第10話 海を見た山狸

「……いち、に、さん!」


 海四みよんの声を夢うつつの中で聞きながら、ふたたび過去世の扉を開いたおミヨはぽつりぽつりと語り始めた。


 ――夏の大会が終わり、投手の武市さんはじめ先輩たちが引退して、美馬農林野球部は新チームになりました。今度はうちらが最上級生です。


 新チーム最初のミーティングで、後藤監督は梅吉をキャプテンに指名しました。去年の夏の大会で正捕手の座をうばわれた形となった梅吉は、それでも板東が怪我せんように、変化球の捕り方などあれこれ教えたり、ピッチャーの練習相手も毎日のようにしよりました。監督は、梅吉のそういうところをちゃんと見とったんです。


 海四はふう、とため息をひとつつくと、凝りはじめてきた首をぐるぐると回した。ビジョンの方に目をやると、美馬農林ナインが学校近くの神社で必勝を誓い、昨夏に引き続き再び相まみえることとなった蜂須賀商業との県予選決勝戦に赴くさまが鮮やかに映し出されていた。


 狸の姿で行李に横たわったおミヨは、おだやかな表情でつぶやいた。


「海四さん、ウチ、いよいよ甲子園に行けるんやね」


   ***


 ――徳島県予選決勝戦。


 同点で迎えた終盤、カノは四球で出塁した。打席に立ったのは七兵衛――河野衛かわのまもるだ。七兵衛が初球をはっしと捉えると、球は転々センターの奥深くへ。

 カノは快足を飛ばして二塁から三塁へ矢のように向かう。

 蜂商のセンターが送球体勢を取ろうと焦る様子が目の端に入った。

 三塁の方を見ると、コーチャーの梅吉がぐるぐる腕を回している。カノは迷わずホームに突進した。

 センターからの返球は大きく逸れ、これが決勝点となった。

 相手の守備の僅かな乱れを見抜いた梅吉の好判断がもたらした勝利で、美馬農林はついに宿願の甲子園初出場をもぎとった。


 重清村しげきよそんでは村こぞって上へ下への大騒ぎ、尋常小学校の校庭では一月前倒しの盆踊り――そや、今で言う「阿波おどり」やな――が始まり、村のおとこ衆が女房や姉妹の襦袢やら浴衣やらを引っかけ、鉦太鼓と三味線に合わせて面白おかしく踊っては気勢を上げた。


 学校の外に出て、列をつくって起伏の激しい道をランニングしていると、村の人たちが畦道や畑で仕事の手を止め手を振りながら「気張りや」「精出しや」と声をかけてくる。山の方では、狸たちが木に登ってニコニコ笑いながらこちらを見つめている。


   ***


 外から、若者たちのさんざめく声と気の早い鉦の音が聞こえてきた。海四みよんはつと立ち上がり、通りの方の窓を開けた。

 下の通りを鉦や太鼓、三味線を抱えた一群が通り過ぎていく。いつの間にか雨はやんでいた。徳島城公園で囃子の練習でもするのだろうか。海四は通り過ぎる若者たちに「精出しや」と声をかけ、手を振った。

 海四は首を左右に軽く振り、行李の中のおミヨをのぞき込んだ。


 過去世の中で念願の甲子園に旅立つおミヨは、行李の中で見るからに嬉しそうに尾をぴょこぴょこ振っていた。


 ……海じゃ! カノ、海が見える!

 うわあ! おっきい船じゃ!

 魚どこや? ……危ない七兵衛!

 海の匂い、ほんまにええ匂いや!


 ビジョンを見ると、旅館の大広間のようなところに、後藤監督と美馬農林ナインが集まっている。

 重清村から神戸に出て成功したというお分限さんが、人数分のスパイク靴を差し入れてくれたのだ。これで穴の開いた運動靴を履かいでも済む、とみな大喜びだった。


 一回戦、美馬農林ナインは脇町の仕立て屋が腕によりをかけて仕立てた、胸に大きなローマ字「MINO」の真っ白なユニフォームに身を包んで登場。打っては七兵衛らクリーンナップの連続長打、投げては武市から主戦投手の座を継いだ荒岡の快投で一点差を守り切って快勝した。


 この試合で、ちょっとしたアクシデントがあった。

 セカンドを守る田岡雄一こと平助が、途中から足が痛うてかなんと、頂いたばかりのスパイクを脱ぎ捨てて裸足になってしまった。平助は足だけ黒い狸の脚にして、なんとか審判や相手チームの目を誤魔化しプレーを続けた。


