ご近所トラブル引受人

浅賀ソルト

ご近所トラブル引受人

 傷だらけのアウディが住宅地の月極駐車場つきぎめちゅうしゃじょうに停められている。4つの輪っかのエンブレムが有名な車で、ものによるが800万円くらいする高級車だ。俺はその車の斜め前から歩いて近づいていったのだが、遠くからでも分かるくらいはっきりと前輪の上の車体が凹んでいて、さらに左側だけでももう3つくらいぶつけた跡がある。一番後ろに付いた傷は他の車に引っ掛けたまま強引に前進して曲がろうとしたもののようだ。ぶつかってすぐに停止すればこんな傷にはならない。

 そしてフロントガラスには『不正駐車』という張り紙が貼りつけてある。A4サイズの紙にパソコンでデカい文字を印刷したものだ。それをビニール袋に入れて防水した上で四辺を——四隅ではない。四角の形にびったり——黄色い養生テープで貼り付けてある。貼っているのは左ハンドルの運転席の中央。絶対にドライバーの邪魔になるというど真ん中に貼り付けてある。不正駐車という文字の下には、ちょっと小さいフォントで電話番号が印刷されていた。

 そんな状態だが廃車でないことも一目で分かる。フロントにもぶつけた跡はあるが、錆は浮いていない。塗装が剥げているだけだ。塗装を修復した形跡はどこにもないので、近いうちに錆びていくだろうが。

 俺はその車の正面に立ち、ボンネットから屋根の方までだけ見た。右側は見ない。駐車場の入口からそっちは反対側で遠い。そっちまで回り込む必要は俺にはない。

 この駐車場はコインパーキングを兼ねている。アウディが停められているのはストッパーのない契約者用のスペースだが、入口側には6台分の一時利用スペースがあり、料金を払う機械がポツンと立っている。駐車場の両隣は民家で、新築ではないがボロくもない普通の家が建っている。再開発が進み地価は高くなっているが昔からの住民はまだ残る。立ち退いたところに小遣い稼ぎで駐車場が作られるという、再開発地域によくある風景だ。

 契約者用のスペースならストッパーがないので停め放題だ。もちろんそこに車があれば停められない。しかし空いていて契約者が戻ってくるまでだったらバレない。ちょっとだけということで恥知らずであればこういう不正利用をやってしまう。バレないと思っての一か八かの勝負に負けると、正当な利用者が車を停められず、泣き寝入りしない利用者であれば管理会社経由でクレームが入る。ちゃんと金を払っているのに停められないぞ、どうなってるんだ、ってことだ。もちろんこのクレームは正しい。悪いのは勝手に停めている馬鹿だ。管理会社がトラブル対応の手続きをする。

 俺は煙草に火とつけて、駐車場の中で深々と煙を吐いた。くわえた状態で両手首のストレッチをする。指もほぐす。俺が人を痛めつける前にやる習慣のようなものだ。これをすると気持ちのスイッチが入る。今回の目標はアウディの持ち主だ。ただ俺の雇い主は駐車場の管理会社ではない。このアウディが停まっているスペースの契約者でもない。このアウディによる利害関係者ではない。

 ちょっと近所で買い物がしたいからとか、コインパーキングの数百円がもったいないからとか、そういうかわいい不正利用は日本中で日常的に起こっている。張り紙と車体の傷から分かるように、このアウディの持ち主はそんな代物ではない。数年にわたってこのあたりの駐車場の人のスペースに車を停め続けて、どんなに注意されても開き直って——むしろ注意されて意地になった——不正利用を続ける70歳過ぎの狂女である。3台分のスペースに横に停めることもあるというのだからどんなヤバさか分かるだろう。車をどかすのは本人が車を使う用事ができたときだけ。用事がなければどんなに注意されても動かさない。そして動かすときに虫の居所が悪いとその辺の車にわざとぶつかってへこみや擦傷を作っていく。ぶつける車の持ち主が注意してきたとかそういう因縁はない。面識が1つもない人の車であっても本人の目の前に停まっていたらぶつけてくるのである。

 そんなわけでこの駐車場にはアウディ以外の車は停まっていない。コインパークスペースも空だ。もっともコインパークの方はただの偶然だろうが。

 警察沙汰にももちろんなっている。

 近所の人間は困り果てている。見てないところで車をぶつけてきて、注意してもまったく話が通じないのだからどうしようもないだろう。その女性も最初からそういうわけだったわけではない。昔からの顔馴染みで、おかしくなる前は普通のいい人だったという。普通の人間ならモメたいわけがない。

