MINO 1930s

第8話 ウチの名は

「……みっちゃん、少し前に戻ってみるで?」


 おミヨは行李の中でこくんとうなずいた。


「ほな、前の日に移るでよ……いち、に、さん!」


 おミヨが目を閉じると、海四みよんはパチンと指を鳴らした。

 扉を開くと、おミヨは美馬農林学校の校舎にたたずんでいた。窓の外を眺めながら、この学校を作るために、美馬郡重清村しげきよそんの山間部にこれだけ広い敷地を確保し、グラウンドまで造成することがどれだけ大変だったろうかと、改めて胸がいっぱいになった。


「カノ」


 ……そや、ウチの名前、カノいうんやった……


「七兵衛、平助」


 振り返ると、野球部の朋輩の七兵衛と平助がいた。


「今度の試験、赤点だけは取らんようせなな」


「そや。狸やいうてバカにされとうないし、……それに、ウチ、野球したいし」


 カノは最初の試験で赤点を取って後藤監督にこっぴどく叱られたことを思い出していた。


「カノ、名前考えたで?」


 平助がだしぬけに話題を変えた。


「名前?」


「そうじゃ。公式戦出るのにわいら狸だけ、重清平助やら重清梅吉やら重清七兵衛やら重清カノじゃどもならん、て後藤監督に言われたやろ?」


 自分の暮らす村の名を、そのまま名前の上に乗せて名乗るのが、狸たちの通例だった。


「……ほうやな。ほなけんどどないしよう、監督に考えてもらおうか」


 カノは困ったような顔つきで平助と七兵衛を見つめた。


「わいは校長先生の名前もらうことにしたわ。先生の名前、岡田一雄じゃけん、字ぃ入れ換えたら田岡雄一や。ええ考えやろ」


「うわ、完璧な人間ネームやん」


「平助、頭ええなあ」


 カノと七兵衛は感嘆の声を上げた。


「ついでにカノのも考えたるわ。カタカナのカノのままじゃ、おなごの名前じゃけんよけい都合悪いな。……そや、思い切ってカノカノにしたらどや」


 平助は黒板に「加納佳之」と書いて見せた。


「うわ、これウチの名前? かっこええなあ、映画スターみたいや。ありがと! 平助」


 カノは平助に抱き着かんばかりに飛び上がった。七兵衛はあれこれ考えた末に担任の先生の名字をもらって「河野衛かわのまもる」に決めた。新しい名前を書いた紙を手に、肩を組んだ三匹は、意気揚々と部室に向かった。


 半分ほど開いたドアから、中の様子が見えた。


 ――監督の前に梅吉がいる。深刻そうな雰囲気に、三匹は部室のドアの外で息をひそめた。


「藤川」


 ――梅吉のやつ、苗字を藤川にしたんやな……


「藤川、その手じゃ無理や。しっかり治してこい」


 ――!


「監督、わいはいけます! 公式戦のために、こうやって人間の名前も考えて来ました」


「あかん。休まなならん時は、きちんと休め。球捕ったりバット振るだけが野球ちゃうぞ」


「わいは試合に出たいです!」


 梅吉はすすり泣いていた。


「梅吉! 今日……今日だけは、やめとき!」


 カノは部室のドアをぱんと開けた。


「ウチは知っとるんじゃ。おまはんがずっと……」


 梅吉が右手を振り上げた。カノは梅吉の目の前に出ると、ぐっと顔を上げた。


 乾いた音がした。


「これで気ぃ済んだか?」


 カノは左の頬っぺたを押さえもせずに、梅吉を正面から見すえた。


「藤川、行くぞ」


 後藤監督は立ち上がると、部室を出た。梅吉はその後ろについて、救護室の方へ消えていった。


 ――みっちゃん。


 海四の声が頭の中で響く。


 ――みっちゃん、この先行っても大丈夫で?


 ――大丈夫です。行かないかんです。


 ウチら、グラウンドにおります。練習着の左胸には、監督が布切れに筆で書いてくれた人間名が縫い付けてあります。


 ウチは「加納佳之」――監督は、「かのうかの」ではなく「かのうよしゆき」と読むのだと教えてくれました――、平助は「田岡雄一」、七兵衛は「河野衛」、新入部員の太助は「山本太助」、そして梅吉は「藤川梅吉」。梅吉は左手が良くなるまでまだボールは触れんけど、練習に出られてほんまに嬉しそうです。


 監督は、ウチらはグラウンドでは狸名ではなく人間名で呼び合うよう、また人間の部員たちには、早くウチらの新しい名前を覚えるように言われました。最初はどうしても馴染んできた狸名が先に出ましたが、公式戦を目指す中で、次第に人間の名前に慣れていきました。


