遥かなる夏空

第14話 鷲の門

「みっちゃん、今日は店ぇ休みやけん、どこでも好きなとこ行ってきない」


 雨上がりの朝、海四みよんは朝食のパンをかじりながらおミヨに言った。


 おミヨの普段着はどれもセコハンの寄せ集めで、高校出たての若い子にはなんぼ何でもこれは……と海四は常々思っていた。


 もっとも、おミヨの方こそ高校三年間、県高野連お墨付きの純正高校球児と林業実習時の作業員、そして狸本体以外の姿になったのは本当に数えるほどだった。


 秋恒例の徳島市狸まつりに学校あげて行く時、おミヨら狸生徒たちはティーンエイジャー向けのファッション雑誌を見ては「これや!」と思ったモデルそっくりに化けたりもした。が、いざ一日その姿でいるのはなにぶん肩が凝った。


 卒業単元では「社会人一年生に相応しい化け方の工夫」なんて授業があったが、黒のリクルートスーツは窮屈この上なく、パンプスに至っては足が痛くてまっすぐ歩けないありさまだった。


 今だっておミヨはスポーツニュースを見るたびに、ウチはやっぱり坊主頭の球児に化けて、野球の練習着を着てスパイク履いとるのが一番落ち着くんや、としれっと言う。


 ああ、もう目も当てられぬ悲惨さだ。


 おミヨが来て最初の定休日、海四は一張羅のセーラー服姿で出かけようとするおミヨに小遣いまで握らせて、駅前のそごうで可愛い服でも買うといで、と送り出した。


 ――戻って来たおミヨの背中にはバットケースが引っ掛かっていた。


 あの時は、ああこの子ホンマに何とかせんと! と気を揉みもしたが、あの過去世ではしゃーないわー、と海四はひとりクスクスと思い出し笑いした。


 おミヨは結局、今日もセコハン寄せ集めの中から、レンタカー屋の大奥さんからもらった「昭和」の魔法瓶のような花柄の婦人用Tシャツに海四のお古のアラビアンパンツ、背中にバットケースを担いで「行ってきます」と徳島城公園に向かった。


 こっそり狸の姿に戻って公園の真ん中にそびえる城山しろやまの木立ちに入り込んで走り回ったり、木の実や虫やトカゲを探してはもぐもぐしたり……今度は娘姿に戻ると、バットを杖にして左足をかばいながら山のてっぺんの神社まで登り、徳島市内を一望した。そしておもむろにバットを構えると、心ゆくまでブンブン素振りをした。


 城山を降り、売店で冷やしあめを飲んで、そろそろ店に戻ろうとおミヨは鷲の門をくぐった。


「すみません」


 門の外から、聞いたことのある声がおミヨを呼び止めた。


「はい?」


「ヒプノサロンの方ですよね」


 声の主は、この間二度ほどセラピーを受けに来た蜂須賀商業高校野球部の女子マネージャーだった。


「あれ?学校は?」


「試験中なんです」


「部活は?」


「明日からです」


「そうなんや」


「……明日、夏の大会のレギュラーの発表があるんです」


 ……毎年のあれか。緊張するなあれホンマ。


「うわ、明日なんやね」


「……うち……」


「ん?」


「……うちにしかできんことって、先生言うてましたね」


「そやね」


「うちにしかできんことって何なんやろ? ってずっと考えてるんです」


「……」


「ほんで、うちが思うた通りやろうって、考えたんです」


「そなんや」


 おミヨの胸が、ドクンと鳴った。


「……あの、ソフトボールやってらっしゃるんですか?」


 マネージャーはおミヨの背中のバットケースを指さした。


「ううん、ソフトちゃう、ウチ、野球しとったんじゃ」


「え? 女子野球? カッコええなあ」


 ……細かいことは、ま、ええか。


「すみません。お引き留めしてしもて……」


「HCS」の三文字をあしらった校章入りの大きなバッグを持って、マネージャーは駅に続く公園の中の道をとんとんと歩いていった。

 低めに結んだポニーテールが軽やかに踊る。


 店に戻っておミヨは開口一番、鷲の門で出会った蜂商マネージャーから聞いた話をした。海四は「明日、予約は午前だけやな。午後は入れんようにせな」と言うと台所の水屋を開けてハーブの在庫をたしかめた。


