第13話 淀川商業(下)

 梅吉はドロップの曲がりはなにバットを合わせ、思い切り引っ張った。


 カン!


 快音とともに球は一、二塁間を抜けた。三塁コーチャーの板東が三塁まで来いと手招きしている。


 三塁に頭から滑り込むカノ。土煙の中で三塁手と激しく交錯する――


 審判の両腕が横に広がった。


 ――立ち上がったカノの右手から赤い滴が垂れている。さっきのプレーで三塁手のスパイクに右手がもろに当たったのだ。


 板東は青くなった。

 

 カノは右手の異変に気付かぬまま、ホームに向かってじりじりとリードを広げた。


 次の打者は七兵衛。能勢の決め球を下からすくいあげてしまい、ピッチャーフライに打ち取られた。美馬農林は二者残塁のままチェンジとなった。


「ドンマイ! タイミング合うてきてるで河野かわの


 梅吉がうなだれる七兵衛に声をかけた。三塁側ダッグアウトに戻るカノの右手からは、ボタボタと赤い滴が流れ落ちている。


 後藤監督は主審に、球場の医師を呼ぶよう要請した。


 カノの右手のひらには狸の肉球が浮かび上がり、それがぱっくりと割れていた。

 医師は傷を見るや、目をかっと見開いた。


「……な、なんだこれは……」


 カノのどんぐり眼から、大粒の涙がひとしずくこぼれ落ちた。


「加納佳之です。うちの生徒です。お願いします」


 後藤監督の火を吹くような真剣なまなざしに、赤く裂けた肉球にとまどいの色を浮かべていた医師は、腹をくくったように往診鞄を引き寄せ治療器具を取り出した。


「……今から縫います。麻酔をするとボールを握れなくなります」


「麻酔なしでお願いします」


 カノは左手で目をぬぐうと、医師をまじまじと見つめた。


「できるだけのことはします。……動くとあかんから、押さえて下さい」


 カノは口にタオルを咥えると、チームメートに身体を押さえられながら治療を受けた。


 肉球に針が刺さる度に、カノは渾身の力でタオルを噛み締め、悲鳴を噛み殺した。激痛で身悶えする度にチームメートは口々に「辛抱せえよ!」と声をかけ、カノの身体を押さえ込んだ。

 肉球を縫い終えた医師は、消毒薬で傷を洗う。カノは涙を浮かべ、全身を震わせながら耐えた。


 治療が終わり、右手に包帯を巻かれたカノは、半分気を失っているのか、焦点の合わない視線をぼんやりと泳がせている。


「加納……カノ!」


 梅吉はいきなり飲み水の入ったヤカンを持ち上げると、カノの頭に思い切り中の水をぶっかけた。


「何するん!」


 カノの視線がまっすぐ梅吉を捉えた。


「カノ!」


 七兵衛と平助がカノの肩をたたいた。


「ほれ。加納、早う外野へ行け」


 監督はグラブをカノの方に突き出すと、その背中をぐいと押した。


 カノはグラブを持ってグラウンドにあらわれた。


 主審が胡乱な顔つきで頭から水をしたたらせているカノの全身をひとわたり見わたすと、その顔を凝視した。


 目のまわりから両の頬にかけて、いつの間にか真っ黒な狸隈が浮かび上がっている。


 カノはその視線を真正面からじっと見返した。


 カノは隈の浮かんだ顔を外野の方向に向けると、「WE CAN DO IT!」と叫んでセンターの位置までまっしぐらに走っていった。

 レフトとライトが寄ってきて、内野への送球は任せろと言った。カノはこくこくとうなずいた。


 その間に右手の包帯の色が少しずつ赤くなっていく。


 ……みっちゃん……


 海四の目に涙が浮かぶ。


 ……ウチ、大丈夫やけん、海四さん、続けて、な?


