第12話 淀川商業(上)
海四は行李の真上に展開したビジョンを見ながら、心のなかで「みっちゃん、いよいよ決勝戦やな」と呼びかけた。
後藤監督は、昨秋から板東に任せてきたマスクを、この決勝で梅吉に託した。海四はふと、蜂須賀商業のあの女子マネージャーと梅沢喜一のことを思い起こした。
そびえ立つアルプススタンド、大鉄傘にこだまする歓声――決勝戦の雰囲気はこれまでとガラリと変わった緊張感を美馬農林ナインにもたらした。
相手は甲子園夏の大会三連覇を狙う地元大阪の強豪・淀川商業。主戦投手の
球場には淀川商業三連覇の瞬間を期待する地元ファンに判官贔屓の野球通が、朝早くから次々にやってきた。一塁側アルプススタンドは幣衣破帽に高下駄の応援団長が率いる淀川商業大応援団が陣取っている。
三塁側美馬農林スタンドには、徳島から大阪や神戸の町工場や縫製工場に出稼ぎに来ている若者や奉公人の少年少女たちがこぼれんばかりに詰めかけた。どの顔も、今朝カノにハンカチを託した仲居見習いの少女と同じ、ピンとはりつめた表情だった。
カノはユニフォームのズボンのポケットに忍ばせた藍色の刺繍のハンカチを、上からそっと押さえた。
座席の最前列には、今日の決勝戦の応援に、長駆
「あれ、何て意味やろか?」
七兵衛が横断幕を指さす。平助は
「あほ、お前英語の時間寝よったんか? あれはな、おまはんらは絶対やれるんやけん、しまいまで精出してしなはれ! いう意味じゃ」
と頭をひとつ小突いた。
「そっか。ほなけんどすごいなあ」
スタンドを見上げて、狸たちはため息をついた。
「わいらは化けてナンボの商売や。ほなけん、勝ってあの人らが元気で工場に戻れるようせんならんのや」
「そや梅吉、阿波狸の底力の見せどころやな」
平助はようやくなじんできたスパイク靴を履いた足でトントンと足踏みした。
試合開始の時間が近づき、両校ナインはベンチ前で円陣を組んだ。
後藤監督が「お前たち、今日はお前たちで好きにやれ。わしはここで見とるけんな」と言うと、梅吉は「わしらで好きにやります。そして勝ちます」と答えた。
平助が円陣の中心で「MINO YOU CAN DO IT!」と叫ぶと、淀川商業の掛け声に負けじと「MINO YOU CAN DO IT!」の合唱がグラウンドに響いた。
――英語の横断幕なんて、またずいぶんハイカラやなあ。
――もし「郷土の誇り」なんて書かれてしもてたら、ウチどないしてええかわからんようなるなぁ。
――ほんまやなぁ。
ビジョンを見つめながら、海四とおミヨは言葉を交わした。
――そやけど甲子園ほんまにすごい、ウチまで緊張するわぁ。
おミヨはそう言いながら行李の中で四つ足をぐっと伸ばすと、再び過去世に入っていった。
甲子園の大鉄傘をゆるがす歓声が、ビジョンの中からセラピー室いっぱいに響き渡った。
淀川商業エース能勢の球は想像以上だった。決め球の懸河のドロップもさることながら、針の穴を通す制球力で、バッターの嫌がるコースをビシビシと突いてくる。
「ドロップの曲がりっぱなを狙ろうていけ」
梅吉は上位打線のメンバーに言った。
「能勢が一番自信を持っとる球を叩くしかない。粘り強く合わせていけ」
一回に荒岡の立ち上がりを打ち込まれ2点を失った美馬農林だったが、その後は両チームとも無得点が続き、七回裏の美馬農林の攻撃に入った。
「ウチ、走るけんね」
ベンチの仲間にそういい残して、カノは三度目の打席に向かった。
「加納、YOU CAN DO IT!」
ベンチの仲間が声援を送る。
ここまで美馬農林は無安打に押さえられていた。
あっという間にツーストライクに追い込まれたカノは、能勢の決め球を待ってましたとばかりに三塁ファールラインぎりぎりに転がした。
セーフティバントで出塁したカノは、一塁ベースから能勢の様子をうかがった。想定外、という表情が一瞬よぎったのを、カノもベンチの梅吉も見逃さなかった。
それでも淀川商業二連覇の立役者である能勢の球威は健在だった。カノを一塁ベースに釘付けにしたまま後続のふたりを三振に打ち取り、無死一塁は二死一塁に変わった。
「行くで」
カノは打席に立った梅吉に目配せした。
「藤川! 藤川!」
三塁側スタンドが波立つようにどよめく。
両の手のひらに狸の肉球が盛り上がってくるのを感じながら、カノはぐっと身体をかがめ、二塁をうかがった。
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