第6話 ヤマなしオチなしイミなし

 翌日、おミヨは大きな荷台のついた自転車に乗って台所まわりの買い物に出掛けた。ヒプノサロンいせきが店をかまえる民家の元の住人が残した無骨なフォルムの古自転車は、見た目に反して軽やかで安定していて、乗り心地は悪くない。


 ひとわたり買い物を終えたおミヨは、一計を案じて蜂須賀商業まで足を伸ばした。球音を頼りにそろそろと自転車を進め、そっと野球部の練習をのぞく。

 太刀野山農林タチノーの倍はいるだろうという部員の数。それをかいくぐるように、おミヨはダイヤモンドの要の位置へ目を移した。


 ――いた。


 次の瞬間、おミヨの心拍がいきなり加速し始めた。


 ここに長うおったらあかん!

 

 おミヨは自転車にまたがるとその場を離れ、大急ぎで店に戻った。


 あんたが一番よう知っとる……海四みよんさんは、昨日のセッションのあとそう言うてた。ほなけんど、タチノー野球部におった時、ウチのポジションはキャッチャーでなくてセンターやったし、過去世でも同じやったことはうっすら覚えとる。第一、梅沢喜一は化狸でも何でもなさそうや。

 ――ほなら何なんやろ?


   ***


 おミヨと入れ違いに、海四は駅前に出るとバスに乗って県立図書館に向かった。立ち並ぶ書架の前で、赤いランドセルを背負った小学校高学年くらいの少女が、立ったまま分厚い本とにらめっこしている。飛田穂洲とびたすいしゅう『学生野球とはなにか』というタイトルが海四の目に飛び込んできた。

 少女は重い本を書棚で支え、ゆっくりページをめくっては活字を追う。海四は同じ書架の前で歩みを止め、上から下へ目をすべらせた。


 この世界で、いったい誰が誰に何を求め、どのようにしてそれを奪い取っているのだろうか。


 海四はそろそろと少女の立っているあたりに手を伸ばし、一冊の本を引っ張り出した。『徳島県学生野球史』と太ゴシック文字が無愛想に並ぶその本の目次を開いた。


 ――美馬農林。


 その活躍は1930年代。全国中等学校野球優勝大会――甲子園には五回出ている。県大会決勝で蜂須賀商業に敗れた翌年の記述を見ると、美馬農林は宿敵蜂商を破って甲子園への切符をもぎ取り、しかも初出場でいきなり決勝戦まで進み、大阪の強豪・淀川商業に惜敗している。いやはや……スポーツに縁の薄い父親でさえ知っているだけのことはある。


 記念写真を見ると、準優勝盾を囲んで並ぶ選手の中に数匹の化狸が混じっているのが、海四の目にありありと映った。名前を見ると、昔話風の狸名に人間風の苗字を乗せていたり、姓名まるごと人間風にしたりしている。藤川梅吉、田岡雄一、河野衛、加納佳之、といった具合だ。


 ランドセルの少女は相変わらず小難しい表情で飛田穂洲とにらめっこしている。


 海四は写真を見つめながら、化かされ、目眩まされているのは果たしてどちらなのだろうか、とふっと思った。


   ***


 駅前であたりやの大判焼きを買って、海四が店に戻ったのはすっかり夕方になっていた。おミヨの淹れた阿波番茶ともろともに大急ぎで大判焼きをかじると、夜の予約客のセラピーを行う。


 片付けをして風呂に入りしているうちに、すっかり夜が更けた。店の時計がボンボン鳴るのを聞きながら、海四は居間の押し入れから布団を出して敷いた。おミヨは変化を解いて狸の姿に戻ると、二階から下ろして来た行李のふたに入り、中のバスタオルにくるまった。


「みっちゃん、あんた飛田穂洲って知っとる?」


「ああ、学生野球の父とかいう人ですね。飛田穂洲がどないかしましたん?」


 おミヨは行李の中で夏毛の尻尾を振った。


「図書館にえらい立派な本が並んどったけん……あんた、古い人のことまでよう知っとうなあ」


「実は、ずいぶん前にタチノー野球部の先輩で、イタズラの血潮が沸いたか何かで、その飛田穂洲に化けて徳島県高野連の事務所に行ったもんがおったんですよ。ほなけんど誰にも気づいてもらえんづくで、化かし損のくたびれもうけや、ってがっかりしてもんてきたって、そんなしょうもない話があったんですわ」


