File2 ひっかき傷の証明

第1話 マフラーとパイの温かさはむず痒くて

「はあぁぁ!? 報酬金を全部使ったですって! あなたは私との約束を忘れたわけ!」



 栗毛の女性は私の肩に両手を置いた。相変わらず家具が少ない一室。女性は男性に怒りをぶつけていた。彼女らのやり取りに自分が無関係ではないことが困った話である。



「ああ、約束したとも。だが今回ばかりは入り用だったんだ。申し訳ない……」



 男性はチラチラとこちらへ目線を送る。えー……。助けてほしいのは私も同じだ。この人は私の主人である。文字通りのご主人様。私はこの人によってオークションで落札され、自由と身柄を引き取られた。



「私はね。あなたがどこで野垂れ死のうが知ったこっちゃないの。でもこの子は困るでしょ」



 栗毛は私の背中を軽く押すと、彼の方へと促す。



「すまないシャルル。ベッドはもう少し先になりそうだ」



 頭を下げる主人に返す言葉が見つからない。私としては別にソファーで寝ることは苦ではない。フカフカの寝床をおねだりできる身分でもない。



「………い、いえ。そんな」


「──もっと、我儘言ってもいいのに……」



 歯切れが悪い私に栗毛は顔を曇らせた。私が悪い。



「アガべ。心配してくれてありがとう。少しシャルルと話がしたいからさ──」


「……わかったわ。寒いから風邪引かないようにね」



 二人の目線はお互いの意を交換するように交わる。


 私と主人はいたたまれない空気をひとつ残して、部屋から出た。





 冬真っ盛り。カラッとした空気。つんざくような風を頬に感じる。厚手のコートから感じる温かさは、単なる材質によるものではないような気がした。胸が温い。肌よりもずっと奥の。



「今日は一段と冷えるから、これも着けるといい」



 主人は膝を折ると、私の首に何かを巻き付けようとする。その瞬間、体が硬直した。瞼が重くなり開かなくなる。首に触れられるのが恐い? 違う。これは反射的なものだ。



「──大丈夫だから」



 柔らかい。後ろ首に回された何かが首を包んでいく。するりするりと。少しチクリとする。その痒さは首を伝って全身へと巡る。私の声帯はむず痒さを一気に吐き出す。



「ぃぇ……ひっ」



 瞼は解錠された。顔を上げると笑う顔がひとつ。



「うん、よく似合っているね。苦しくはないかい?」


「はい……ありがとうございます」



 首元はモコモコとして、体の内側はポカポカとする。



「さっきはとんだ災難に巻き込んでしまって、すまなかった。返答に困っただろう。それのお詫び……とは違うけれど、どこか昼食でも二人で食べに行こうか」



 それから私たちは手を繋いで歩き出した。手袋越しに頼りない力が伝わる。どれくらい力を加えればいいのかを手探りに。


 道行く人たちはみんな私たち、というか隣の主人に声をかける。



「ホーンさん。これからどこ行くのさ?」

「シャルルちゃんと今度うちに遊びにいらっしゃいな」

「仲睦まじくていいもんだね」



 大きな耳を頭上に生やし、厳つい犬歯を覗かせる彼らはとても好意的だ。ファサファサの体毛をサラサラとさせながら、大きな声を発する。主人は一つずつ丁寧に返事をしていく。この流れを見る度に主人が町人たちにとってどんな存在なのかがわかる。



