだから、ごく限られたものにしか使えない」

見張りで立つ牢番が答える。人懐こい面差しで、牢番に向いているとは思えない。

「あれは、滝ですか」

今度は秋久が訊いた。

この状況で、平静なはずはない。そう装えるだけでも、胆力はある方だ。

「ペレケホロケウサラ。僕ら簫狼族は昔アイヌと親交があってね。その名残で彼らの言葉や文化が混じってる。漢字だと、こんなふうに書くかな」

男が捕具の杖の先で、牢内の地面に『珀狼尾』と書いた。

「トクサとは友達で、この数年、一緒に外の勉強をしていたんだ」

トクサという名は知らなかった。琴子と逢引していた、あの男かもしれない。

牢番が呼ばれ、いなくなった。

会話が無くなると、滝の音が微かに聞こえた。

そこに、秋久の不安そうな呼吸が混じる。

「どう転んでもお前は逃げられるようにしてやる」

羽子が言うと、牢番が残した文字を見つめていた秋久が視線を向けてきた。

「羽子は、この里に来ようとしてたの?」

「ああ」

「なんでか、訊いていい?」

「今までなにも訊いてこなかったじゃないか」

「ゆっくり知っていければいいと、思ってた」

下手をすると数分後には死体に変わっているかもしれない。それぐらいの危機感を、秋久が感じていてもおかしくはない。

「オレの手足は、オレを造った一党が他所から強引な手段で奪ってきたものでな。他所ってのが、ここだ。ここは簫狼族、人狼が暮らす里だ」

羽子の一党は、この里から娘を一人攫った。簫狼族の強靭な手足を持つ、戦士を生み出すためだ。

羽子の躰には、他に八ヶ所、そうして集められた亜人の一部が移植されている。

「人狼……」

信じる信じないは、秋久の自由だった。訊かれたことには答える。他にすることもないのだ。

「なにしにここへ来たのかは、正直、自分でもよくわかっちゃいない。闘いから遠ざかって、あの湯屋で暮らすうちに、これでいいのかって気がしてきた。

気づいたら、こんな躰にされていた。そのことを、これまで深く考えたことはなかった」

「これまでは」

「そう、これまでは、だ。この躰のために犠牲になったやつがいて、オレ自身、手を汚して生きてきた。それが、平穏に生きていいのか」

秋久は黙っていた。羽子が口を噤むと、微かに聞こえる滝の音だけになる。

「今更罪の意識を覚えるなんて、それこそ虫のいい話だ」

「深夜になると、外に出かけてたよね。瓦湯に来て少し経った頃から」

「眠れなくてな。夜が、長いんだ」

夏の夜で、短いはずだった。それでも、長く感じた。

「羽子はここに、腕と脚を返すつもりなの」

「どうかな。それを望まれれば、そうしてもいい」

「それはだめだ」

秋久が、勢いよく立ち上がった。

「羽子は僕と一緒に帰らなきゃだめだ。夜が長いなら、僕が付き合うよ。してやれることはないかもしれない。でも話なら聞けるし、隣にはいられる」

「どうしてお前がそこまでする必要がある」

「必要とかじゃない。僕がそうしたいから、するって言ってるんだ」

秋久は、涙を流していた。足元の地面に、ぽつぽつと染みができる。

「オレはなにも返せない。できるのは、殺しだけだ」

「僕はこの数週間、羽子と暮らせて楽しかった。器用だけど不器用で、冷たいのにどこか優しい。なにか返そうとしなくていい。いてくれるだけで、十分なんだから」

涙を拭おうともせず、秋久は羽子の前に来て言う。その目には、光がともっている。

羽子は、その眼から顔を背けた。

「嬉しいね。男にここまで情熱的に求められたのは、はじめてだ」

口ではそう言いつつ、胸中には暗い感情が湧き上がっていた。これは、絶望か。

好かれることで、自分がしてきたことに気付かされるとは、とんだ皮肉だった。

「腕の立つ女と一緒になるのは、苦労するぜ」

「望むところだよ」

絶望は深くなる。それが自分に課された罰なのだとしたら、受け入れなければならない。

「せいぜい気張るんだな」

「うん!」

羽子の心境を知る由もなく、無垢な秋久は相好をくずす。

その背で、牢の格子扉が静かに開いた。

四十絡みの女が入ってきた。

「彼らが教えてくれた通りだわ。あなたが、羽子ね」

憎悪に燃える瞳を、こちらに向けてくる。屈んでいた秋久も気づき、振り返る。

「私の子を返して。返して。返して。返して」

女の総毛が逆立ち、紅い唇が裂け、牙を剝く。踝の上に狼爪が生え、手の爪もギチギチと尖る。

「返せ!」

飛びかかってきた。

羽子は、秋久の背中を蹴り飛ばした。女と羽子の間に、遮るものはなくなった。

復讐の爪が羽子に届く寸前、後ろから女の口に棒が噛ませられた。引き倒され、先端が二又になった杖で、首根っこを押さえられる。女の荒れ狂う声が、牢に響く。

「少し目を離したすきに、すまない。大丈夫か」

駆け戻ってきた牢番は、荒い息をしている。

女は目を血走らせ、捕具の杖から逃れようと暴れている。

羽子は目を閉じた。

死を覚悟した。しかし、助けられた。まるで吊り人形のように弄ばれている気分になった。

娘を理不尽に奪われた母親が、怨嗟の叫びを上げている。

滝の音は、聞こえない。


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