第9話 差別なんて、微塵もなかった

 梅雨の季節がやって来た。


 人間は雨を鬱陶しがるが、大概の野生動物は冬場や豪雨でない限り、あまり意に介しないのが普通だ。狸学校・太刀野山農林高校タチノーでも、どしゃ降りでなければどの運動部も普通に外で練習をしていたし、時に山を下り芝生しぼうまで出かけては神通力で雨を呼び、イタズラをしかけては里の女たちからご馳走やらおやつやら巻き上げたものだった。濡れたところで、変化へんげを解いて狸に戻れば、身震いひとつで毛についた水はきれいに払い落とせる。


 その夜も雨が瓦屋根をたたく音を聞きながら、おミヨは行李の中で丸い毛玉になってうつらうつら眠っていた。


 雨ごんごん! 雨ごんごん!


 雨を呼ぶ呪文を唱えながら、数匹の狸が運動場を走り回っている。ざあっと降り出した雨に、村の子どもたちは頭を抱えてあたふたと近くの家の軒下に逃げ込んでいく。狸は次第に人間の少年たちの姿に変化して、降りしきる雨の中、広い運動場をわが物顔で占領し、傷んだ夏みかんをボールに見立てて棒切れを振り回して野球の真似事をしている。……何やろ? 自分の一番近くにいて、自分が一番よく知っているはずの狸たち。


 いまひとつすっきりしない目覚めの中、おミヨは行李からふらりとはい出ると娘姿に変化して、店のテレビをつけた。古いテレビの画面にも雨が降っている。


 テレビ番組は地方ニュース、夏の県予選間近ということで高校野球特集だ。いくつかのチームの紹介のあと、蜂須賀商業が登場した。今大会の最有力候補という触れ込みで、エース投手の紹介でもするのかいなと思っていたら……時折揺れる画面に映ったのは、捕手の防具を身に付けた二人の選手だった。

 雑音混じりのアナウンサーの声が切れ切れに聞こえる。三年の梅沢と二年の近藤、近藤の方が一回り大柄だ。お互いに競い合い、高め合うよきライバル同士、という紹介だった。


 おミヨの胸が、とくんと鳴った。


「みっちゃん、朝のごはん、おみいさんしかないんやけど、ええで?」


 海四みよんが台所から顔を出した。


「海四さん、冷蔵庫のちっか切ります?」


「ああ忘っせとった。あれええ加減に食べななぁ」


 居間に広げたちゃぶ台の上に、海四がおみいさんの鍋をおく。おミヨは入れ替わりに台所に入り、冷蔵庫から竹輪ちっかを出して竹筒を抜いた。


 ……甲子園で勝てるメンバーにするなら、蜂商の監督は、二人のうちのどちらを選ぶのだろうか? とおミヨは竹輪を切りながらぼんやり思った。


   ***


 夕方、おミヨと海四は誰言うとなく二階のセラピー室に向かった。おミヨが狸の姿に戻って行李に入ると、海四はその傍らに座り、水晶の玉を引き寄せた。


「みっちゃん、今度は美馬農林に入る前に移動するでよ。……、いち、に、さん」


 パチン。


 ……神社の広い境内、子狸の頃の遠い記憶……あの頃はカノも梅吉も平助も七兵衛もみな思い思いに人間の子に化け、重清村しげきよそんの子どもたちに混じっては、鬼ごっこに相撲に草野球にただもう夢中になって毎日を過ごしていた。


 子狸たちは、ときどき美馬農林のグラウンドのまわりをうろうろしては、飛んでくるボールを虎視眈々とねらっていた。

 ある時、カノは草むらの奥の奥までもぐり込んでボールを見つけ、小さな鼻先で懸命に外まで押し上げた。わあ! これ新しいボールやん! 子狸たちは大喜びでうゆんうゆんと歓声を上げた。早うみなを呼んで野球やろう! と頭に木の葉を乗せて人間の子どもに化けたとたん、見上げるような背丈の美馬農林野球部員たちに囲まれた。

