第2話 縛りの腕時計②

授業中に、教室を抜け出すと言う生まれて初めての愚行に対して

少しでも高揚感を抱いていた浅はかな自分を殴りたい。

そんな余裕があったのは、まだ現状の深刻さに気づいていないからだった。


街は灰色に染まっていた。染まりきっていた。

窓から見えた景色の先にも、絶望的な灰色の街は続いていた。

生き物の気配はない。

視界には確かにさっきまで活発に活動していたはずの

《生き物だったもの》が写り込んでいる。


鳥は宙の、一定の場所を動かなかった。

人間は、なんとも不安定な体勢で停止していた。

風は吹いていなかった。

まるで世界を漫画の1コマとして切り抜いたようであった。


「こんにちは!」

道ゆく人だったものにハツラツとした声で挨拶をする。

返事はない。

「今日はなんとも不思議な色の空ですね、風もないし」

似合わない笑顔で、愛想よく世間話を仕掛けてみる。

もちろん返事はない。


 現状を理解する間も無く平賀は、次の瞬間には圧倒的な孤独感と焦燥に駆られ

意味もなく走り出していた。

一種のパニック症状のようなものだ。

呼吸は荒れ狂い、視界はひどく朦朧とし

見た事もない醜い走り姿で

汚い汗とハウリングのような奇妙な叫び声を撒き散らしていた。


〜〜〜〜〜


どれくらい走っていただろう。

僕は腕時計に目を落とす。

依然針は11時59分59秒を指している。

時が止まっている上に、こうも世界が灰色であると、

時間の間隔というものがまるっきり狂ってしまう。


服は絞れるほどに僕の汗を吸収していた。

顔は涙と汗と叫び散らかした際に同時に飛び出た唾液とで

ぐちゃぐちゃになっていた。


ひとしきり泣き、ひとしきり叫び、体の中からあらゆる不安感情を爆発させた僕の体は現在、悟りにも近い精神状態で煩悩以外の全ての力、活力を投げ捨てて

車道に大の字になって寝そべっていた。

余計な力の抜けた僕の体は驚くほど冷静に今いる現状を分析しようとしていた。


 しかしどれだけ脳みそが冴え渡ろうと、現状を打開できるような妙案は

降ってはこなかった。

アインシュタインでも僕と同じ状況になれば、これ見よがしに出したその舌を

噛みちぎって自害する他には手がないなんて言い出すだろう。


「灰色と死」


「孤独と不安」


「止まった秒針と止まった世界」


冴え渡った脳みその出す回答や言葉はどれも、どこまでも、絶望的だった。


なんなんだこの世界は、僕が何をしたっていうんだ。

神様がいるとするならば本当に僕の行動を見ていたのか?

僕は真面目に学生としての本分を務めていたぞ。目立たぬよう模範的に務め

授業では教師の期待に応えるべくしっかりと発言もした。

確かに今、この現在本来授業中である時間帯に学校を抜け出しこんな道路の真ん中で打ちひしがれてはいるが、そもそもお前のせいじゃないか。

お前がこんなよくわからない世界に引きずり込んだのが原因じゃないか。


冴わたる脳みその回転は現状打開にカロリーを使うのは無駄だと踏んで

見えざる崇高な存在との口論にタスクを振っていた。


平賀は、そんなくだらない口喧嘩をひとしきり終えた後、

体力も回復した事だしもうすこし何も考えずに歩いてみるか

と上体をムクリと起き上がらせた。


目の前には風景に馴染まない《歪な建物》が佇んでいた。

全然気が付かなかった。

さっきまで体力にも精神にもこれっぽっちも余裕がなかったため

存在を認識できていなかったのか。


不思議と僕はその建造物に見入っていた。

確かに摩訶不思議な造形ではあった。

暖かな光が窓から漏れていた。

久方ぶりの人の気配に胸が高鳴った。

しかし僕がそこに視線を奪われた理由は他にあった。

灰色に支配された世界の中で、その小さな世界だけは《色》を持っていた。



なんとも怪しい建物である。

明らかに法律の枠組みからは(建築基準法に詳しいわけではないが)

はみ出しているのだろう。

おそらくはみ出しまくっている。

怪しい、がしかし戸を叩かずにはいられなかった。

なにしろこの灰色に包まれた世界の中で、唯一人の気配がするのだ。


 平賀は戸を開き、建物の中に入る。

驚いた、突飛な外観とは打って変わって中は至ってシンプルに作られている。

なんの面白味もない、日暮れもわからぬ、

空気の死んだオフィスビルのような作りをしていた。

 目の前には27インチ液晶モニターの背中が見えている。

その奥からカタカタとキーボードを弾く音がする。

数時間ぶりに聴く自分以外の放つ音に心踊らずにはいられなかった。

なんなら今にも踊り出してしまおうかとも思った。


期待感と安心感に包まれながら、何物がこの奥でデスクワークをしているのだろうか、このような状況で冷静に普段と変わらぬ仕事ぶりを発揮できる切れ物はどんな人物なのだろうか。

平賀は心を躍らせていた。


モニターの側面から、男は顔を出した。


「どちら様でーすかー。」


起伏のない一定の声色、まるで低血圧の男が寝起きでしゃべるような

そんな声。なんとも現在の、この摩訶不思議な現状に似合わない、気の抜けた

変なやつだなと僕は思った。それが彼への第一印象だ。


「なんだお前、なんというか、もう、色々ぐちゃぐちゃだな。」


起伏のない一定の声色、まるで低血圧の男が寝起きでしゃべるような

そんな声。そんななんとも現在の、この摩訶不思議な現状に似合わないやつだというのがこの男の第一印象だった。


男はこの内装によく似合う死んだ目をしていた。

髪はボサボサで規律を失い、手元には黄金色(こがねいろ)のジッポライター。

アメリカンスピリットを咥え、気休めばかりのシャツにネクタイ。

パソコンの横には奇妙な数珠のようなものと、剣山のようになった灰皿。

男はなんとも言えない胡散臭い風貌をしていた。


街中で見かけても、それがどんなに困っている状況でも

まず声はかけないであろう。世界が灰色になるなんて異常時を除けば。


「もう勘弁してくれ」


僕は口に出し、再び仰向けになり天井を眺めた。

流石に脳がキャパオーバーで、

他人の身なりに小言を言う気力は残っていなかった。


そしてこれが、この出会いが、

僕にとって奇妙な、それでいて運命的な出会いだと言うことに

僕はまだ気がついていなかった。






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