 ――うん。


 海四はタオルで目頭を拭うと、行李の上のビジョンに目を移した。


 八回の表裏は共に得点なし、試合は最終回の淀川商業の攻撃に入った。

 包帯から絶えず血がじくじくと滲み出てくるのを、カノはグラウンドの土をかけては抑えていた。


「荒岡、遠慮なく打たせろ」


 梅吉は肩から背中にかけてじっとり汗を滲ませてマウンドに向かう荒岡に言葉をかけた。甲子園では連投に次ぐ連投で、淀川商業の強力打線を相手に、もう気力だけではどうにもならないことは明白だった。


「打たせてくけんな! しまっていこう!」


 梅吉はダイヤモンドの要から両腕を大きく広げて気合いを入れた。


「おう!」


 ナインは梅吉に応えるように両腕を上げ、カノはグラブをはめた左腕を高々と突き上げた。


 荒岡は、行き先は球に聞いてくれ! とばかりに渾身の力で投げ込んだ。

 淀川商業は四球で出たランナーをバントとヒットで三塁に進めた。


「ワンアウト!」


 梅吉が指を一本立ててナインに声をかける。

 次打者は八番。美馬農林はスクイズを警戒して前進守備だ。追加点は絶対にやれない。


 荒岡の球がわずかに上ずったところを、打者ははっしと捉えた。球はセカンド後方まで前進していたカノのところに勢いよく転がってきた。まっすぐボールに駆け寄りながら素早くグラブですくい取ると、カノは血のにじんだ右手で梅吉に返球した。

 球はワンバウンドで梅吉のミットに吸い込まれた。クロスプレーだ。


 ――土ぼこりの向こうで球審の両腕が横に広がるのが見えた。


 3対0で迎えた九回裏、打順は追加点を許したカノからだった。

 ユニフォームの右側には点々と血の跡がついている。打席の手前で、カノは右手の血止めにグラウンドの土を何度も擦り込んだ。

 右手はバットをまともに握れない。

 それを見越してか、淀川商業は前進守備を敷いている。


 カノは短く持ったバットで右に左にファウルを飛ばし続けた。バットを握る右手からは赤いものがしたたり落ちる。粘りに粘った末、甘いコースに入った能勢の速球を、カノは左腕だけで叩いた。詰まった当たりの球は浜風にあおられて、前進守備のななめ後ろに落ちた。


 内野安打だ。


「加納! 加納!」


 ノーアウトのランナーに、美馬農林ベンチもスタンドも俄然勢いづいた。次打者は三振だったが、風車のようなスイングでカノの二盗を援護した。

 三塁コーチャーの板東は七回のアクシデントを思い出し、身体が震えた。


「ウチ、走るけんな!」


 二塁に頭から突っ込んだカノは、すっくと立ち上がると三塁側ベンチに向かって声をかけた。

 二塁手は狸隈の浮いた顔に驚いた表情を浮かべた。カノはそれに構うことなく、じりじりとリードを広げた。


 ……みっちゃん。


 海四はクライアントの過去世を見ることが、これ程辛いと思ったことはなかった。目を逸らしたい衝動とたたかいながら、海四はビジョンを凝視した。


 次の打者はサードライナーで二死二塁、梅吉が打席に向かった。


「走るけんな!」


 カノは打者の梅吉、三塁側ベンチとコーチャーの板東に向かって左手を大きく振った。

 板東はごくりと生唾を飲んだ。


 ――カン!


 梅吉の当たりはセンター前ヒット。センターがからくも捕らえた球をハンブルする。板東が大きく腕を回す。カノは三塁ベースを蹴ってホームに向かう。


 ――それを見透かしたようにセンターは腕を鞭のようにしならせると、ダイレクトでバックホームした。


 カノは右側から回り込むと左腕をホームベースに伸ばした。捕手はミットでその手を払うようにタッチした。


 ――球審の右拳が捕手と走者の交錯する上に突き出された。


「アウト!」


 一瞬静けさの広がった球場に、ゲームセットのサイレンが鳴った。


 淀商は強い。投手の能勢もあのセンターも、みんなほんまに憎らしい。


 ――ビジョンには、準優勝の盾を囲んで記念写真におさまる美馬農林ナインの姿が映った。県立図書館の「徳島県学生野球史」に載っていた、あの写真だ。


 おミヨは精魂尽き果てたように、過去世から眠りの世界にゆっくり沈んでいった。海四は立ち上がれぬまま、両手で行李の縁を握った。

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