第2話 井関海四

 裏の扉が開き、濃い藍染めの作務衣に身を包んだ三十前ぐらいの女性があらわれた。 


「ここから上がり! みっちゃん」


 扉の中は広いコンクリートの土間で、右の端に小さな井戸が、視線の先にはこぢんまりとした中庭が見えた。海四は左側の上がり口からコの字形の屋内に入り、おミヨはそれに続いた。


   ***


 三木病院を退院し学校に復帰した数日後、おミヨは冬毛でもっこりふくらんだ進路主任の先生に呼び出されたことを思い出した。


「あんなぁ、卒業後の進路がまだ決まってへんの、おまはんだけなんや」


 と進路主任は進路指導室の書棚に鼻先を突っ込むと、一枚の求人票をくわえて差し出してきた。ここは徳島市内のヒプノセラピーサロンで、お客の前世を見る仕事なんやけど、おまはんは神通力もそこそこ使えるじゃろう。仕事柄これからは娘姿に化けなならんのやけど、どうで? と尋ねられた。

 おミヨは耳をぴょこりと動かして即答した。


 「先生、ウチな、もう作業員のおっさん姿だけはこりごりや」


 春まだ浅いこの日、人間の女子高生に化けたおミヨは、冬毛の替わりにリクルートスーツに身を固めた進路主任に徳島本線の江口駅まで連れていかれ、がらんとした駅の待合室で就職の面接に臨んだ。


 徳島方面より到着した汽車からただひとり、黒いダウンジャケットを着たショートカットの若い女性が降りてきた。

 軽やかな足どりで女性が待合室に入ってくると、二匹はぱっと立ち上がり、ぺこりとお辞儀をした。


「はじめまして! ヒプノサロンいせきの井関海四いせきみよんと申します」


 火の気のない待合室の空気が、ふんわりと温かくなった。


 この人が……?


 おミヨは小鼻を膨らませ、さりげなく匂いを確かめた。まだ春先なのに、夏風のように爽やかな香りがかすかに鼻先をくすぐった。


 井関海四は二匹に浅葱色の名刺を差し出した。


「た……谷一たにいちミヨです……よろしく、お願いしますっ!」


 おミヨは名刺を両手で受け取ると、ぴょこんと大きく一礼した。二つにくくったお下げ髪が首もとで跳ねる。


「あら、ほんまかいらしい子やねえ」


 海四の視線が、セーラー服姿のおミヨのまんまるい瞳と合わさった。


 「――これほんま、変な名前やろ?」


 海四は名刺を指さすと、パチンとスイッチが入ったように話し出した。


「私、四人きょうだいでな、いちばん上の兄さんが海一かいち、上の姉さんが海二みにい――なんやどっかのネズミみたいやな。ちい姉が海三みさ、おとんぼのうちが海四みよん、なんや」

 

 海四はおミヨの、肉球が浮きかかった両手をとった。


「……そや、私な、家でいつもみよちゃんみよちゃん呼ばれとるけん、あんたのこと、みっちゃん、て呼んでええで?」


「はい」


 おミヨは吸い込まれるようにうなずいた。


「よかった、これで決まりや」


 え?


 おミヨは、ぽかんとした顔で海四と進路主任を交互に見つめた。


 「みっちゃん、よろしくね。待っとるけんな」


 化学ばけがくの時間に習った変化へんげ術や神通力をなにかテストされるのかと思っていたが、拍子抜けするくらいあっさりと採用が決まった。進路主任の先生はホッとした拍子に冬毛の尻尾をちょろりと出していた。


   ***


 次の日から、おミヨは中庭に植えられたハーブの世話、ハーブ茶の淹れ方、セラピー室の整え方などを教わり、セラピスト見習いのスタートを切った。


 セーラー服は店の奥にある大きな押し入れにしまい、娘十八番茶もなんとか、の化け姿に明るい藍色の作務衣を身にまとった。


 店舗は表の引き戸を入ったところに、左に板張りの待合コーナー、右に受付カウンター、古びた机の上にはメモ用の小さな黒板と黒電話がある。施術はその右奥の扉の先、階段を上った二階にある二間続きの和室で行われる。


