重清狸ばなし
野栗
ヒプノサロンいせき
第1話 谷一ミヨ
春、三月。
阿波池田発の汽車が、車輪をキュルキュルきしませ終点の徳島駅にすべりこむ。半自動のドアから古びたホームに吐き出された乗客たちは、まっすぐに一つしかない改札口へと向かう。
誰ひとりとして江口駅からしれっと乗り込んだ化狸と一時間以上も同乗してきたことに気づかぬまま、乗客たちは駅員に切符を渡すとそそくさと昼過ぎの街へ散っていった。
セーラー服姿のおミヨは野球ボールのマスコットをつけたエナメルバッグをよいしょと抱え、どんぐり眼をぱちくりさせながら一番最後に改札を通った。
背の高いヤシの並木と
おミヨは駅前のバス乗降場に目をやり、手にした地図を確かめた。
「ああ、これはバスに乗らいでも、十分歩いて行けるわな」
地図をしまうと、おミヨは左足を軽く引きずりながら左側の道に向かった。跨線橋の赤茶色い階段をゆっくり登って徳島城公園の中に入り噴水広場を抜け、くろぐろと聳える鷲の門をくぐった。
地図によると、目的地の「ヒプノサロンいせき」はこのすぐ近く、徳島本町の大通り沿いの寿司屋とレンタカーショップの間だ。
寿司屋の隣を見ると、誰も住んでいなさそうな二階建ての古びた瓦屋根の家がある。そのすぐ先はレンタカー屋。看板の類はどこにも見当たらない。
おミヨは恐る恐る引き戸を叩いてみた。
「ここやろか?」
おミヨはふと、鍵穴の上のところに白い小さな札がかかっているのに気づいた。筆記体の洋字がミントグリーンの顔料で流麗にしたためられている。
「ISEKI」の文字をたしかめたおミヨは、もう一度、とんとん、とんとん、と扉を叩いた。
誰も出てこない。
春風がおミヨのお下げ髪とセーラー服の赤いスカーフを揺らした。向かい側の警察署と裁判所のものものしい建物と、大通りの車の列に圧倒されながら、おミヨはどうしたものかと思案した。
ふいに背後から、ぶおんぶおんとすさまじい排気音が襲いかかってきた。今まで暮らしてきたヤマ――三野町
ファンッ! ファンファンファンッ!
追いかけるように響き渡るけばけばしい改造車のクラクションに二度ビックリ、その拍子に歩道を闊歩する勤め人風情のおっさんの群れにぶつかりそうになる。
「あっ!」
おミヨは大きく左によろけた。
エナメルバッグが足元に落ち、野球ボールのマスコットがぴょんと跳ねた。
――!
尻の真ん中におなじみの感覚が走った。おそるおそる店のガラス戸に自分のうしろ姿を映すと――ああ、しまった!
あの、ふさふさのものがプリーツスカートの裾から顔をのぞかせている。
――えらいこっちゃ!
おミヨは素早く左右を確かめると、大急ぎでバッグを後ろ手に持って尻を隠し、はみ出た狸の尻尾を引っ込めた。
***
おミヨは昨日、狸学校・タチノーこと徳島県立太刀野山農林高校の卒業式を終えたばかりだった。おミヨの学科は林業科。しかし卒業後の就職先は、林業とは全く関係のないこの街中のヒプノセラピーサロンだ。
去年の、そう、紅葉が舞い始める頃だった。おミヨたち林業科三年の狸生徒たちは山に分け入り、枝打ち作業をしていた。
この作業、狸の姿のままではどもならんので、いつも人間の作業員に化けて行っている。おミヨも実習林に着くや作業員のおっさん姿に化け、のこぎりを担いでするすると木に登り、枝打ちに余念がなかった。
この日、おおかた仕事を終え、切り落とした枝をまとめて片付けていた――その時。
大きな猪が作業を終えた生徒たちの集まる方に向かってものすごい勢いで突っ込んで来た。気がつくのが一瞬遅く、逃げる術もなく人間の姿のまま山の斜面で凍りつく三年生たち。
一番最後に木から降りてきたおミヨは、とっさに足元の石を拾うと、猪に向かってひゅん! と投げつけた。
石は猪のすぐそばを掠めた。
なんだと? やる気か?