 俺の依頼主は困り果てた近所の住人でもない。その親戚や友人でもない。田舎だとそういうご近所トラブルは噂話になって拡散しやすい。それを聞いて同情した赤の他人が、「じゃあ俺が一肌脱いでやるよ」と請け負って俺に解決を依頼してきたという背景である。俺は地元の人間ではない。その老婆の顔も知らない。写真もなかった。受け取った情報はアウディのカーナンバーだけだ。

 そしてその老婆、野澤美紀子が本日これから車で出掛けるという調べはついている。駐車場の防犯カメラも今日は故障している。

 依頼主の名前はここでは書かないが、依頼を受けるのは初めてではない。こういうトラブルを聞くと俺に連絡を寄越して金をくれるのだ。ストーカー被害、ご近所のゴミ捨てトラブル、騒音被害、そういうモヤモヤが解決するのを聞くのが楽しいらしい。だから俺もこれから老婆にすることは細かく報告するつもりだ。俺の報告を依頼主は楽しみにしている。できれば老婆が捨て台詞や憎まれ口を叩いてくれるとありがたい。あたしを誰だと思ってるんだい?とか、こんなことをしてどうなるか分かってるんだろうね?とか。

 ま、大抵はびっくりして目を真ん丸にして、何も言わないんだけどね。何が起こっているのかも分からないし、なぜ自分がこんな目に遭うのか分からないって顔をする。人間は不意打ちに弱い。こんなに弱くて大丈夫なのかと心配してしまうほどだ。

 煙草が短くなってきた。火がついているうちにやって来てくれたらこの煙草も使えるんだが、ババアは歩くのが思ったより遅い。

 吸殻を地面に捨て、ぎゅっと音を立てて踏み消す。野澤美紀子が駐車場の入口から入ってきた。

 いい服を着ているのは分かった。タイトなグレーのスカートに花柄の入った白いシャツ。上には芥子色からしいろのジャケットを羽織っていた。バッグはエルメス。肩まで伸びた髪にパーマを当てているが、艶はなくウェーブが落ちて貧乏くさくなっている。化粧はばっちりで、不自然に白い顔にアイシャドウも入れて口紅は真っ赤だ。スナックのママだとすればばっちりだが、生憎こいつはそういうのではない。

 ストッキングに包まれた痩せた脚にはパンプスを履かせていた。

 野澤美紀子はこちらをじろりと見た。警戒心の塊のような醜悪な顔だ。鬼滅の刃に出てきた、なんとかいう卑屈な鬼に似ている。

 バッグから鍵を出し、しかし車のロックは解除せずに俺から目を逸らさずに車に近づいていった。

 俺は老婆と同じテンポで車に近づいていった。はたから見たら俺が車に乗せてもらう約束をしていたように見えただろう。もっとも俺は助手席に近づいたわけではなく運転席に近づいていた。

 老婆はバッグの鎖をぎゅっと掴んで、「なんだい、あんたは」と甲高い声で言った。かなり緊張している。

 俺はさらに数歩近づいた。逃げようとダッシュしても駐車場の中で捕まえられる距離になっていた。

「あんたが野澤美紀子さん?」

 名前を言うとババアはこっちをまじまじと見た。俺の足元から顔まで視線を動かす。目が合ったが返事はなかった。

 俺は続けた。「この数年、このあたりの駐車場や路上で違法駐車を繰り返している?」

「仕方ないだろう。これまで停めてた場所が使えなくなったんだ」老婆はノータイムで言い返してきた。この反論は何回もしているという感じだ。

「この数年、このあたりの駐車場や路上で違法駐車を繰り返している?」

「だから使っていた場所が使えなくなったんだ」老婆は相変わらずの金切り声だった。「誰も使ってないところがあるんだからあたしが使っても誰にも迷惑はかけてない!」

 俺はほんのちょっと——ほんのちょっとだけ——声を低くした。「この数年、このあたりの駐車場や路上で違法駐車を繰り返していますか?」

「なんだ! 馬鹿の一つ覚えみたいに!」

 俺はじっと顔を見た。軽く手を上げる。演説をする大統領が群衆を静かにさせるようにゆったりと。

 老婆はその手の動きを目で追っていた。

 俺はたっぷり時間をかけて手のひらを老婆に見せた。手相が見えるように。指紋が見えるように。敵意がなく、武器を携行せず、攻撃の意思がないことを示すように。

 老婆は俺の手をじっと見て、それから俺の顔に視線を戻した。

 俺は手のひらを見せた大統領演説の姿勢のままもう一度言った。「この数年、このあたりの駐車場や路上で違法駐車を繰り返していますか?」

 う、と小さい声を漏らした。老婆の反応はそれだけだった。

 俺はソバージュとも呼べないクソみたいなウェーブヘアを掴むと、老婆の顔面をアウディに叩きつけた。

 板金のゴッという鈍い音がして、「ぐえっ」と老婆は潰れた声を出した。やっと出たまともな反応だった。

 老婆が手に持っていたアウディの鍵が地面に落ちてカチャと音を立てた。俺は老婆の髪を掴んだまま反対の手でそれを拾った。開錠する。後部座席のドアを開けると、中に老婆を突っ込み、ハンドバッグだけはひったくった。若い女の拉致監禁のときは色気のある瞬間だが、老婆がバックシートに横になっても色気も興奮もなかった。チンポのかわりに油圧ジャッキでも突っ込んでやろうかと思った。