 二回戦は延長十三回裏、その平助が決めたスリーバントスクイズでカノがホームイン、サヨナラ勝ちを決めた。


 おミヨは誰かと抱き合うかのように、虚空に両の前脚を突き出している。海四はその前脚をそっと握った。


 美馬農林は初出場ながら、一点を争う接戦を勝ち抜き、ついに決勝に駒を進めた。相手は鉄腕・能勢のせ正浩を擁し夏の甲子園三連覇をねらう大阪の強豪・淀川商業だ。


「淀商って、蜂商より強いんやろか?」


「何言うとるんじゃ? 強いに決まっとるやろ」


「わいら、勝てるやろか?」


「あほ、勝つに決まっとるやろ」


「能勢の球、打てるやろか?」


「わいらかて武市さんや荒岡の球で嫌っちゅうほど練習してきたやろ?」


「ほなけんど……」


「何言うとんのや、わいらは甲子園でも、みなようやって一つ一つ勝ってこれたでないで」


 決勝の前夜、浮き足立つナインの一言一言に、腰の座った受け答えをするキャプテン梅吉。梅吉の言葉を聞いていると、カノは名状しがたい不安がいつの間にかどこかに消えていった。ウチら、明日もいつも通りやればいいのだ。


 そう、この日のミーティングで、後藤監督は、明日の決勝のスターティングメンバーに梅吉を指名したのだった。


「荒岡」


 梅吉は主戦投手の肩をたたいた。


「淀商は一番から九番まで気の抜けん強力打線やけんな、絶対弱気になって、球置きにいったりしたらあかんでよ」


「わかった」


「板東」


 梅吉は準決勝までマスクをかぶり続けた板東に声をかけた。


「試合前のシートノックをよう見とけよ。鉄壁の守備陣やいうても、絶対どこかに弱点はあるもんやけんな」


「はい」


 板東は梅吉と入れ替わりで三塁コーチャーに入ることになった。今日まで一点を争う試合を繰り返し、この役割が文字通り勝敗を分けることを板東はひしひしと実感していた。


 隣村の高等小学校を出て美馬農林野球部に入った当時、板東は正直なところ、狸部員の群れを見て何やこいつら? と思ったものだった。村では何かものが無くなったりおかしなことが起こるたびに、やれ狸に化かされたの狸のせいじゃの、決まってそんな話になっていた。走り込みやノックがきつくなると、人間はアゴを出し、狸は尾を出した。最初は板東も他の部員たちも、そんな狸たちを胡乱に感じていた。それでも毎日一緒に厳しい練習に臨み、監督に叱られ、車座でメシを食いしているうちに、かれらがたまに尻からちょろりとのぞかせる尻尾や坊主頭のてっぺんの耳など、何のふしぎもない日常の光景になっていった。


 去年の夏の県大会の前に、狸部員たちは公式戦に参加し、甲子園を目指すためにこぞって人間の名を名乗ることになった。古くさい狸名から垢抜けた名に変わった朋輩に、板東も他の部員たちもますます親しみを覚えるようになった。

 練習試合で、審判に「かのうよしゆき」と呼ばれて「うわ! ほんま映画スターみたいや。ウチ、恥ずかしいな」と言いながら打席に向かった加納は、抜群の選球眼で四球を選ぶと、持ち前の快足で塁から塁へと走りまくった。


「田岡も河野もほんま、全然狸に見えんなあ」


 先輩たちにそない言われて、田岡雄一こと平助も河野衛こと七兵衛も照れ臭そうに笑っとった。堂々と勝負して自分にマスクを譲った梅吉といい、ほかの狸たちといい、本当に頼もしくかけがえのない仲間たちだと心から思えるようになった。



 ……みっちゃん。


 海四は行李の中のおミヨに呼びかけた。おミヨは過去世からゆっくり抜けると、行李の中からそろそろとはい出て「うゆん」とひと鳴きした。


 ――みっちゃんは対外試合の時は何て呼ばれてたん?


 ――谷一ミヨですよ。ああそう、ミヨは何やらゴツゴツした難しい漢字使うてたな。ああ思い出せん、忘っせたわー。試合ん時は谷一くん谷一くん呼ばれてましたよ。そう、一番センター谷一くん、なんて感じ。うわ、めっちゃ懐かしいわあ。


 ――そうなんや。


 ――狸は化けてナンボの商売やけん、名前だってきっちり化けるんです。


 ――そうやね……


 鷲の門の方から、湿った空気を伝って阿波おどりの鳴り物の音が響いてきた。

 夏は刻々と近づいている。

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