「みっちゃん、階段かなり急なんやけど、足、大丈夫で?」


 海四はイノシシにやられたおミヨの左足を気遣った。


「大丈夫です。手すりありますし」


「急がいでええけんな、安全第一や。しわしわ行きや」


 海四はおミヨの方を振り返って声をかけると、黒光りする階段を上った。おミヨは手すりに手をかけると、ゆっくりとあとに続いた。


「先生、立派な欄間ですね」


 二間続きの和室に施術用の寝台がひとつあり、その横のテーブルには大きな水晶玉が乗っていた。


「……みっちゃん、あんな、頼むから先生はやめてくれへんで? うちもまだまだ新米のセラピストやし……そやな、海四さん、ぐらいでどうで?」


「……はい……み……海四さん……」


 おミヨと海四はばつの悪そうな顔を見合わせると、肩をすくめてくすっと笑った。


「この欄間も、一階のカウンターも、それから天井も、今上った階段も、みなほんまに立派な木ぃやろ?」


「はい。ほんまに立派なものです」


 林業科を出たおミヨは、この建物の建材がそんじょそこらのものとは違うことが一目でわかった。桜の一枚板のカウンター、見事に木目のそろった天井、黒光りする急勾配の階段、開け閉てするたびからからと気持ちよい音の出る入口の引き戸……。


「この家はな、みな太刀野山の木材で出来とるんじゃ。前住んどった人がもともとヤマの人でな……」


 海四は二階の床の間の柱を撫でながら言った。


「そや、あんたがヤマから来たのも、きっと縁、いうもんやな」


   ***


 去年の七月のある晴れた日、海四は蔵本の病院で検診を受けた帰りに、公園に入って木かげのベンチでひと休みした。すぐ近くの野球場からは球音と歓声が響いてくる。試合は夏の高校野球の徳島県予選で、サロンの近くにある県立の進学校と、三野町の太刀野山農林高校との対戦だった。野球のルールは一通りわかるが、だからといってさして興味があるわけではない。しかしその時、海四は太刀野山の四文字に吸い込まれるように入場券を買い中に入った。


 太刀野山応援席は背番号のないユニを着込んだ補欠と、それからOBが数人駆けつけているだけで、実に閑散としている。

 海四は後ろの空席に腰を下ろした。


 ――あれ? この強烈なけもののにおいは……?


 普通の人間にはわからない動物――化狸の気配を、海四ははっきりと感じ取った。それにしてもまあそろいもそろって、耳もヒゲも尾も、毛一筋出さぬ見事な化けっぷりだ。


 ……そういえば前に、西阿そらの方に狸の学校があるという話を小耳に挟んだことがある。

 ああ、ここがそうなんや!


 選手たちはと言うと、姿かたちは相手チームとなんら変わりなく見えるが、相手にはない「何か」が一通り備わっているのが手に取るように伝わってくる。


 中でも海四の目を引いたのは、センターを守るどんぐり眼の選手だった。快足を飛ばして難しい位置に上がった浅いフライをランニングキャッチするや、外野からそのままノーバウンドでホームに送球、相手の追加点を阻んだ時は、さして応援している気もないのに、知らず知らずのうちに拍手を送っていた。


   ***


 ヒプノセラピーいせきのクライアントは女性限定で、一日に多くて午前、午後、夜間の時間帯にそれぞれ一名ずつしかとらず、セラピー料も他のサロンに比べ決して高くはない。当然収入は大したことなく、人を雇う余裕などどこにもないはずだった。それでも時折、一筋縄ではいかぬ過去世をもつ者が訪れてくることがあり、海四は一人で全てを回すことに限界を感じはじめていた。


 この間海四は店先にセラピスト募集のポスターを貼ったり、職安に求人を出して何度か面接もしたが、なかなかこれといった人は見つからなかった。


 梅の花がほころび始める頃、海四は桜材のカウンターを撫でながら、ふとあの試合を思い出した。


 そや、太刀野山農林高校に求人を出してみよう、人間にこだわる必要などどこにもないでないで。

 なぜかわからないまま、そう思い立った。

 農業でも林業でもない、あさっての方向の業種だ。それでも、なんとかなる、という根拠のない自信があった。


 果たして、求人票を出してものの十日も経たぬうちに店の黒電話が鳴った。電話の先で、太刀野山農林高校進路主任が申し訳なさげに、江口駅まで出ては来られないか、と打診をしてきた。


 リクルートスーツをぱりっと決めた進路主任の教員に連れられてきたのは、田舎くさいセーラー服姿の、どんぐり眼の女生徒だった。


 ふと目が合った。

 ふっとよぎるけだもののにおい、そして、すうっと吸い込まれていくような感覚。


 この子や!


  ――面接で何を話したか、海四はほとんど覚えていなかった。はっきり記憶しているのは、谷一ミヨの名と「みっちゃん」の愛称を決めたこと、そして就職が決まってにっこり微笑むおミヨともう一度目が合った時に、全身をふわりと包み込んだえもいわれぬ温かさだけだった。

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