自販機がない

えんがわなすび

自販機

 その日、いつもの自販機がなかった。


 朝、通勤途中にいつも通る道にある赤色のデザインをした自販機がないことに、私は一瞬足を止めそうになった。

 なんてことはない、ただの自販機だ。

 そこで飲料を購入するわけでもなかったし、まじまじと見ることもなかった。

 けれどその自販機が鎮座していた空間が、まるで最初から何もなかったかのようにぽっかりと口を開けていたことに強烈な違和感があった。うっかり口から、あれ? という言葉がこぼれそうになるほど。


 通り過ぎ間に横目でその空間を見る。足は若干速度を落としたが、通勤途中ということが無意識に体を急かしていたのか止まることはない。

 視線の先に赤色の自販機は影も形もなかった。

 撤去されたのかな。自販機の維持費も高いっていうし。

 ぽっかり空いたその場所を通り過ぎ角を曲がるまでの僅か三秒で、私の頭はそんなことを考えていた。


 ◇


 しっかり十時間拘束された体はバキバキだった。

 早く帰ってお風呂に入って寝たい。その前に晩ご飯はどうしよう。またコンビニ弁当かな。

 ビルの隙間から申し訳なさそうに覗いている空が群青と茜を分けたグラデーションを描いている。無性にビールが飲みたくなって、角を曲がった私は思わずぎょっとして足を止めた。


 自販機があった場所に、男が立っていた。


 直立不動。そんな言葉が瞬時に脳を駆ける。

 朝方通り過ぎ間に自販機がなくなったと思った空間に、知らない男が立っている。いや、ここで知人が立っていてもそれはそれで不信さが増すのだが、そういうことではない。

 男はまっすぐ前を向いたままぴくりとも動かない。

 すらりとした高身長に見えるが、表情は落ちていく夕日に影になってぼんやりと暗く見えた。

 ぴんと伸ばされた手足。少し茶の入った短髪。薄い唇。どこにでもいそうな青年が、昨日まで自販機のためにあった空間に鎮座している。


 私の足は完全に止まっていた。

 帰宅ラッシュ時だというのに、周りの喧騒が聞こえない。

 なんだこれは。

 どうしてこの人は、こんなところで立っているのか。

 すっと僅かに視線を下に向けると、少しヨレた男の服が目に入った。

 それがあの自販機みたいな真っ赤な色だったことに、何故かぞわりと鳥肌が立った。


 と、後ろからすっと誰かが私を追い抜く。

 私の横を通り抜けたその人は、何の躊躇もなく直立不動の男の前に立った。

 瞬間、胸の奥で嫌な予感が沸き上がる。

 後から来た人は男の前で自身のポケットをごそりと弄り、それから何かを掴んだ手を男の目の前に持っていく。自販機があった空間に鎮座する男はぴくりとも動かない。チャリ、という音がした。お金だと思った。

 次の瞬間には、その人が男の口の中に無理矢理硬貨をねじ込んでいた。

 指で強引に口を開けられた男の口に、チャリチャリという音が異物感を伴って侵入している。

 私は目の前の光景に、知らず息が止まりそうになっていた。


 無理矢理ねじ込まれる硬貨。

 唾液か何かが絡みつくぴちゃぴちゃという音。

 時折漏れるぐっというくぐもった声。

 並び立つ無表情の二つの顔。

 茜を侵食していく群青。


 十秒も経っていなかったかもしれない。

 それでも永遠に思えるようなわけの分からない恐怖の中、何の前触れもなく、ぎょろりと自販機の男が私を見た。

 瞳孔の開かれた黒い眼が、私をじっと見つめている。

 限界だった。

 もつれそうになりながら踵を返した私は逃げるように駆けだした。

 後ろでまた、ぐっという喉に詰まったような声が聞こえた気がしたが、足を止めることはなかった。


 それから私は通勤ルートを変えた。

 遠回りになるが、あの道を通るなんてできなかった。

 あの男はまだあそこに立っているんだろうか。

 それとも――

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自販機がない えんがわなすび @engawanasubi

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