猪は一瞬で方向転換し、今度はおミヨめがけて猛進してきた。
次の瞬間、おミヨの身体が宙を舞った。
林業科の教員たちは大怪我したおっさん姿のおミヨを戸板に乗せると、一散走りでつづら折の山道を下った。江口の潜水橋を渡って吉野川を越え、そのまま対岸の三木病院におミヨを担ぎ込んだ。
「おミヨ、治るまで
「……痛い……」
「おミヨ、治り切る前に狸に戻ってしもうたら、傷が余計におかしいなってまうけんな」
「……うん……」
養護教諭の言葉に、無精ヒゲ面のおミヨは弱々しくうなずく。
三木病院のお医者さんは
「うちは一応産婦人科で、外科の看板も出しとるけど、ここで開業した以上、そんなん言うてられへんけんなあ。虫下しも処方するわ眼医者の真似事もするわ、じゃ。ほなけんど、ヤマの化狸の外科手術やかしわしも初めてじゃわ」
とからから笑っている。
おミヨはまるまる三ヶ月入院した。治療で何が苦しいかって、傷の痛み以上に、それはもう、おっさん作業員の変化を一瞬たりとも解けんことやった。
おとこ衆に化けること自体、おミヨは二年半タチノー野球部で、練習や試合のたびに高野連の注文通り丸坊主の高校球児に化け続けてきた立派な実績がある。化けるだけなら、それはもう赤子の手をひねりながら冷めたおみいさんをするする食べるようなもんだった。
しかし、ただのおっさん、そのへんの主婦、平凡なサラリーマン、平均点の中高生、みたいな狸にとって何ともイメージの作りにくい「普通の」人ほど、始末に負えぬものはない。
第一、作業してへん作業員のおっさん、ってホンマ何なん?
おミヨは病室で
「ウチはホンマは東京の大富豪の御曹司じゃ。あと三年もしたら執事がお父様の跡を継ぐ時が来ました言うて、
「ほんで都心のタワーマンションの一番上に住むんじゃ……ほなけんど地震がゆったらちとおとろしいな」
などなどしょうもない妄想に耽ることで、辛うじて変化を維持しておった。
見舞いに来た担任や野球部の
「あー、こんな適当なおっさんに化けるんやなかった。もっとイケメンの若い衆にすりゃよかった。ほんでジャ〇ーズにスカウトしてもらうんや。先生、ウチ今から化け直せるやろか?」
とぼやいて「あほ」と突っ込まれしているうちに、傷はすっかり良くなっていった。
しかし、残念なことに左足に少し後遺症が残ってしもうた。
学校に復帰したのは卒業を間近に控えた二月末。
この足では山仕事は到底無理だ。
進路部(これは生徒の部活ではなく教員の校務分掌)の奔走が実り、卒業間際にようやく徳島市内のヒプノセラピーサロンへの就職が決まった。
***
おミヨはこうしておっても仕方がない、裏に回ってみるか? とレンタカー屋の前を通り、大きな陸橋の手前を左に折れた。最初の角を曲がって、狭い道を恐る恐る進む。
……ここが裏やろか?
黒ずんだ板張りの勝手口の扉を、とんとんと叩いた。
「どちらさんですか」
扉の向こうから張りのある声が響き、サンダルの足音がパタパタと近づいてきた。
「あの、太刀野山から来ました、
おミヨはタチノーに入学して最初の
「ああ、ヤマからの子やね」
勝手口がパッと開く。
「ようおいでなして。さ、早よ入り」
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