第20話 阿波葉の記憶

 夏の高校野球徳島県予選の準々決勝、去年までおミヨのいた太刀野山たちのやま農林高校は池田の学校に完敗した。


 かつて、太刀野山など西阿そらの山間部で生産されてきた高品質のタバコ葉「阿波葉あわば」は、池田の町の問屋に集積されて全国の販路に流れ、巨万の富をこの地にもたらした。

 町に残るいくつもの立派なうだつの屋敷が、かつての繁栄ぶりを物語っている。


 タチノー在学中は、おミヨも朋輩たちも柿どろぼうやら畑荒らしやらありとあらゆるイタズラを働いては、担任や監督に連れられてヤマの住人のところに謝りに行った。その時に年寄りから問わず語りに聞かされた数々の昔話は、忘れようにも忘れられないものだった。


 そう、農業実習で毎年あのきついタバコ栽培と収穫を経験しているタチノー生にとって、それは年月を、そして人とけものの違いを越えてどれも身に迫る話だった。


 ヤマのタバコ農家が、乾燥させたタバコ葉を池田の問屋に納入するたびにあれこれ難癖つけられては買い叩かれた十九世紀の昔話が、今なお生々しく語られる。


 菜っ葉の浮いた汁物に、塩を入れて味をつけることさえ贅沢だったヤマの暮らし。


 「ごめんなさい、もうしません」とかしこまる冬毛の狸生徒どもを並べて


「おまはんら今の世の中しか見とらんもんは、ほんまの貧しさを知らんやろ」


と語る老人の言葉に続いたのは、単衣の着物一枚で氷のようなヤマの冬を越さなければならなかった小作農家の話だった。


 専売制になってからは、池田から来た専売公社の職員が段々畑の隅々までタバコの葉の数を帳面につけて回った。そして収穫時には徹底的に員数合わせして、一枚二枚の数の差を咎め立てた。そればかりか、池田の連中はタバコ葉を隅々まで調べ上げては小さな傷までうるそうにあげつらったりしたものだった。


 語り手の亡親の古い話――小学生の頃、剣豪気取りでエイヤアと振り回した棒切れの先っぽが他所の畑のタバコ葉をかすった。何某の子が葉に傷をつけたと畑の持ち主が小学校の校長に大仰に言いつけよって、親父は全校生の前でお仕置きされたんじゃ――そんな口伝えの古い話を山のように聞いてきた。


 池田は忘れとっても、ヤマは忘れてへん。


 負けとうない。

 池田にだけは、負けとうない。


 野球部の仲間たちも他の運動部も大同小異だった。おミヨも何度か池田の学校と対戦したことがあったが。あきらかに他の試合と気持ちの入り方が違った。


 刻みタバコの生産が中止となり、タバコ産業が衰退し、池田の町が凋落の一途を辿ってすでに久しいのに、なんしにこんな感情が残っとるんやろかと不思議に感じた。感じながらも心の底にふつふつとするものをどうすることもできなかった。


 池田の学校に勝ったからいうて、歴史が変わるわけでなし、ヤマの人々が味わわされたことに対する落とし前が今さらつけられるわけでなし、たしかにちょっとは溜飲が下がるかもしれんやろけど、そんなんで太刀野山が繁栄するわけでなし――ほんま何なんやろ?


 それは不思議な感情だった。


 後輩たちも思いは同じで、はたから見ていても痛々しくなるような雰囲気だった。


 藤黒ふじぐろ監督は選手たちに肩の力を抜くようあれこれ言葉がけしていたが、最後まで投打は噛み合わず、おタエに至ってはラフプレーまがいの守備妨害までおかすありさまだった。怒った監督に選手交代を命じられたおタエは、泥だらけの顔を拭いもせず、口をきゅっとへの字にしていた。


 すぐに飛んでいっておタエの傍にいたくても、卒業した今、もうそれは叶わない。


 ――ようわからんのやけど、ウチ、過去世でも似たようなことがあったような気がする……なんやごっつうようけの人が、ウチらの応援に甲子園まで駆けつけてきとった。


 みんな他郷ぐらしで、仕事も生活もほんまにつらそうやった。


 ウチらが勝ったから言うて、その人らの生活が変わるわけでなし、それでもみなウチらの一挙手一投足を、固唾を飲んで注目しとった。


 いっとき都会の人らに「西阿そらはすごいな」と思われて元気になれるのは事実やし、それだけを見れば全く意味のないことではないかもしれん。


 ほなけんどそれは結局、他郷の暮らしをしんどくさせている芯このところを見んで済ませるようしとるだけなのちゃうやろか?


   ***


「みっちゃん、おかえり。どやった?」


 海四みよんが準々決勝から帰ってきたおミヨに声をかけた。


「……あかんかった」


「ほうか、残念やったな。――そや、寿司楽さんからスイカ半分もろたけん、切ってくるわ」


 海四は隣の寿司屋からお裾分けでもらったスイカを冷蔵庫から出すと、トントン切り分けた。

 ふたりは中庭に面した廊下で、ハーブのプランターや鉢植えを眺めながら赤い果肉にかぶりついた。


 ウチは過去世で、甲子園に出ていちばん長い夏を過ごしていた。しかし現世では、去年は二回戦、今年は準々決勝で三年部員の「夏」は終わった。


 なんしにウチらは「最後の夏」にこんなに苦い思いをしながらさよならせんならんといかんのやろか?


 おタエも今日が「最後の夏」になってしもうた。しかもあんな最悪の形で。

 今頃、学校で監督にお仕置きされてんのやろか。おタエのあほ、身から出た錆にちがいなくても、なんぼなんでも切な過ぎるやんか。


 おミヨは去年の夏、一回戦突破に気を良くして、おタエや他の野球部員数匹と梨窪の民宿のスイカ畑に忍び込んで、番犬の隙を突いておっきいスイカをせしめたことがあった。

 早速川の水で冷やして腹一杯食べ、口の回りの赤い汁であっさり露見して監督に叱られたことを思い出していた。


 もうあの子らと一緒にイタズラすることも、お説教を食うことも、きつい練習に耳や尻尾を出すこともなくなった。


 ほんまに、他狸ひとの夏に勝手に幕引くのだけは大概にしてほしい。


   ***


 「徳島県代表」は大方の予想通り、蜂須賀商業が勝ち取った。

 梅沢は伝令やコーチャーの裏方をつとめる傍ら、代打としてきっちり結果をたたき出した。


 記録員のリボンをつけたベリーショートのマネージャーは、スコアブックを胸に抱えて晴れやかにインタビューに答えていた。


「みっちゃん、うち、みっちゃんの過去世の続きしてええ?」


 海四は最後の一切れをかじりながらおミヨに言った。


「せんならんです。蜂商が甲子園に出発する前に」


 皮に残った赤い部分を前歯でこそげながら、おミヨが答えた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る