 海四は揺らぎはじめたビジョンを目の端に置きながら、おミヨの様子を窺った。表情も呼吸も安定している。


 ――ビジョンが再び焦点を結び始める。海四は青いアンチャンティーを一口すすると、そこに視線を向けた。


 ……ミーティングの様子だ。夏の大会のレギュラーが、後藤監督から発表されている。投手が剛球の武市、捕手が……三年の板東、と発表されたところで、後ろの方から「どうしてですか!」という声が上がった。


 一年生部員の太助だった。


「なんしに梅吉先輩やないんですか!」


「蜂商に勝てるメンバーを選んだ」


 後藤監督は部員ひとりひとりを見渡しながら言った。


「なんしに梅吉先輩では勝てんのですか! 狸ではあかんのですか!」


 監督の言葉を弾き返すように太助が叫ぶ。


「あほ!」


 監督に食い下がる太助の胸ぐらを掴んだのは、梅吉だった。


「梅吉!」


 カノは梅吉の左腕にしがみついた。


「やめんか」


 監督が低い声で言った。


「わしは、ずっと藤川と板東のことを見てきた。山本、お前よりずっと長くな」


「わいは山本なんかとちゃう! 重清村の太助じゃ!」


 太助は胸の名札を引きちぎらんばかりに掴んだ。


「黙れ太助!」


 梅吉の左腕がカノを振り回した。


「やめい梅吉!」


 カノは振り払われぬよう必死でしがみついた。


「山本、藤川、加納! これ以上騒ぐなら、ここから出ていけ!」


 監督が三匹をにらみつけた。

 梅吉は二匹を引きずるように部室を出ると、まっすぐグラウンドに向かった。


「監督」


 声の主は、主戦投手の武市に次ぐ長身の選手だ。


「何だ、板東」


「自分が、藤川先輩と山本に、監督の話を納得させます」


「どないして?」


「……これ、借ります」


 板東は防具一式とバットを手にとった。


「よかろう」


   ***


 グラウンドでは、カノがマウンドに上がり、右打席には板東が立っている。その後ろに梅吉が座り、小柄な身体に大き過ぎる防具を身につけた太助が球審の位置にいる。


「太助、しっかり判定せえよ」


 梅吉は太助に念を押した。


「梅吉、マスクぐらいせんで?」


 マウンドからカノが声をかける。


「いらんいらん、お前のへろへろ球やかし当たったところでどうもないわ」


「――ほな、始めましょう。十球ずつで二回交代、これでいいですか?」


 板東の言葉に三匹はうなずいた。


「加納のストライクの数、やな」


 梅吉は右の拳でミットをパンと叩いた。


「さあ来い!」


 カノは梅吉の構えるミットに向かって力一杯投げ込んだ。


「……ボール」


 外角に大きく外れる。投手など、子狸の頃の草野球以来だ。外野からのバックホームとはいささか勝手が違う。


「加納、初めてにしてはなかなかええ球やんか、その調子じゃ! 球置きに行ったらあかんぞ」


 最初の十球が終わり、捕手と打者が入れ替わる。梅吉より頭ひとつ近く体格の良い板東がミットを構えると、にわか投手のカノはその的の大きさと安定感に、こんなに投げやすさが違うのか、と驚いた。


 ――約束の球数が終った。太助は、カノの決めたストライクの数が、ふたりの捕手の間で倍以上違う事実に愕然としていた。


「太助、わかったか」


 梅吉の言葉に、太助は座り込んでわんわん泣き出した。


「蜂商に負けたら、こらえんぞ」


 梅吉は太助から外した防具を、板東の方に突き出した。


「わかった」


 板東は踵を返して部室に戻っていった。カノは梅吉の顔をまともに見ることができなかった。


「太助、監督に謝りに行け」


 梅吉は泣きじゃくる太助に声をかけた。


「山本が、そんなに嫌か?」


「……」


「嫌ならええ、野球もやめればええ」


 太助は驚いたように顔を上げた。


「嫌や!」


「お前、監督に山本ちゃう、重清村の太助や言うたな」


「山本や呼ばれても、わい自分のような気がせんのです……」


「お前、いつまで重清村の太助のままでおるつもりや? 蜂商に勝って甲子園行って優勝して、日本一の山本太助になりとうないんか?」


 太助ははっとした顔で梅吉を見つめた。


「監督が、重清の山から日本一に、言うて山本にしてくれたの、忘れたんか?」


 カノは胸の痛みを振り切るように、部室に戻る梅吉と太助の後を追った。


 ――その日の練習で、三匹は一日グラウンドの隅で正座させられた。


 セラピーが終わり、海四はビジョンを閉じた。

 おミヨはタオルケットにくるまって過去世の中をたゆたっている。

 薄暗いセラピー室で、海四は深いため息をついた。


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