 いつもならどこかに拉致してゆっくり苦しませる。だがこの車で移動すると確実に追跡される。防犯カメラのないここで済ませる方が楽だ。楽しみが一つ減るがしょうがない。

 ハンドバッグを落とし、俺も後部座席に乗り出す。バックシートの女を押し倒す感じになった。そこから老婆を後ろ向きにして首に両手を回して一気に絞めた。両手をバタバタさせるがこれだと引っ掻かれる心配がない。問題は後ろからだと首が絞めにくいことだ。指を食い込ませて喉の方を潰す。親指じゃないので力が入らない。首にはそこそこ肉があって中の気道を押し潰すという感覚にはなかなかならない。実際には血管を絞めて血流を止めている。ところがこの痩せたババアは弾力がなかった。鶏肉とかトンカツをナイフで切るときの押し返す感じがほとんどない。これは映画で観たような首の骨をぽきっとやる奴ができるのではないかと思った。

 俺は首から手を離した。老婆はゲホゲホと咳こんだが大声を出せる様子ではなかった。助けは要らない、酸素をくれという感じ。

 確か映画だとこう……。

 俺は老婆の背中に乗り、頭のてっぺんと顎に両手を当てた。左右に回す感じでぐいっと力を込める。

「うげえ」

 適当にやったので老婆はただ苦しんだだけだった。いかんいかん。俺は老婆の頭の角度を元に戻し、今度は一瞬に全力を込めた。タイヤのナットを締める要領だ。握力測定のときのあの感じ。

「ぐげげげ」

 しかしこれも老婆が苦しむだけだった。悲鳴が絞るような潰れるような、ぜいぜいした感じになっている。口のまわりがねじれるように歪んでいる。死ぬときのキュッという感じとは程遠い。俺はしょうがないからその状態からギリギリと力を維持して捻っていった。スマートにポキッといかないなら時間でやるしかない。首を捻っていくと伸びてはいけない首の長さが伸びた手応えがあり、そこからやっとバキっという手応えがあった。抵抗が一気になくなった。音は耳で聞くものではなく、手の感触でババアの体内から聞こえてくる感じだった。内部で骨が壊れた振動が伝わる感じである。

 とにかくこれで一つは終わった。後部座席に老婆を横にしておく。車そのものは駐車場にあると処分が面倒なので出さないといけない。俺のポケットにはペットボトルがある。

 俺はバッグを拾った。運転席に乗り込むと、助手席に放る。拾ってポケットに入れていた鍵を出してエンジンをかけた。

 高級車の音がした。ちゃんとシートベルトを締める。傷だらけでも走り出しはスムーズだ。ドライブといっても1分も走らない。駐車場から2回曲がれば広い通りに出る。まだ住宅街だが、ここなら車が燃えても他には火は移らない。家まで燃えると面倒になる。

 俺は路肩に停車し、マスクとサングラスをして路上に出た。後部ドアを開ける。ポケットからペットボトルを出すと、蓋を外した。ガソリンときつい臭いが鼻をつく。俺はそれを老婆の上で逆さまにした。ぶんぶんと振って掛けるとよくない。逆さまにして静かにドバドバかける方が燃えやすい。500mlを全部空にすると、車の中から体を出した。これも大事だが、身を乗り出して、車に体を入れた状態で火を点けるのはおすすめしない。やれば分かる。俺は髪を燃やした。

 ライターで火を点けると一気に老婆が燃えた。くたびれたパーマ髪が最初に燃えてものすごく臭い煙を出す。

 俺はすぐに離れた。これで全部終わりだ。

 もちろん残りもある。こういった経緯を依頼主に報告することである。今回だと『初めての首折り』がエピソードの中心になるだろう。キュッと捻ったらコロっといきましたと捏造した方が依頼主は喜ぶかもしれない。しかし「ぐげげ」って悲鳴を上げて、「もう違法駐車はしない」と謝って、俺が「いまさらそんな嘘を信じてもらえると思うのか?」とすごんだ話にした方がウケるかもしれない。

 両方を混ぜてもたぶんウケるだろう。コロっと死んだあとで、「もうしない。すまなかった」と老婆は泣いて謝るのだ。

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