「動物愛護でも訴えに行くつもりやったんやろか?」


 海四は仰向けに寝そべったまま、ころころと笑った。


「おおかたそんなとこかも知れませんなぁ」


「県高野連のお歴々も、飛田穂洲なんて古い人、顔までは知らんかったのかもしれんねぇ」


 店の前の大通りを通る車の音が、次第に途切れ途切れになってゆく。


「そう言や、今日びの野球部員も、沢村栄治とか言うてもそれ誰? や言う始末やしなぁ。去年の春の大会で、相手の先発ピッチャーの背番号が14じゃったけん、ウチ、何の気なしに沢村の話をしかけたんじょ。ほしたら向こうさん、真面目な顔して「ナルキョーの発達保障論の先生やろ!」なんて答えてくるけん目ぇくるくるしましたわ。鳴門教育大の沢村球児教授と完全に勘違いしよる。まあ教授の下の名前もホンマよう言わんのやけど」


 ヤマの狸学校の卒業生から、障害児教育の泰斗・沢村球児教授の名前がぽんと飛び出したことに、沢村ゼミの学生だった海四はおミヨとの不思議な縁を感じていた。


「ウチな、そのピッチャーの子に、え? 共生共学論? ってわざとすっとぼけて聞き返してな……ははは……」


「ははは、そらホンマよう言わんわ。……みっちゃん、いけずは大概にしいや」


 海四は布団の上を転がりながらくつくつと笑った。


「それにしても沢村先生なつかしいな、あの先生、自己紹介する時に必ず「地球の球に、児童館の児」ってごっつう強調するんじょ。沢村ゼミで、そのモノマネがめっちゃうまい先輩がおった」


「沢村栄治の沢村、野球の球に、高校球児の児ぃ」


「あかん、みっちゃん、それ言われん……ははは……」


 ヤマもオチもイミもない、たわいのないおしゃべり。海四とおミヨは四畳半の天井を見上げてはころころ笑い転げた。

 胸いっぱいに広がるぬくもりに包まれるように、しゃべり疲れたひとりと一匹は、中庭から差し込む月あかりの中ですうすう寝息を立てはじめた。


   ***


 次の日、蜂須賀商業野球部マネージャーから二回目の予約が入った。おミヨは動悸を鎮めるために、中庭のペパーミントを採って紅茶の葉と一緒にポットに入れると、沸かした井戸水を一気に入れた。ポットの湯気から立ち上る匂いをかぎながら、カップに注いで一口ずつゆっくりと飲む。


 予約時間が近づくと、海四はおミヨに眉山びざん錦竜水きんりょうすいを汲んでくるよう頼み、自転車の荷台に空のペットボトルを四つくくりつけた。


 おミヨは自転車にまたがると、なぜか眉山と反対方向にこぎ出した。向かったのは蜂須賀商業のグラウンド。今日はオフのようで、この前と違って人影が見えない。ああそうか、それであの子、予約入れられたんだ。


「おーい喜一、今日もいけるで?」


「いけるいける、今行くけん」


 グラウンドの隅から声が聞こえてきた。練習着姿の野球部員が三人。ひとりは捕手の防具を着けている。自主練?

 ひとりがマウンドに向かい、もうひとりがバッターボックスでバットを構える。捕手はあの梅沢喜一だ。


「先輩、お願いします」


 投手が打者と捕手にお辞儀をする。


 ペパーミントティーが多少効いているのか、かろうじて様子を伺うことはできる。それでもじきに目まいが始まって、長居はできなかった。ピシピシとミットが球を捉える音を背に、おミヨは眉山に向かって自転車をこぎ出した。


 錦竜水をペットボトルいっぱいに詰め、しっかり荷台にくくりつけると、おミヨはもと来た道をたどりはじめた。


 徳島本町に入る立体交差が見えはじめるところで、おミヨはふと誘われるように道をそれ、再び蜂須賀商業グラウンドに向かって走り出した。

 グラウンドを覗くと、投球練習は終わったようで、誰もいなくなっていな。ああ、みんな上がったんやな、と思って再び自転車にまたがろうとした。


 グラウンドの隅から水の音が聞こえてきた。目を移すと、水道のところに梅沢喜一がいた。顔でも洗うてるんやろか?


 ……違う。水道を全開にして、腕を――左肘から先を洗って……いや、冷やしている。


 おミヨは一目散に徳島本町へとペダルをこいだ。

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