新田束早 ③

街は寝静まっている。

土手を越えると、銭豆せんず川の岸に木造の平舟が繋留してあった。

塗装もなにもされていない、木目がそのままの白木舟だ。

尚継としずかが立っていた。二人とも装束姿だ。上着の白衣びゃくいは同じだが、下の袴の色が違った。

尚継のは松葉色で、靜のは紫で、薄く模様が入っている。

「よろしくおねがいします」

大吉は靜と尚継に頭を下げた。

普段は大吉を見るや噛み付いてくる尚継も、神妙な顔つきをしている。

「そちらが妹さんね。どうぞ、この舟の上へ」

靜は大吉にはなにも言葉をかけず、束早が舟に乗るのに手を貸した。

舟の舳先に枝が括り付けられていた。あれが入手に苦労した神木なのだろう。

舫い綱が緩められ、舟が川の中流へ流れ出て行く。

「大吉、少し下がってろ」

「おう」

尚継に言われ、大吉は岸から少し離れた。

「尚継、妖を剥がすのはあなたがやりなさい。結界は私が張る」

靜が、スクエア型の黒縁眼鏡を鼻にかけ直す。

「俺が? いいのかよ」

「術が未熟なあなたに、繊細さが必要な結界は任せられないわ。妖を締め上げるのは、多少力づくでも問題ないでしょう」

「ちぇ、わかったよ」

靜が袖から茅ノ輪を小さくしたものを取り出した。ブレスレットぐらいの大きさだ。それを両手で持って構える。

へい

茅ノ輪に蛍火が灯る。靜を中心にして、その光が四散した。

気温がすっと下がり、空気が変わった。

「はじめなさい」

「おう」

尚継が足を肩幅に開く。腰の帯には祓串が差してある。指を組み合わせた。尚継の集中が、離れた大吉にまで伝わってくる。

さつ

尚継の手元から発された数条の光糸こうしが束早に縛る。

尚継の術を目の当たりにするのは、これで三度目になる。

尚継の生まれの白河家は、平安の世からこの街を流れる銭豆川を守ってきた。

銭豆川は恐山や比叡山などと並ぶ、信仰の集まる場所、霊場なのだ。

霊場には、妖が溜まりやすい。そういう手合いを相手にするため、白河家では代々陰陽術が研鑽されてきたのだという。

れん!」

尚継が術を重ねる。

束早の表情に苦悶の色が映る。

「くそっ」

替われるのなら、替わってやりたい。だが現実には、耐える束早を歯噛みして見守るしかない。

尚継の『れん』によって、光糸が束早をきつく締めあげる。束早も苦しいが、その身の内にいる妖にはもっと効果がある。

「うぅっ」

束早が身体を折り、舟の縁で見えなくなる。

「束早!」

「静かにしていなさい。気が散る」

靜に叱責される。黙っていられるわけねえだろ。怒鳴り返しそうになる。

「出たぞ。烏の羽か、あれ」

鳥の羽ばたき。舟が大きく揺れた。大吉は愕然とする。

束早が川の上を飛んでいる。その背からは、猛禽類のそれを思わせる、黒く大きな翼が生えている。だが、あの翼は。

「片翼か。おおよその事情は読めたわね。尚継」

「なんだよ」

「わかってるわね、あれは波旬はしゅんよ。術は緩めず、一気に決めなさい」

「言われなくってもそのつもりだ。うおりゃぁああ!」

尚継が印を組んだまま肩をいからせる。『さつ』の光糸が太くなり、波旬とかいう妖への圧力を強める。

束早の目の色が変わった。

比喩ではない。白目が黄色に変色し、黒い瞳孔が大きく開く。猛禽類の目だ。

翼が広がり、空を切る。束早が滑空する。

目が、術を行使している尚継を狙っていた。大吉はたまらず駆け出し、尚継の前に出た。

「慌てんな、平気だ」

「なに?」

岸に出ようとした束早が、なにか透明な壁にぶつかった。手で押し通ろうともがくが、びくともしない。

「靜が結界を張ってる。でもちょうどよかったぜ。そのまま川に飛び込む準備しとけ」

「なにを」

「もう決めるっつてんだ」

尚継が気勢を上げ、『斂』と再び吼えた。

黒翼が砕け、羽根が散る。人ならざる鳥の啼声が、夜をつんざいた。

翼を失った束早が川面に落ちる。

「束早!」

大吉は川に飛び込んだ。

束早は気を失っている。重い。背泳ぎの体勢で束早を抱え、水を蹴って岸へ戻りつく。

先に束早を引き上げてもらった。

「お疲れさん」

差し出された尚継の手を取り、大吉も川から上がった。

「祓えたのか」

「ああ。もうあの妖は消えた」

「そうか」

安堵しかけた。

その大吉の表情が凍りつく。

鳥の羽ばたき。目を疑いたくなる。靜が抱きかかえる束早の背から、黒い片翼が再生してきていた。

「んな馬鹿な」

「これは」

尚継と靜も息を呑む。二人とも、祓えた感触があったのだ。

「尚継」

「もう一度か」

「いえ、一度封じ直すわ。心得違いがあるのかもしれない」

妖祓いは中断となった。

尚継と靜の手により、妖、波旬は束早の身に再度封じ込められた。

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