 カノが思わずボールを胸に抱きかかえると、野球部員たちはカノの首根っこをつかんで早くボールを返せ! と迫った。


「嫌や! 嫌や! ウチ野球やるんや!」


 カノはボールを必死で握りしめ、梅吉はカノの襟首をつかんだ太い腕にしがみついた。平助と七兵衛は部員たちに羽交い締めにされ、地団駄を踏んでわあわあ泣いた。

 騒ぎを聞きつけた大人の人が学校の方からやって来た。運動服姿のその大人は、いきり立つ部員たちをたしなめ、子狸たちを学校のグラウンドまで引っ張っていった。そして一匹ずつバットを構えて打席に立つよう命じた。

 うわあ、野球させてくれるんや! と子狸たちが喜んだのもつかの間、バットは長くて重く、そして投手の球は目がくらくらするほど速かった。みな一様に速球に肝をつぶしバットに振り回され、右に左によろめいた。七兵衛などは思い切り尻もちをついた拍子にバットがガツンと頭に当たり、黒い尻尾を出して半べそをかいていた。


 その時、七兵衛の尾をつかんで思い切り引っ張ろうとした部員を厳しく叱咤し、


「このボールはおまはんらにはまだ早い、早よ大きいなって美馬農林に来い、ほしたら一緒にやろうやないか」


 と子狸たちに言った、あの大人の人が後藤稀直まれなお監督だったのだ。


 からだの黒い毛がおとなと同じ茶色に変わり、子狸を卒業する時分になると、カノも梅吉も七兵衛も平助も、あのボールで野球がやりたいその一心で、美馬農林に入るために大の苦手の勉強に励んだものだった。


 ――ウチらは人間の受験生に化けて晴れて合格、美馬農林初の狸生徒になったんです。ウチらを皮切りに、後輩の子狸たちも続いて入学してくるようになりました。


「あはは、ウチも、野球やりたくて太刀野山農林タチノーに入ったようなもんやし、狸の考えることって、ホンマ昔も今もそう変わらんなあ」


 おミヨは海四に一言そうつぶやくと、再び目を閉じて過去世に戻っていった。


 ――最初はやれど狸だの狸公だの言うて言うてしとった野球部の先輩たちは、ウチらにおかしなことを言うたびに後藤監督に厳しく叱られておりました。ウチらも、練習が辛うて泣きそうになるたびに決まって「泣くんやったらもう練習せいでええ!」とよう喝を入れられました。


 他の学校やら職場やらでは、住んどる地域によって、あこの人と関わったらえらいことになるだの、あこに行ったらあかんだの、つまらん差別がずいぶん残っとります、ほなけんど、美馬農林だけは不思議とそんなことは全くありませんでした。人と狸の関係も同様でした。


 差別なんてものは、本当に微塵もなかったんです。それもみな、岡田校長や後藤監督みたいな人のおかげです。


 おミヨを通じてカノが語る言葉を聞きながら、海四の表情に影が差した。カノの話に一点の虚偽もないことは百も承知だったが、どこかはらはらさせられる心許なさを禁じ得なかった。


「みっちゃん、徳島県予選の決勝戦に移るで。……いち、に、さん」


 海四は指を鳴らした。ビジョンには、おミヨと初めてセラピーを行った時の最初の画像――蔵本球場での対蜂須賀商業戦――が映し出された。


 「徳島県学生野球史」によると、美馬農林はその夏の県大会決勝で蜂須賀商業に惜敗し、甲子園への切符を手にすることはできなかった。カノは俊足強肩を生かした華麗な守備で追加点を許さず、板東は制球に難のある武市をよくリードした。蜂商のエースから唯一のヒットを放ったのは、九回裏に代打で打席に立った藤川梅吉だった。


 梅吉が塁上で両の拳を突き上げている姿を最後に、ビジョンは次第に暗くなり、おミヨは過去世から眠りの世界に移っていった。


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