 過去世退行を行ったあとひと眠りして翌朝を迎えると、セラピー室ではあれだけ鮮明だったはずの過去の映像も音声も肌触りも、いつもおミヨの記憶から砂の城のように崩れて消えていた。


 海四は二階の窓を、通りの側と反対の中庭の側と一斉に開け放った。湿気を含んだぬるい風がセラピー室を通り抜けた。水晶玉の前に座ると、海四の脳裏に今まで見てきたおミヨの過去世が押し寄せてきた。


 淀川商業との決勝戦を前に、美馬農林の後藤監督はナインに「好きにやれ」と言った。キャプテン梅吉を中心に、人も狸も一丸となってエース能勢を擁する淀川商業に立ち向かっていった。グラウンドを駆け巡る球児たちには、誰が人で誰が狸かなど、見る者にあれこれ言わせぬ力が漲っていた。


 ――いや、こう言ってしまってええんやろか?


 この地を支えてきた産業が近代史の荒波の中で次々と傾いていき、滅びゆく家業を捨て故郷を離れざるを得なかった無数の人々。甲子園の美馬農林ナインに注がれた、かれらのひとつひとつの瞳が胸をえぐる。

 カノは写真の中で、身体の中から今にも弾けそうになるものを堪えているような顔をしていた。


   ***


 蜂商野球部マネージャーは翌日、赤い夕焼けが夜空に吸い込まれていく頃になって現れた。セラピーを受けるのではなくて、話だけ聞いてほしいということだった。


「うち、好きにやろう思たんです」


 マネージャーはついさっきまで野球部であったレギュラー発表のミーティングのいきさつを語り始めた。


 ――監督が、ピッチャーから名前いい始めたんです。……キャッチャー近藤、と言われた時、みながざわっとしたんです。……うち、その時「何でですか?」言うたんです。監督に「何で梅沢先輩じゃないんですか」って言うたんです――


「ほんまに?」


 おミヨがすっとんきょうな声を出した。

 海四が肘でおミヨをつん、とつついた。


 ――監督は「甲子園に行けるメンバーを選んだ」言うてました。うちは「なんしに梅沢先輩じゃ甲子園行けんのですか?」言うたんです。

 監督は「わしは二人をずっと見てきた」言うたから、うちは「私かて見てきました」言うたんです。梅沢先輩には「いい加減にせんか」と言われました。

 監督には「君が私情を挟むことではない」と言われました。

「うちが必死で考えてきたことを私情やなんて言われるのは、おかしい思います」言うたら、梅沢先輩が「ほんま、いい加減にせんか!」ってうちのこと、グランドから引きずり出したんです――


「そやったの……」


 海四の言葉に、マネージャーは少し涙ぐみながらうなずいた。

 おミヨは大きな目を見開き、口をぐっと結んで固まっている。


「うち、自分の思うたとおりしたんです。うちがそう言いたかったけん、言うたんです」


「もう一人のマネージャーの子は?」


「何も言うてませんでした」


「これからどないするの?」


「……まだよう考えてへんのやけど……」


「そっか」


 海四はマネージャーの手をとった。


「また何かあったら、いつでもおいで、な」


「ありがとうございます」


 マネージャーは校章の入った大きなバッグを両手でぎゅっと抱え、鷲の門の方に向かって歩いていった。


 店先でその後ろ姿を見送りながら、ふいにおミヨのどんぐり眼からぼろぼろと涙が流れ落ちてきた。


 ひくひくと震えるおミヨの肩を抱きかかえるようにして、海四は店先に立ち尽くしていた。


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