「自分でも、こう表現するのは悪いと思うけど、あまり重く受け止めなくていいからね。たぶん今日の会話を覚えている人はいないからさ」



 少し対応へ疲れている様子の主人が溢した。



「ホーンさん! 次に店の前通ったら食べて行くって約束だったな。ほら、遠慮なさらず」



 ちょうど通りかかったご飯処の店主に呼び止められた。「うーん……」と主人は私を見ながら、考えるそぶりを見せる。



「わたしはどこだって嬉しいです」


「助かるよ。それとさっきの発言は訂正させてもらおうかな」






 店へ入ると次々に歓迎の声が飛び交った。



「みんな、分かったから! ほら、自分たちの食事を楽しんで」



 私は主人に促されながら、空席に着いた。すぐに給仕服の女性がやってくる。



「皆さん本当に探偵さんのことがお好きなんですね」


「そうなんですかね」


「そうですよ。お嬢さんもゆっくりしていってね」



 手を振る女性に私は手を振り返す。



「はぁ……勘弁してほしいよ。少し外に出ただけで、こんなに話しかけられたんじゃ落ち着けない」



 主人はメニューを私に見せながら、弱音を吐いた。冗談でも喩えでもない。真にうんざりとした様子で頬杖をついている。


 目の前に広がる文字の羅列。綺麗に区画分けされた住宅のような品目。頭がクラリとする。


文字は読めるので書かれている言葉は分かる。ただ、それがどんなものか想像がつかない。知らないものばかりだ。加えて、自分で選ぶという行為のハードルが高い。



「えーっとねぇ、僕のおすすめは────」


「ホーンさん、お代はいらないから、たんと食べてくれ。嬢ちゃんもな」



 主人の声を遮るように、先程の店主が現れた。何だか素敵な香りと一緒に。


にっこり顔の獣人は、次々とテーブルにほくほくな料理を並べ始めた。



「こんなに沢山。今日こそはしっかりと払わせてほしい」


「ああいいとも。俺は受け取らないけどな。ガハハハハッ」



 店主は大きな歯を光らせると、厨房へと帰って行った。二人では食べ切れない量の料理と私たち。主人は嬉しいような、切ないような、微妙な顔をしている。



「まぁ、料理に罪はないし。どれを食べても美味しいことは保証するとも。食べてみようか」



 主人は綺麗な装飾が施されたお皿に、パイを取り分けてくれた。とても良い匂いがする。


 私はパイに手を伸ば──はぁ……。


また体が動かない。今度は奥歯を噛み締めて思いっきり腕を動かす。パイを持つ手は震える。主人よりも先に食べ物に手をつけるという不躾な教育は受けていない。主人は今、私が食べるのをじっと見ているのだろうか。恐ろしくて顔を上げられなかった。



 ──パリッ。



 暗闇に囚われた思考が一気に晴れた。ぐるぐると脳も体も雁字搦めにする呪いが解けるように体が軽くなる。顔を上げると破顔させながら、パイを頬張るの姿があった。



「おいしい」



 口の中の美味しさが独りでに溢れ出したみたいに私から声が出た。



「でしょ」



 笑みを浮かべる主人の口の端は汚れていた。




 パイがあまりに美味しいので夢中になって咀嚼を繰り返す。一切れを食べ終えて、ようやくお皿に目を向けることが出来た。


艶がある表面に施された青色の装飾が目を惹く。お皿の価値がどのようにして決まるかは分からないが、どこか魅力がある素敵なお皿だと思った。



「その皿素敵でしょう。作ったのはこの町の職人なんだよ。こーう器用にね、爪を使ってさ、模様を描いていくんだけど──」



 お皿の模様に触れてみる。私には絶対に出来ないことだ。もしも自分に鋭い爪や牙が。自分を守ることが出来る力が備わっていたのなら。今と違った人生を歩んでいたのだろうか。


主人のしなやかな指は模様をなぞり終える。この人は何を思っているんだろうか。私はこの人にとってどんな存在なのだろうか。


 思い耽ていると店内がざわつき始めた。何者かの足音が聞こえてくる。バタバタとした音はすぐ近くでピタリと止まった。テーブルの横には緑色の大きな耳をピョコピョコとさせる少年の姿があった。



「あにき! 大変なんだ。おいらのお皿が大変なんだ!」


「随分慌ただしいなセネシオ。僕は今──」


「王都の依頼主から手紙が!」



 少年は深刻そうな顔で手紙を差し出した。

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