新田束早 ⑤

その晩、大吉は春香、束早つかさ銭豆せんず川の昨日の場所に行った。

一度目の祓いが失敗し、今晩二度目をやると話すと、春香は自分も行くと言い出した。普段はそんなこともないのだが、言い出すと聞かなくなる時が春香にはある。

川面の平舟。装束を着た尚継と靜が待っていた。

いつもなら春香と会うと飛びついてくる尚継も、今日は粛々としていた。

「春香さん、今度一緒にランチいかない? 最近ランチをはじめた、雰囲気のいい店があるんだ」

そんなこともなかった。大吉は尻を蹴り上げた。尚継が反撃してくる。

「馬鹿二人、はじめるわよ。束早さん」

「はい」

「今晩こそ、なにがあろうと波旬を祓うわ。いいわね」

「…はい」

祓いがはじまった。

昨晩とは、白河姉弟は役割を交換している。それを除けば、祓いの工程は昨晩同様に進んでいく。

束早が苦しみはじめ、春香が駆け寄ろうとする。大吉はその肩を押さえた。

「大吉」

「大丈夫、今度こそ上手くいく」

自分に言い聞かせていることでもあった。

翼が顕れた。猛禽類の瞳。こちらを睨みつけてくる。

「尚継、しっかり結界を保ちなさい!」

波旬は舟を蹴って初速を上げ、川面を低空飛行して突っ込んできた。結界が衝撃で歪む。

「くっ」

尚継が圧される。

靜が印を解いて腰の祓串を抜き、なにか尚継の結界を援けるような動きを見せた。だが、間に合わなかったようだ。

波旬が川の結界を越えて飛来する。尚継の肩を掴んで上昇し、上空で放り投げた。

「うっわああ!」

大吉はスライディングをきめ、地面に叩きつけられる間一髪の尚継を受け止めた。

肋骨辺りで、嫌な音がした。

「大吉、尚継くん大丈夫⁉」

「春香、下がってろ。いっつ」

尚継を受け止めた衝撃で、肋骨にひびが入ったか。動こうとして痛みが走る。

「靜、ごめん、俺」

「今回ばかりはあんたのせいじゃないわ、尚継」

「え、」

尚継が呆ける。

その間、上空の波旬が片翼を振るう。風切り音が迫る。靜が大吉たちの前に出た。

「『しゅう』」

戦国鎧の肩部分に見る盾に似た障壁が張られ、不可視の風の斬撃を弾く。

「やはり束早さんは波旬に力を貸しているわね。変化が早過ぎる」

「ちょっと待ってくれ、束早は波旬に憑りつかれて」

大吉は痛みを押して抗議しようとした。だが靜にきっとキツイ目を向けられ押し黙った。

「はじめはそうだったのでしょう。でも今は違う」

「どういうことだ」

「束早さんは私たちが波旬を祓うことに、心では抵抗しているのよ。そうでなければ強い妖力を持つ波旬といえど、術で縛られていてあれほど自在に動けるはずがない」

波旬は空を思うさま駆けている。こちらの出方を見ているようだ。

「束早、なんで」

春香が呟く。

大吉には思い当たることがある。

束早、お前、波旬に自分を重ねているのか。

「仕方ないわ。憑依されている人間自身が抵抗している以上、その意思ごと祓うしかない」

靜が険しく言う。

「ちょっと待て靜。そんなことしたらあの人の精神だって術を食らっちまうぞ」

「あなたは黙ってなさい尚継。私がやるわ」

前に出ようとする靜の腕を、大吉は掴んでいた。

「放しなさい」

「できない」

「このままではあなたの妹は半妖になって人を襲うのよ」

「…それでも、俺はあいつの兄貴だ。妹が傷つけられるようとするのを、黙ってみていられない」

靜は舌打ちし、苛立ちを露わにした。

「なら、力づくで黙らせるだけよ」

靜が印を組もうとする。その手を、尚継が掴んだ。

「尚継、あんたまで」

「なにか手があるかもしれないだろ。もう一度封じて、策を練れば」

「甘ったれたことを」

靜は尚継の手を振り払い、その頬を殴り飛ばした。尚継が尻もちをつく。

「妖を祓いこの街の秩序を守る! それが私たちの役目でしょう!」

峻烈に言い放つ靜。

その脇を、春香が駆け抜けていった。

「春香⁉」

「私が何とかしてみる!」

「なんとかって、おい!」

「春香さん!」

大吉と尚継が止める間もなく、春香は靜の防御の前に出てしまう。

「束早! 降りて来て、話をしようっ」

力いっぱいに叫んだ。波旬が反応を示す。翼が大気を打つ。

猛烈な速さで旋回降下した波旬が、春香に翼を掠めさせ、舞い上がった。

「春香!」

右腕の皮膚が裂け、血が指先へ伝う。

波旬の嘲笑う声が降ってくる。春香は動じてはいない。

上空で弧を描いて旋回している波旬は、餌を狙う烏のようだ。その弧が、ぐらりと崩れた。

波旬が翼のコントロールを失い、地に落ちた。

「束早!」

春香が駆け寄る。

「波旬の妖力が弱まっていく。どうして急に」

靜が不可解だとでも言いたげに声を洩らす。

「束早だ。波旬が春香を傷つけたから、それであいつ、出てきたんだ」

「一度身体を明け渡しておいて、そんな簡単に主導権を取り戻せるはずが」

「靜、あれ」

尚継が言葉を遮る。指さす先。

上体を起した波旬の首に腕を回し、頬と頬を合わせる。春香が、波旬を抱きしめていた。

羽根が散っていく。瞳孔が閉じ、目の色が人のそれに戻っていく。

「束早、おかえり」

「春香、ごめんなさい、私、わたしっ」

束早がしゃくりあげる。固く閉じた瞼から、涙が溢れ出してくる。

「大丈夫だから、ゆっくり話して」

春香は抱いたままの束早の頭を撫でる。

「術もなしに波旬の荒ぶった妖気を収めた。ありえない、そんなこと」

「あれが、春香だ」

大吉が腕を放しても、靜はもう強引に波旬を祓おうとはしなかった。

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